クラシック政治の復権か

安倍辞任から少し経った。今日はNHKで総裁選候補の共同記者会見があったし、ネットでもそろそろ次の段階に対する予想と論評が揃ってきたようだ。
まず、安倍首相辞任に関してはいろいろな憶測が飛んでいる。
今週の溜池通信(PDF)によると、改造内閣後の麻生―与謝野ラインによる仕切りが完璧であったために、安倍首相本人は自分の居場所がないと感じてやる気を失った(要約)、という面白い見解を出している。
おそらくその事実もあったことだろう。が、本人も言っているように、様々な問題が積み重なってきた末の、今回のテロ特措法の件が辞任の決め手になったのだろう。finalvent氏はシンプルな切り口で原因を分析している。

今回の事態は、かつて1997年4月3日、沖縄基地問題の一つ土地収用手続きの問題について、当時の新進党小沢党首と自民党橋本首相がビール片手に密談したことを思い出させる。
(中略)
 あのとき、小沢が現在のように橋本に門前払いを食らわせていたら、もしかすると、今回の安倍元首相のように、橋本の首も飛んでいたかもしれない。当時の問題もまた、特措法に関係し、「日米安保条約の履行は国が責任を持つ」ということだった。

今回の辞任について思うには、安倍という政治家はどのように後に記憶されるだろうか。小泉時代という一大時代の後に落ち目を作った、イデオロギー先行の政治家としてだろうか。しかし、安倍は実際には小泉時代に表舞台に現れて、国民の支持を集めていたという事実を無視してはならない。実際に行った政治も、情勢上波乱含みではあったが、とりたてて現実を踏み外したようなものでもなかった。「美しい」などという言葉がそのような印象を与えてしまっただけのことだ。あるいは、状況が理念に突き進むことを許さなかったとも言えよう。


さて、現在の話題は安倍の次が誰かと言うことだ。かんべえさんの説に従えば、拗ねた安倍の反撃によって、麻生は総理への道が思いもよらず険しくなったと言える。
だが、ここで麻生総理が誕生するのは必ずしも良い流れだろうか。麻生が自民党にとっての”唯一の切り札”であるならば、登板のタイミングは万全を期さねばならない。この点については、切込隊長氏の「麻生太郎氏の作る政権が、仮に短命に終わった後… 誰がその跡を負うの?」という疑問と考えを同じくする。
すると、当然今回は麻生を温存して別の人材を繰り出す必要がある。そこで待ち受けていたように現れたのは福田である。福田に対する国民の印象は悪くない。相次ぐスキャンダルに倒れるような不安定な安倍政権に失望しきっている国民は、”防御力”に優れた政治のプロとしての福田に期待するだろう。
ただ、ここで私が懸念するのは、福田の出馬を同じく待ち受けていたかのように動き出した党人派の動きである。
日本は首相(総裁)公選制ではない以上、依然として派閥の動きは重要だ。今日のNHKの共同記者会見では、麻生が派閥に囚われず適材適所の閣僚を選べると牽制したのに対し、福田は国民が納得する人材配置を目指すと言葉を濁した。
小泉時代を経て大きく変革が始まった自民党が、福田政権下において”クラシック自民党”に逆戻りしてしまうのは何としても避けたい。
果たして自民党は”ネオ自民党”としての道を進んでいくのか、”クラシック”なそれへと回帰していくのか。
finalvent氏はクラシックの予兆を示している。また、この指摘によって、小泉再登板の可能性は完全に否定し去ることができる。

 あと、ちょっと補足めいた話だが、個人的には平沼赳夫自民党復党の時点で、自民党オワタと私は思った。終わっているのに首相がいるのは変な光景でもあるなとも思ったが、終わったのは小泉自民党であって昔の自民党はこんなものだった。

