安保法案審議で前哨戦 夏成立へ与党強気 民維連携、徹底抗戦 - 47NEWS(2015年5月26日)

http://www.47news.jp/47topics/e/265613.php
http://megalodon.jp/2015-0526-1616-34/www.47news.jp/47topics/e/265613.php


集団的自衛権行使を容認する安全保障関連法案の衆院本会議の審議入りを前に、与野党は25日、激しい前哨戦を展開した。論戦の場となる衆院特別委員会の日程をめぐり、夏までの法案成立を目指す自民党は強気の姿勢を崩さない。世論対策にも力を入れる。民主党と維新の党は「1回の国会で成立させるのは無謀」(維新幹部)として、連携して徹底抗戦する構えだ。

「想定外」を一蹴 IAEA報告書 「国際慣行に従わず」批判 - 東京新聞(2015年5月25日)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015052502000146.html
http://megalodon.jp/2015-0526-0907-23/www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015052502000146.html

【ウィーン=共同】「勧告した安全評価を十分実施しなかった」「国際的な慣行に従わなかった」。国際原子力機関IAEA)がまとめた東京電力福島第一原発事故の最終報告書は、東電や規制当局の認識の甘さを痛烈に批判している。
事故当時、東電や日本政府からは「想定外」との弁明が相次いだ。
しかし、IAEAは日本が何十年にもわたり原発の安全性を過信し、発生の確率が低い災害などに十分備えてこなかったと一蹴した。
IAEAは福島の事故前から、加盟国に対し原発の安全性を評価する際、機器の故障などが大事故に至るすべての可能性を把握する確率論的安全評価(PSA)の適用を勧告。二〇〇七年の専門家による訪日調査では「日本には設計基準を超える事故について検討する法的規制がない」と指摘し、過酷事故に十分備えるよう求めていた。
しかしIAEAの勧告や助言を受けた抜本的な対策は取られず、報告書によると、第一原発ではPSAを十分適用せず、非常用ディーゼル発電機などの浸水対策が不足。十年ごとの定期安全レビューでも地震津波予測の再評価が義務付けられておらず、過酷事故への対応や安全文化の見直しも含めて「国際的な慣行」に十分従っていなかった。
福島の事故後、中東のヨルダンが「原発の建設予定地を地震が少ない場所に変更」(同国原子力委員会幹部)するなど各国は新設・既存の原発の安全を強化している。

重い精神疾患に苦しみ、一時生活保護を受ける苦難の末「ゲームの理論」でノーベル経済学賞受賞の数学者・経済学者ジョン・ナッシュJohn Forbes Nash博士交通事故で死去(86歳)(大貫康雄さん) - NO BORDER(2015年5月26日)

http://no-border.co.jp/archives/32943/

ナッシュ博士は、プリンストン大学大学院応募の際の推薦文に大学の恩師が「この人物は天才だ」としか書かなかったとの逸話がある。
ノーベル経済学賞の授賞理由となったのが若きナッシュ博士らの「ゲームの理論」。博士らは、多くの者が関わる紛争・対立に関する研究から、相互に利得のある経済行動、駆け引きのメカニズムにまで広げて理論化したと言われる。
(筆者が正確に詳述するのは不可能だが、)本業の数学の分野でも、難問を解決するなどめざましい貢献をしたと評価されている。
博士の生涯は有為転変の人生だった。
29歳にしてMITの教授(終身職tenure)に就任するも束の間、30歳の時、偏執狂型精神分裂症(統合失調症ともいわれる)に襲われ、31歳でMITでの職を失う。
絶頂からいきなりどん底に突き落とされたような、なす術がない転落。
一時アメリカ・ヨーロッパを放浪後、徐々に回復。32歳でプリンストン大学に復帰するが、その後も精神科への入退院を繰り返す。
学界からも忘れられ、生活保護で暮らす期間もあった。
この間アリシア夫人は一時離婚、一人の同居者となりながらも終始ナッシュ博士を支えたと、いう。
22歳の時のゲームの理論が評価され94年、2人の学者と共にノーベル経済学賞を受賞するが、この賞金で生活困難な状態から脱したとも言われる。
博士自身は、自分は数学者でありノーベル経済学賞はそれほど大事な賞とは思っていなかったとも述べている。
ナッシュ博士の死去は突然だった。
今年5月23日アリシア夫人と共に乗ったタクシーの事故で夫人と共に死去。
博士が最も研究に没頭した、その数学界最高の賞、数学界のノーベル賞とも言われるアーベルAbel賞を受賞。
5月19日授賞式のためノルウェーオスロを訪れ帰国した直後だった。
博士が数学界、経済学界で画期的な業績を挙げたのは若い10年ほどの間、世界に評価されるのはその何年も後のことだった。
日本では、映画「ビューティフル・マインド(beautiful mind)」のモデルとして知る人も多い。