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熊おやじの日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-09-20

「人を助けて我が身たすかる」を再考するー生物学的本質主義に向けてー

「人間文化研究所所報」44号(2018年9月刊行)

<題名>「人をたすけて我が身たすかる」を再考する−生物学的本質主義に向けて−

<著者>熊田一雄(宗教文化学科)

 私はかつて、「人をたすけて我が身たすかる」という天理教の信仰指導を実行に移したら、長年苦しめられてきた不安障害パニック障害)が治癒したという天理教信者の体験談を分析して、天理教で「おたすけ」を行う際の「たすかりたい」から「たすけたい」という視点の転換には、一種の「認知行動療法」の側面がある、と論じた(熊田2012)。今もその考えに変化はない。しかし、その後、他宗教の事例や医学情報を知るにつけ、「助け合う」ことには、一種の「認知行動療法」の側面があるだけではなく、もっと大きく、人間という社会性動物は、お互いに「助け合う」と健康になるように設計されているのではないか、という「生物学的本質主義」の見解を抱くようになった。この小論では、その間の事情を説明したい。

 1935年にアメリカで誕生し、その後世界中に広がったアルコール依存症患者の自助グループAA(Alcoholics Anonymous)は、アルコール依存症だけではなく、現代の様々な依存症の自助グループの原点ともなったという点で、宗教史上重要な存在である。AAの出発点は、以下のような二人のアルコール依存症患者の出会いである。


1935年、オハイオ州アクロンで二人の男の出会いがあった。当時二人とも絶望的な酔っ払いと見られていた。彼らの知り合いたちにとってもそれは恥ずべきことだった。一人はウォール街の腕利きで、一人は名うての外科医だった。二人とも死にそうなほど酒浸りになっていた。それはそれは数多くの「治療法」を試し、何度も入退院を繰り返していた。確かに彼ら自身から見ても、もう手の施しようがないように思えた。

 お互いが知り合ってから、ほとんど偶然に、驚くべき事実をつかんだ。その事実とは、お互いが相手の手助けをしているときには、飲まないでいられることだった。二人はこの考えを得て、病院のベッドに閉じ込められたアルコホーリクの弁護士のところへ話に行った。その弁護士もやってみる気になった。

 この三人はそれぞれの生活の中で、アルコホーリクの手助けを次々に続けた。手助けが望まれないこともあったが、彼ら自身にとってその試みは値打ちのあるものだった。なぜなら、たとえ「患者」は飲み続けていたとしても、自称「援助者」は飲まずにいられたからだった(AA日本ゼネラルサービス1979、p177)。


 なぜ「お互いが相手の手助けをしているときには、飲まないでいられる」のかは、神学的に「人たすけて我が身たすかる」という天理教の宗教的教義によっても説明できるだろう。また、心理学的にそれを一種の認知行動療法(社会構築主義)と言い換えてもよいだろう。しかし、次のような医学的情報となると、もっと大きく、人間という社会性動物は、お互いに「助け合う」と健康になるように設計されている、と生物学的本質主義に依拠しなければ、もう説明がつかないのではないだろうか。


 ある実験では実は人に親切にする行動を1か月間1日3回行うと、寝たきり予防に効果があるというデータが出たそうです。

 人間は昔から群れで行動し、協力し合って生き残ってきたため人に親切にするということは仲間と暮らしていくうえでとても大切でした。

 そのため人に親切にするということが体にとっていい影響があるようにプログラムされているんだそうです。

 人は常に体の中で炎症が起きていますが、人とのつながりが少ないと体に起こる炎症が強くなることがわかっています。

日本の実験でも、寝たきりの危険度を調べた実験で

・運動なし人とのつながりなし

・運動だけあり

・つながりだけあり

・運動ありつながりあり

の4つのグループでは、運動ありつながりありのグループが最も危険度が低く、運動なし人とのつながりなしのグループが危険度が最も高くなっていました。

 また注目すべきは運動だけありとつながりだけありのグループで、普通に考えたら運動だけありのグループの方が寝たきりの危険度は低くなりそうですが、実際は人とのつながりだけありのグループの方が危険度が低かったという点です。

つまり1人でしっかりと運動するよりもグループで軽めの運動をしたほうが介護予防に効果があるというわけなんですね(「ガッテン究極の寝たきり予防法!人とのつながりが対策になる!」)。


