Hatena::ブログ(Diary)

ラスカルの備忘録 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-11-30

真の失業率──2016年10月までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

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10⽉の完全失業率(季節調整値)は3.0%と前年同⽉と同水準となったが、真の失業率は2.8%と前年同⽉から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き減少基調である。真の失業率は、現推計時点において基準年*1である1992年より改善していることとなる。また、インフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する9⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は引き続き停滞しており、物価は低下傾向である。

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https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

2016-10-28

真の失業率──2016年9⽉までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

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9⽉の完全失業率(季節調整値)は3.0%と前年同⽉から0.1ポイント低下、真の失業率も2.9%と前年同⽉から0.1ポイント低下した。真の失業率は、引き続き減少基調である。真の失業率は前月に引き続き完全失業率よりも低い水準となり、現推計時点において、雇用情勢は基準年*1である1992年よりも改善していることとなる。また、引き続きインフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する8⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4⽉以降減少に転じていたが、5月を底に再び上昇し、その後は停滞している。一方、物価は引き続き低下傾向である。

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https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

2016-10-03

清水真人『財務省と政治 「最強官庁」の虚像と実像』

類書としては、未読だが話題の書となった『官邸主導』や、『経済財政戦記』*1、『消費税 政と官との「10年戦争」』等の著者による、大蔵・財務省を中心とした25年間にわたる政治史。内容的には、先にあげた『経済財政戦記』等とも重なる部分があり、自分にとっても同時代史であるが、本書のオリジナルな要素としては、無論のことながら歴史記述の中心に財務省を据え、特に財務省と政権・与党との関係が中心に記述されていることと、2014年の消費税増税以降の情報が追加されていることである。同著者による他書と同様、淡々とした記述の中にも一気に読ませる勢いがあり、細部に宿る重要性を捉える眼力や、それを記憶し、文脈の中につなげていく筆力には、いつも感心させられる。

財務・大蔵省と政権・与党とのパワーバランスが崩れたのは、まさに本書の始まりの時点である1990年代初頭、最初の政権交代が起きて以降ということができる。それまでの大蔵省が持っていた力の源泉について、著者は、(1) 予算査定を通じ霞ヶ関内に張り巡らされた情報網、(2)霞ヶ関内のヒトとカネを握る主要なポストや総理・官房長官等の秘書官ポストを押さえてきたこと、(3)金融の護送船団行政やメーンバンク制を通じ金融・産業界の情報も収集できたこと、(4)税の徴収を担う国税庁の存在、などをあげている。こうした情報の力、あるいはそれを活用する力によって、かつての大蔵省は国政のコントロールを一定程度行うことができたといえよう。

しかしこのような力の源泉は、政権交代を経て成立した橋本行革の中で、その多くを奪われることとなり、そこに生じる「権力の空白」では政治の混乱が起こることとなる。本書を読んでいて気付くのは、実は政権交代は直接的に財務省の力を削ぐことにはつながらず、実質的に財務省の力の源が削がれたり、あるいは財務省が蚊帳の外に置かれたりするのは、その直後の自民党政権においてであることだ。これは細川政権の時と同様、民主党政権時にも同じことが生じている。このことは、本書を通読することで明確になる*2

また橋本政権以降の自民党政権では、自民党内のガバナンスにおいて、「竹下派」ないし派閥中心の支配から、いわゆる「YKK」等派閥横断的な組織化の動きが明確になる。そうした中で、先日亡くなった加藤紘一という政治家が果たした役割や、政治史におけるその位置付けについても、本書の通読からおぼろげながら見えてくる。こうした加藤紘一らと財務省、あるいはその背後にある派閥支配的なものとの対立軸は、現政権においてもまた違った形で息づいているように思える。

多くの力の源泉が奪われ、また自民党内のガバナンスの変化が生じる中でも、いまだ財務省という組織の力は健在である。最後に書かれている「人材の枯渇」のリスクは大きいが、そうはいってもこの先十数年内の国政への影響力は十分に大きいものがあるといえよう。現代においてそれを可能としているのは、やはり相も変わらず「情報の力、あるいはそれを活用する力」である。加えていえば、毎年の通常国会で予算案を通すことには、時の政権にとって多大なエネルギーを要する。予算委員会における審議は国民の目にさらされる機会が多く、他委員会と比較してその厳しさは比較にならない。審議を円滑に進める上で、与党の国会対策とタイアップした財務省の力はどうしても頼らざるをえないものである。こうした時の政権に対する予算委員会の「圧力」は、引き続き、財務省にとって大きな力の源泉であるといえよう。

なお、本書を通じ財務省というのはいかにも一体感のある組織のようにみえ、まるで一つの顔しか持たない組織のように思える。欲をいえば、財務省内部でのあり得べき確執等についても描いて欲しかった。一方で、財務省と日銀の関係は比較的よく描かれている。その関係は思っていた以上に密接であり、GPIFの資産構成見直し時における日銀とのすり合わせの話など、「なるほどな」と思わせるものもあった。

*1:これについては下記を参照:http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20080220/1203516597

