田山花袋『蒲団』について その2

 その1のような事実があったとしても、『蒲団』は、同時代的には、「此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」として、「美醜矯める所なき描写が、一歩を進めて専ら醜を描くに傾いた自然派の一面は、遺憾なく此の篇に代表させられてゐる」と見なされた(島村抱月『蒲団』合評)。

 二葉亭四迷『平凡』なども、トルストイ『クロイツェル・ソナタ』以上に、二ヶ月前に発表された、この『蒲団』の影響を受けていたと言われる。

次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎(よだれ)のように書くのが流行るそうだ。(中略)で、題は「平凡」、書方は牛の涎。(『平凡』)


 橋本治は、明治四十年の新聞での国木田独歩の発言に基づいて、二葉亭の「牛の涎」は、この時期「自然主義自然主義!」のお題目の元に、大量の短編小説を発表しだした無名の新人たちを指している可能性を示唆しながらも、やはり二葉亭の発言を引き出すほどの作としては、「『蒲団』くらいしか思いつかない」という(『「自然主義」と呼ばれたもの達』)。おそらく、牛の「涎」というたとえも、『蒲団』の女の「油」や「汗」の「匂い」に呼応したものだろう。

 ただ、二葉亭は、その高名な「小説総論」のテーゼ「模写といえることは実相を仮りて虚相を写し出すということなり」以降、自ら実践した言文一致運動においても、実は一貫して、言語が魂や内面を「赤裸々」に表象=代行することを「懐疑」してきたはずだ(「併しどんなに技倆が優れていたからって、真実(ほんと)の事は書ける筈がないよ」(「私は懐疑派だ」))。

 したがって、たとえ『平凡』が、『蒲団』をきっかけとした告白の流行の中にあったとしても、中村光夫も言うように、「「平凡」の思想が「蒲団」のそれと、反対の方向をむいている」(『二葉亭四迷伝』)ことは疑いもない。『平凡』は、『蒲団』批判でもあったのだ。

 したがって、二葉亭の「牛の涎」が、花袋『蒲団』への悪口や揶揄であり、『平凡』が『蒲団』の影響下にあるというのは矮小化だろう。その後喧しく議論されることになる、「『蒲団』は赤裸々な「告白」か否か、私小説か否か」といった問題設定自体が覆い隠してしまう、言語そのものの問題を露呈させる「もの」として、それはある。

 『蒲団』の「匂い」は、その後圧倒的なヘゲモニーを握っていくことになる。その強烈な『蒲団』の「匂い」に、当時唯一拮抗し得る「匂い」として、二葉亭の「牛の涎」はあったはずなのだ。「牛の涎」は、蒲団の「匂い」ほど、透明ではない。

中島一夫