 約20万年前にアフリカで誕生した現生人類は、「集団で狩りをする」(オオカミの真似をしたという説もある)ことによって、狩猟採集時代に一気に増殖した。約1万年前に農耕社会に移行したが、農耕も集団でなければ不可能な仕事である。さらに、脳が大きくなりすぎた現生人類は、他人の手助けなしには、産道を通過させて「出産」することも難しい。こうした条件下で、「助け合わない」個体は自然淘汰され、「助け合う」と健康になるように遺伝的に設計された個体のみが今日まで生き延びたのではないだろうか。

 もちろん、こうした「助け合い」を生物学的本質主義によって説明する進化心理学的・医学的仮説は、医学的研究のさらなる蓄積によって裏付けられる必要がある。しかし、「人間関係の希薄化」が進行する現代の先進国の現状を見るにつけ、「助け合い」についてのこうした生物学的本質主義による説明は、人間性についていかにも的を射た説明のように思えるのである。


<参考文献>

AA日本ゼネラルサービス『どうやって飲まないでいるか』AA日本出版局、1979年

熊田一雄「不安障害の信仰治療について―天理教の事例から―」『愛知学院大学文学部紀要』41号、愛知学院大学、2012年

ガッテン究極の寝たきり予防法!人とのつながりが対策になる!」

https://hamsonic.net/bedridden-2/2018年6月28日アクセス

2018-09-19

「天理教教祖と<暴力>の問題系」を再論する

愛知学院大学大学文学部紀要48号原稿(2019年3月刊行予定)


<題名>「天理教教祖と<暴力>の問題系」を再論する

<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)

<Title>Rethinking “The Foundress of Tenrikyo and Violence”

<Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor, Department of Religious Culture)


<要旨>

 天理教教祖の中山みき(1798-1887)は、年老いてから、男性信者としばしば力比べを行い、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。本論では、第一に社会的弱者・困窮者の救済を目指した自分の宗教運動が、貧窮者の現実の暴動にならないように、教祖は力比べを行う必要があったと論じる。また、ジェンダーに基づく暴力に関して、教祖は、妻は夫を立てるべし、とは言っていなかったことを確認する。最後に、現在の天理教子ども食堂の取り組みを紹介する。


<キーワード>

天理教教祖/力比べ/民衆による暴力/ジェンダーに基づく暴力/子ども食堂


―いちに百姓たすけたい

 学者・高山、後回し(中山みき


1.教祖の幼少期と暴力

 池田は、教祖の幼少期と暴力との関係について次のように説明している。


 今年(熊田註;1998年)は天理教の教祖中山みきの誕生二百年にあたる。教祖は寛政一〇(一七九八)年四月一八日に、大和の国山辺三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の庄屋をつとめる前川半七・きぬ夫婦の長女として生まれた。

 教祖の誕生した寛政年間は、いわゆる寛政の改革が行われた時代である。天明の大飢饉とその後の物価騰貴で幕府や諸藩の財政は疲弊しだし、商業資本の成長は農民の土地放棄に拍車をかけ、幕藩支配体制の危機をもたらした。そこで幕府は、極端な緊縮政策に基づく幕藩体制の建て直しを図ろうとしたが、財政基盤の弱い諸藩は倹約と年貢の取り立てぐらいではとても財政再建など望むべくもなかつた。逆に厳しい倹約は人々の不満をつのらせ、各地で一揆や打ち壊しという騒動が頻発するようになった。

 教祖が誕生する二年前の寛政八年には、西三昧田と同じ津の藤堂藩領の伊勢一志郡で三万人の農民が一斉蜂起するという騒動が起こっている。また、誕生翌年の寛政一一年には、旗本山口官兵衛所領の農民たちが三昧田から一里も離れていない岩室村の源兵衛方を襲って打ち壊しをするという大騒ぎが起こっている。こうした農民騒動の噂は三昧田をはじめ近在の村々でも人々の話のたねになったにちがいない。

 わけても、父半七は後に藤堂藩より無足人に列せられ苗字帯刀を許されているが、同時に目付庄屋を兼ねていたようでもあり、農民騒擾には特に敏感であったと思われる。ともあれ、教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない(池田士郎「まえがき」池田・島薗・関1998、p5)。


 「教祖誕生の頃の前川家でも一揆や打ち壊しが話題になったであろうことは想像に難くない」ことは、生育期の多感なみきにいや応なく暴力の問題を真剣に考えさせたことだろう。