*2:それと併せ、細川護煕小沢一郎鳩山由紀夫菅直人といった政権交代を演出した政治家の「本質」もよくわかる。また、金融国会時の政策新人類の活躍については、世の中的に過大評価されているという印象を持った。人間の「本質」とはそうそう変わるものではなく、その印象は現在まで続く。

2016-09-30

真の失業率──2016年8⽉までのデータによる更新

完全失業率によって雇⽤情勢を判断する場合、不況時に就業意欲を喪失し労働市場から退出する者が発⽣することで、完全失業率が低下し、雇⽤情勢の悪化を過⼩評価することがある。この効果(就業意欲喪失効果)を補正し、完全失業率とは異なる⽅法で推計した「真の失業率」を最新のデータを加えて更新した。

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8⽉の完全失業率(季節調整値)は3.1%と前年同⽉から0.1ポイント上昇したが、真の失業率は3.0%と前年同⽉から0.2ポイント低下した。真の失業率は、引き続き、減少基調である。真の失業率は完全失業率よりも低い水準となり、現推計時点において、雇用情勢は基準年*1である1992年よりも改善していることとなる*2。また、引き続きインフレ率が低下する中で完全失業率は改善しており、フィリップス・カーブはこのところ逆相関の動きである。

所定内給与と消費者物価の相関に関する7⽉までの結果は以下のようになる。賃⾦は4⽉以降減少に転じていたが、5月を底に再び上昇傾向となった。一方、物価は引き続き低下傾向である。

f:id:kuma_asset:20160930220749j:image

https://dl.dropboxusercontent.com/u/19538273/nbu_ts.csv

*1:本推計において完全雇用が達成しているとみなす年。

*2:ただし、雇用者数が正規・非正規ともに増加している中で、このところ、非正規の増加幅がやや高くなっている。

2016-09-01

濱口桂一郎『働く女子の運命』

働く女子の運命 ((文春新書))

働く女子の運命 ((文春新書))

若年、中高年、女性という区分けは、日本の労働政策の中では比較的馴染みのあるもので、それぞれに応じた雇用・労働対策が講じられる。このうち近年の女性に関するものをみると、その主要な一部をなすパート労働対策が非正規雇用問題としてどちらかといえば若年の枠で捉えられがちとなり、一方、男女雇用機会均等の精神はすでに社会化されつつあるようにもみえる。そうした中、世界的にみて大きい社会進出における男女格差など、法制度面を超え社会の実相面からその活躍を促進することが課題となってきた*1

著者はこれまでの新書で、若年、中高年の雇用・労働問題を日本の雇用システムの枠組みから論じ、「ジョブ型社会」という解決の方向性を提唱してきた。雇用や生活の安定に資するはずの長期雇用慣行や年功賃金制が、失業した中高年労働者にとっては再就職のハードルとなったように、総合職として将来指導的地位を目指す女性労働者が活躍の場を得る上でのハードルとなる。これは、いわゆる統計的差別(アロー、フェルプス)によって説明される問題であるが、小池和男『仕事の経済学』に記述される統計的差別の日本的な解釈は、男女間の差別的な扱いが「日本では仕方がないとか当然だといった含意で語られがちになる」原因となったとする。

このように前著『日本の雇用と中高年』に引き続き本書でも「知的熟練論」批判が展開されるが、本書の批判はより(本質的というよりはむしろ)「本格的」である。ここでは、本の主題である女性労働政策からは外れることになるが、まずは、この部分について整理してみたい。

「知的熟練論」批判の概要

日本の年功賃金制の源流を、著者は戦時期の国家総動員体制における「皇国勤労観」にみるが、そこには明確な生活給思想が現れている。戦後は1964年のいわゆる「電産型賃金体系」が時代の典型性を形作る賃金制度となっており、こうした生活給思想を理論づけるものとして、著者は(「私自身全然納得しないのですが」と留保しつつ)マルクス経済学の「同一労働力、同一賃金」の考え方を引用する(1949年の宮川實『資本論研究ニ』)。

こうした生活給思想を源流にもつ年功賃金制は批判を受けつつも根強く生き残り、「能力主義」に基づく職能資格制度として1990年代まで一貫して賃金制度の主流の位置を占めてきたといえる。そしてそれを理論づけ、説得力を与えたのが「知的熟練論」である。ただし著者によれば、「知的熟練論」は当初から年功賃金制の世界的優秀性を理論づけるものとして存在していたわけではなく、当初は、「産業資本主義から独占資本主義へ」という宇野派マルクス経済学の「段階論」に立脚していたことを指摘する。

小池氏はこれを労働問題に応用し、産業資本主義段階に対応するのが手工的万能的熟練であり、職種別賃金率であり、クラフトユニオン(職種別組合)であるのに対して、独占資本主義段階に対応するのが「複雑化した青写真を読み、精巧化した機械の構造に通じる『知的熟練』」であり、内部昇進制と先任権制度(シニョリティ・システム)であるというのです。そして、これをもって当時通説であった日本特殊性論を否定する論拠とします。