2.天理教と民衆による暴力

 池田は、天理教と暴力の関係を次のように説明している。


 天理教の教祖中山みきの生きた時代は幕末から明治維新にかけての動乱の時代である。特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった。教祖の周辺の大和においても、文久三(一八六三)年の八月に公卿中山忠光を擁した天誅組が五条の幕府代官所を襲撃し倒幕を目指す内戦の口火を切った。翌年の元治元(一八六四)年五月五日には、教祖の生家がある三昧田村で幕府の間諜とみなされた絵師冷泉為恭が長州浪人の手によって暗殺されている。

こうした体制変革の担い手は公家や武士といった特定の階級だけではなく、特に幕末期には一揆や打ち壊しという形で庶民階層にまで広がっていった。ある研究者の統計によれば、一揆の発生件数は「慶応三か年に限れば年平均は四四・三件となり、江戸時代最大」となっている。それにつれて、都市の打ち壊し件数も相当数に上ったであろう。じっさい、大和の町々でも強訴や打ち壊しが頻繁に発生していたことを地方文書は伝えている。

 このような時代状況のなかで、教祖の最初の体系的な教えが「つとめ」の地歌である『みかぐらうた』として展開された。「陽気暮らし」を教える教祖は、暴力と流言の横行する騒然とした世情のなかで「こ々はこのよのごくらくや」と宣言し、不安におびえていた多くの民衆に不思議な心の安らぎを与えた。そして、平安を希求する人々の願望に一つの道筋をつけるための方法として「つとめ」を教えはじめた。時に慶応三(一八六七)年。江戸幕府が音を立てて崩れ落ちる年のことであった。この年には、教祖の膝元といってもよい街道沿いの宿場町である丹波市村でも打ち壊しが起こっている(池田2007:pp.100-101)。


 「特に、教祖が積極的に教えを展開した一八六〇年代から七〇年代にかけての日本は、テロと内戦の打ち続く世の中であった」からこそ、教祖は男性たちと「力比べ」をして「神の方には倍の力」と説いて、暴力に訴えることなく「神にもたれて通る」ことを教え諭す必要があったのであろう。

 しかし、私は池田の次の見解には賛成しない。


 教祖が「むほんづとめ」(平和を祈る歌と踊り)を教えた頃(熊田註;明治八(一八七五)年)、日本では明治維新という近代革命後の政権のあり方をめぐって旧士族の反乱が相次いでいた。明治七(一八七四)年には佐賀の乱、九年には熊本の神風連や長州萩の乱、一〇年には西南戦争が起こっている。こうした内乱は地方軍閥の武装蜂起という形をとっているが、根本的には、教祖が「高山」と呼ぶ権力者階層の覇権争いにほかならず、民衆はその犠牲者あった(同上、pp.105-106)。


 ここで池田は、「民衆は権力者の一方的な被害者であった」という旧左翼的な民衆観に囚われているように思われる。池田に欠けているのは、「<暴力>の主体としての民衆」という視点である。教祖が「むほん(謀反)」という時、もちろん「高山」(権力者)の暴力も念頭に置かれていたが、同時に教祖は江戸時代なら「一揆・打ち壊し」、明治時代なら「農民騒擾」という形で現れるような、「谷底」(民衆)の暴力も念頭に置いていたと思う。事実、教祖存命中の明治一五年から一八年ころにかけて、明治一四年に始まる「松方デフレ政策」で窮乏した各地の農村で農民の騒擾事件が続発している(長谷川1977)。


3.力試しの話―教祖による説明−

 教祖自身は、自分の力試しについて以下のように説明している。


 教祖様は、御老年に及びても、御よわり遊ばされず、時々御前へ伺ふ人々に対して、力だめしをあそばされる。

 或時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引をなされたるに、力士は、下より上段の方へ、引張られかれば、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛のものと雖も、神の方には、敵一倍、皆この通りやとお聞かせ被下。是れ教祖様、御自身の力にあらず、正しく神様の入込み給ふ事を示し給ふなり。

 又手の甲を出さしめて、御自身のひとさし指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給ふに、痛さ身にしみて堪え兼ね、恐入らぬ者はなかりしと。

 かゝかる力だめしを受けし人々は、あまたある中に、梅谷四郎兵衛様、御前に伺い、この力だめしにあひ給う時、くはしきお咄あり(1)。

『この道の最初、かゝかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々に責められて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬほうがましやと思ふた日も有つたで。よる、夜中に、そっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとしたことは、三度まで有つたがな。井戸側へすつくと立って、今や飛び込まうとすれば、足もきかず、手もきかず、身はしやくばつた様になつて、一寸も動く事が出来ぬ。すると、何処からとも知れず、聲がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねたる〃、かへれ〃」と仰有る。

 是れは、神様の仰せだと思ふて、戻らうとすれば戻られる。是非なく、そつと寝床へはいつて、知らぬ顔して寝て終わつたが、三度ながらおなじ事やつたで。それから、もう井戸はあかんと思ふて、今度はため池へいたで、したが今度は身がすくんで終わつて、どうも仕様がなかつた。すると、やつぱり何処ともなしに、姿も、何も見えんのに「短気をだすやないほどに〃、年のよるのを、待ちかねる〃、かへれ〃」と仰有るから、ぜひなく、戻つて寝てしまう。是も三度まで行つて見たが、遂に思ふように死ぬことは出来なんだ。

そこで、今日は神さんがな、けふの日をまちかねたのやで。もう八十すぎた年寄りで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がない、と誰も思ふやろう。こゝで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうない。よって、力だめしをして見せよと仰有るでな。おまへ、わしのてをもちて、力かぎり引つ張つて見なはれ』と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれ共、忽ち引上げらるゝ様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをしてみせよ、と仰有るから、してみせるのやで』とお聞かせ被下さりたりと。又仰有らるゝ に、

 『年のよるのをまちかねるといふは、一つには、四十臺や五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて話をきかすことはできんが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑ふ者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年のよるのを、えろう、お待ちかねでござったのやで』と聞かせ給ふ。尤もの事にこそ(諸井1970;pp.138-141)。


 『正文遺韻抄』はあくまで教祖についての伝承の記録である。著者の諸井政一は、教祖には会ったこともない。しかし、この部分は伝聞先が「梅谷四郎兵衛」と明記してあるので、信頼性が高い。

 天理教教祖の「力比べ」を見聞したものは、社会的不正義に対して暴力に訴えたり、天理教への迫害に対しても暴力に訴えたりする必要はなく、安心して「神にもたれて通る」信仰一筋の生活をしていればよい、と確信できただろう。


4.天理教は暴力を肯定したか?

 天理教の知識人信者であった諸井政一(1876年-1903年)が、天理教の女性教祖・中山みき(1798年-1887年)についての伝承を明治時代に記録した『正文遺韻抄』には、次のような伝承が記録されている。


教祖様がきかせられましたが、

『せかいには、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじふ(熊田註;難渋、困っている人)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田注;健康状態のこと)もようこえて、しつかりしたかりもの(熊田註;親神からの借り物、からだ)やろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)。


 現在の天理教教団は、『正文遺韻抄』は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。天理大学の池田士郎氏は、この記述を教祖についての「正伝」と考えている(私信による)。しかし、教祖は直筆の原典(熊田注−天理教の聖典)『おふでさき』で、次のように信者が暴力に訴えることをきっぱりと否定している。


月日(熊田註;親神)にはあまり真実(しんぢつ)見(み)かねるで そこで何(と)の様(よ)なこともするのや

如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田注;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな

この度(たび)は神が表(をもて)い現(あらは)れて 自由自在(ぢうよぢざい)に話(はなし)するから

中山みき・村上重良1977、p151)


 これは『おふでさき』全17号中第13号からの引用である。教祖は、明治14年に始まる松方デフレによる農民騒擾を念頭においていたのであろう。この暴力否定の発言から、私は正文遺韻抄の上の記述が「正伝」であるという池田士郎氏の見解に賛成しない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません。」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。「金品の強奪」ですらもっともだというのだから、「資産家の信者が相応の献金をするのは当然」という雰囲気もある時期までの教団にはあったのだろう。

 また、原典『おふでさき』で、教祖が信者に対して


如何(いか)ほどの剛的(ごふてき)(熊田注;力の強い者)たるも若(はか)きても これを頼(たよ)りと更(さら)に思(をも)ふな


と厳しく言わなければならなかったということは、放置しておくと暴力に訴えかねない「血の気の多い」信者も多数いたからこそであろう。

 『おふでさき』や『正文遺韻抄』は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(教団用語では「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。天理教教祖が男性信者たちと「力比べ」を行って、簡単に負かしては「神の方には倍の力」と説き続けていたことの狙いの少なくともひとつは、宗教運動が暴動へと転化することを防ぐことにあったことがわかる。


5.DVの問題

 庶民の生活の生々しい苦難に関わる現世救済の宗教である新宗教にとって、信者の中でも数が多い主婦たちが被害を被っているドメスティック・バイオレンス(夫または恋人からの身体的または精神的な虐待)の問題にどう対処するかは、極めて切実な問題である。天理教のように「夫婦関係」を人間関係の基本(=「ひながた」)と考えるならば、ドメスティック・バイオレンスの問題にどう対処するかは、なおのこと切実な問題である。