ただし著者は、欧米の先任権制度は日本の年功制や長期雇用とは全く異なる仕組みであり、「その実証的根拠はきわめて希薄」であるとする。

さらに小池氏は年功的な賃金の上がり方の実質的理由を「能力」に求めるが、大企業と中小企業の賃金カーブを比較しつつ述べるその根拠は乏しく憶測に過ぎないもので、「存在するものは合理的というヘーゲル的な論理」のみであると指摘する*2

日本的雇用慣行の行く先

上記の批判はきわめて興味深く、ここまで執拗に批判を加える意図を考えずにはいられなくさせるものでもある。いうまでもなくその背後には日本的雇用慣行を礼賛することにより、結果的に、正社員の無限定的な働き方をも正当化してしまったこと、またその仕組みによって「疎外」されることを余儀なくされる総合職女性や「悶える職場」(吉田典史)で苦しむ正社員の姿があるのだろう。

とはいえ日本的雇用慣行は「知的熟練論」とイコールではない。「本質的ではなく「本格的」」と先ほど記述したが、「知的熟練論」の出自や根拠がどうあれ、理論的にコンシステントであるという事実が失われるわけではなく、そうであるからこそこれまで人事労務の実務家等の中でも一定の評価を得てきたのではないだろうか。また以前のエントリーでも指摘したように、条件を緩めて考えれば「暗黙の契約」として年功賃金制の合理性を説明することは可能であるし、一国経済を形作る様々な制度の中での「制度的補完性」によって日本的雇用慣行の生命力は強化されてきた、とも指摘し得る。そうした中、本書における「知的熟練論」の取り上げ方は、ややスケープゴートのきらいを感じさせる。「罪」を着せるべきは、むしろそれを無批判的に利用した政策側の人間の方なのではないだろうか。

しかし何れにしても、日本的雇用慣行を礼賛し正当化し続けることは時代にそぐわない。一度成立した制度は容易には変えられず、「疎外」される人達の苦しみも一足飛びに取り除けるものではないが、例えば、まずは「休息時間」を強行法規的に設けることで日本の正社員の無限定的な働き方に歯止めをかける、というのは最初の一歩となり得るだろう。とはいえ日本的雇用慣行は経路依存的にしか変えられず、結果的に、その行き着く先が日本の産業構造や経済成長にマイナスとなる可能性もある。「労働力の再生産」*3を維持するため、年功賃金制に変わる新たな社会保障制度も必要となる。しかしながら、有名な林=プレスコットの論文では、労働時間短縮を1990年代の日本の経済停滞の一因としたが、週40時間労働をはじめとするかつての労働時間法制の改正について、今に至って多くの人が批判的だとも思えない。身も蓋もないまとめ方になってしまうが、これは社会厚生や幸福度といった視点からも考えるべき問題なのかもしれない。

(追記)

著者のブログで取り上げていただきました*4。リプライいただいたことに感謝します。

まず一点、本書(女子の運命)に関わっては、上記の問題意識ですが、先月取り上げていただいた中高年の本での問題意識はむしろ、本来生活給として作られ維持されてきたものを「能力」で説明してしまったために、かえってその本来の「生活」の側面での問題を正面から理論的に提起することができなくなってしまったことの問題点を、私は結構重視しています。どちらが本質的でどちらが本格的というわけではありません。

子ども手当をめぐる議論の迷走も、最近の奨学金債務で破産する云々の話も、「生活給」が面倒見るはずだったものを面倒見られなくなってきているにもかかわらず、それが「生活給」だという議論が(本音では強力に生き残っていながら)建前上は「能力」だということになってしまっていることが最大の背景だと思っています。この点は、前著の最後で述べたとおりです。

小池批判はスケープゴートではないかというのは、いやいやそれは1970年代後半から1990年代前半までの私の言う「企業主義の時代」の労働経済学を全部ひっくるめて小池理論で代表させてしまうというのは最大の賞賛だと思いますよ。他の学者の議論はわざわざ取り上げるに値しないと言っているに等しいのですから。

年功賃金制(あるいは賃金の下方硬直性)を説明し得る他の理論としては、「知的熟練論」のほかにもアザリアデスの「暗黙の契約理論」や、より有名なものとしてはラジアーの「効率賃金仮説」が当時からあったわけであるが、やはり一定の実証性を備えた「知的熟練論」の影響力が大きかったということだろうか。なお、「暗黙の契約理論」「効率賃金仮説」はともに、『仕事の経済学』の中で、日本的雇用慣行を説明する上では不完全なものとされている。

*1:女性の社会進出を促進したいという近年の方向性は、労働政策の範疇というよりむしろ経済規模の拡大という視点から出てきたようにみえる。実際、家事労働によるサービスの産出はSNA上は産出額の対象とならないが、女性の社会進出により結果的に家事サービスの市場化が進めば、その分GDPは増加する。いうまでもなく、それによって社会厚生が高まるわけではない。

*2:実際、大企業と中小企業の賃金水準の違いは、その一部は労働者属性の違いに帰すことができるにしても、資本装備率の違いからくる労働生産性格差がより大きく寄与しているであろう。

*3http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20160813/1471052174 参照。

*4http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-9f00.html