 「稿本・天理教教祖伝逸話篇」には、中山みきのこの問題に対応する姿勢を窺わせる逸話が2編収録されている。逸話一三七「言葉一つ」では、男性信者に対して、「いくら外面が良くても、家で女房にガミガミ腹を立てて叱ることは絶対にしてはいけません。」とピシャリと叱りつけている。「腹を立てて叱る」だけでも絶対にしてはいけないというのだから、みきは、妻に対する身体的暴力などは言語道断、と考えていたのだろう。

 現在の天理教では、信者の女性がドメスティック・バイオレンスの被害にあっている場合は、妻を決して責めないように細心の注意を払いながら、夫婦それぞれにカウンセリングを行い、夫婦が話し合っても解決がつかない場合は「神にお詫びした上で離婚するように」と説いている(天理やまと文化会議(編)2004)。

 現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが、その一方で「稿本・天理教教祖伝逸話篇」の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもあるようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。

 高野友治が、古老からの聞き書きをまとめた労作「ご存命の頃」には、この逸話に登場する明治初め(明治元年から明治10年頃まで)の教祖について「乾やす談」(p214-222)が収録されているが、逸話三二に登場する「やすさん」は、天理教がまだ世間の嘲笑を浴びていた頃「熱心な信仰一家」に育った人である。その頃の「貧へ落ちきり」(貧乏に落ちきること)を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は、特に男性信者に関しては、世間の嘲笑を呼ぶものであった。教祖みきの夫・善兵衛、長男・秀司をはじめとして、みきについていく男性信者は、世間に「阿呆」と嘲笑されていただろう(2)。

 逸話三二は、世間の男性の基準から、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、いつの間にか文脈から切り離されて、教祖の死後、明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、中山みきが説いたように「夫婦が立て合い助け合う」のではなくとも、言い換えれば夫の方がどうであっても、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。

5.教団への迫害

 教団への迫害に関しても、教祖は基本的には非暴力主義者であった(逸話183「悪風というものは」)。


 明治十八、九年のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た(「逸話篇」、p297)


 教祖は、反対者を悪風や泥水に喩えて、非暴力を説いた。


 一同は、このお言葉に、逸やる胸を抑えた、という(同上、p299)

 

 しかし1886年には、どうしようもない状況に追い込まれて、教祖は平野楢造(1843-1907)を屋敷の常詰として彼女の護衛に任命し、自衛のために暴力を行使させている(同上、pp.305-307)。楢造は、その地域の悪名高い元やくざで、天理教に命をたすけられて、やくざ稼業からきれいに足を洗い、天理教の熱心な信者になった。楢造の伝記「道すがら」(1920)は、良いことも悪いことも正直に書いた、と述べている(p.3)。初期の天理教教団には、人々は今更ながらに天理王命(熊田注−天理教における神の名前)に敵たうた不心得者の悲惨な末路に、次のように口ずさんだ、とある。


いかほどの がうてき(熊田注−「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ 

かみのほうには ばいのちからや

(「おふでさき」3-84、「道すがら」1920、pp.74−75)。


 このことからも、教祖の「力比べ」には、信者が実際の暴力に訴えることを抑止する効果があったことがわかる。


7.現在の天理教―「子ども食堂」の挑戦―

 現在の天理教が、教祖の「力比べ」の逸話に、「力比べは、教祖が月日のやしろに坐しますという理を、姿にあらわしてお見せ下されたのである」(「はしがき」『稿本・天理教教祖教祖伝逸話篇』1976年)という説明にならない説明をしてすましているのは、もちろん教祖の至高性や独創性を強調したかったからだろう。それに加えて、教祖の場合とは違って、現在の教典を整備した東大卒の2代目真柱中山正善にとっては、<暴力>はもはや切実な問題ではなく、単に天理教はいつの時代にも「平和」を愛する教団であったと外部社会にアピールしたかったという理由もあったのだろう。

 私は既に、DVの問題に関して、現在の教団に対する疑問を投げかけた。さらに私が問いたいのは、1990年代以降のグローバル化の進展と格差の拡大という問題に関しての疑問で、現代日本における「谷底」は誰か、ということである。天理教は、「谷底せり上げ」(=社会的弱者の救済)を目指す宗教であるはずである。最近(2018)、天理教の多くの教会が、「子ども食堂」の運営を始めた(「子ども食堂のはじめ方」)。現代日本社会では、子どもの6分の1が、貧困ライン以下の暮らしをしている。私は、「親であること」を重視し、「谷底せり上げ」を目指す天理教に「子ども食堂」はとてもよく似合うと思う(3)。教団本部の指示なしに、多くの教会が自主的に運営していることにも注目したい。応援したいと思う。


<謝辞>

 この論文は、熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」『愛知学院大学文学部紀要』37号、2008年、を全面的に改稿したものである。改稿に当たっては、島薗進氏(上智大学)と池田士郎氏(天理大学)との議論から多くを学んだ。記して深く感謝したい。


<注>

(1)梅谷四朗兵衛は、天理教初期の篤信者のひとりである。

(2)池田は、教祖だけでなく、教祖の夫・善兵衛、長男・修司を含めて、教祖の一家全員を「道のひながた」(=信仰の模範)とする見解を打ち出している(池田2007)。私も、この点は池田に賛成である。天才とは、個人現象ではなく小集団現象である。

(3)2018年時点で、日本には既に3,000近い子ども食堂がある。


<参考文献>

池田・島薗・関『中山みき―その生涯と思想―』明石書店、1998年

池田士郎『中山みきの足跡と群像―被差別民衆と天理教―』明石書店、2007年

高野友治『御存命の頃』天理教道友社, 2001年

天理教教会本部(編)『稿本 天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社 1976年

天理教郡山大教会(編)『道すがら』郡山大教会、1920年

天理大和文化会議(編)『道と現代社会―現代事情を思案する―』天理教道友社、2004年

中山みき・村上重良校注『みかぐらうた・おふでさき』平凡社、1977年

長谷川昇『博徒と自由民権』中公新書, 1977年

諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社, 1970年


<参考URL

子ども食堂の始め方(天理教)

https://sites.google.com/view/eoji

(2018/09/11閲覧)

2017-06-14

女性宮家案「粉砕すべきだ」 日本会議議員懇で強い反対

http://digital.asahi.com/articles/ASK5R51C2K5RUTFK009.html?iref=btmob

女性宮家案「粉砕すべきだ」 日本会議議員懇で強い反対


*やはり、日本会議は「女子どもは黙ってろ!」というおっさん(および「名誉男性」)たちの運動ですね。象徴天皇制の存続よりも、「男性支配」の存続が優先するようです。

2017-06-12

イスラム女子の「コスプレ魂」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170607-00000005-withnews-int

イスラム女子の「コスプレ魂」 ヒジャブで「盛り髪」戒律を逆手 「ちょっとした誇り。ユニークでしょ?」


*学生の卒論のテーマとしても、コスプレは人気があります。今後、こういう人は急増するでしょう。

2017-05-30

Basic Fault

 ただ、氏には、何の瑕疵も全く無いかと言えば、この私にも、一つだけ指摘できることがある。それは、バリントの主著《Basic Fault》を氏は《基底欠損》と訳された。私からすれば、此の「欠損」という訳はいただけない。なぜなら、欠損とは、「根本的に欠けている」という意味であり、もう補いようがないからだ。テニスのフォールトだって、ルール上、線の外にでただけであって、ボールが無くなるわけではない。第一、地質学では、これを《断層》と訳している。だから、私は、《基底断層》としたい。「ズレている」だけなので、何らかの工夫さえすれば、繋がる可能性の余地があろうからである(山中康裕「中井久夫氏の人と書物のことなど」『中井久夫精神科医のことばと作法』河出書房新社、2017年、pp.86-87)。


*確かに、中井久夫氏は精神分析家バリントのいう“Basic Fault”ー精神医学でいう「境界例」と重なるところが多いーの治療に関しては、ペシミスティックすぎたのかもしれません。

バランスのよい生き方

 アルコール依存症であることを認めた断酒会員にとって、次の大きな障壁は「第二の否認」です。「第二の否認」に向き合うことは、素面の自分に向き合うこと。素のままの自分に向き合うことは身を切るように苦しい作業です。しかし、この作業によって「断酒」が確実に保証され、その先に未知の人生が開けるならば、どうしても乗り越えなければならない壁といえましょう。

 「第二の否認」への取り組みは、ものの考え方や行動の変化となって現れます。その結果、断酒、家族、断酒会、地域・職場など、自分を取り巻くあらゆる世界との関係性が変わっていきます(全日本断酒同盟パンフレット「『二つの否認』を解く」)


*断酒会が、AAと同様、宗教たるゆえんです。