一方で、弾さんは今回の総裁選はネオとクラシックの対立を織り込み済みのものであると見ている。

実は今回の辞任劇で、一番困惑したのは麻生である可能性が高い。「いずれは首相に」という意志は今更隠しようがない。しかしこのタイミングでは、困る。安倍のダメ出しが終わっていないからだ。それでも、今までのいきさつから総裁選出馬を辞退するわけにも行かない。

そのためにはどうすればいいか。麻生以外の誰かが、国民による(事実上の)信任ではなく自民党によって選ばれるのが一番いい。そうすれば、仮にその誰かが失敗しても、それは麻生の失敗ではなく自民党の失敗だと見なされるし、成功したらしたらでその功績はその誰かではなく自民党につけられる。

以上のことは、実は自民党の関係者はとっくにわかっていることではないだろうか。福田本人も含めて。

弾さんの見解は、キャッチオールパーティとして自民党が歩んできた足跡からするともっともらしく聞こえるが、福田が出馬のタイミングを選んでいたことや、途端に活発になった党人派の動きから見て、自民党全体にそのような危機感と機知が共有されているとは思いがたい。
ただ、小泉改革で歯車が動き出した状況下では、それほど大きな揺り戻しは無いと見て問題無さそうだ。
かんべえさんは自民党の改革路線に大きな後戻りがない理由として、「『バラマキはいけない』ということで、国内にはほぼコンセンサスができていること」と「日本における『改革の歴史』が十分に長くなっていること」の二点を挙げている(詳しくは今週の溜池通信を参照)。


他方、ネオとクラシックの双方にメリットとデメリットがあることを忘れてはならない。
小泉―安倍の二つの政権はネオの道を切り開いたが、小泉時代は革命的な熱気の中で、安倍政権ではその”防御力”の欠如の故に、国民は不安定なネオの成り行きに若干の疲れと共に不安も感じてきている。ここで要求されているのは、クラシックが脈々と培ってきた安定させるための技術である。
ネオvsクラシックの構図は択一的なものではあるまい。重要なのは、それらの止揚された立場がこれからの政治で生み出されていくことである。
切込隊長氏は、若干の不安を含ませながらも、麻生がこうしたネオとクラシックの融合をなし得る力量の人材であるとする。

ただ、麻生氏ってのは小泉氏以上に頭が良い分、官僚の意見を「聞き入れすぎる」だろうし、党人の意見に「配慮しすぎる」だろうし、直截的な物言いで国民を挑発しながら小泉以上のポピュリズムの方向へ舵を切るのを当然のようにするだろうと思う。


 麻生氏というのは我々が考える以上に一種の冒険主義と現実主義を兼ね合わせた人間であって、表現はやや不遜不敬ながらナジ・イムレ首相みたいに麻生氏がならないといいなと思ってしまう。金が集まらなくなった、それはシステムが時代に追いつかなくなったからだ、じゃあシステムを根底から変える準備をしよう、みたいなことを言い、しかし実働は党人と官僚との調整でやるわけだから、現実は冷徹なまでの政治のプロフェッショナリズムで動きかねない。


本当に麻生がその通り”切り札”となりうる力量を持つ人物ならば、その全き登場をもって、「リーダー!=首相という時代」が、吉田茂の現実主義路線の再来と時を同じくすることを強く願うものである。


首相支配-日本政治の変貌 (中公新書)

「忙中閑あり」

そろそろ季節の変わり目ということで、何か方針を作ろうと思った。で、今日は家でゆったり考え事などしてみるつもりだが、考え事とは言っても最近は読書からも距離を置くようになったので、ブログに書くのが一番良さそうだ。
無論、私事ばかりで埋めるつもりはないので、久々に論評とかとかをしてみたいと思う。
私は有料ユーザーではないのでアクセス統計などが見れないのだが、この方が気になる要素が無くて悠々とブログを続けられそうだ。


アクセス数とかランキング数に熱心になる人は多いが、それは良くも悪くも自尊心でしかないと思っている。
ブログ登場以前のネット世界では結構いけるんじゃないかとか思ったりもしていたものだが、ブログ人口が増えると同時に私の見識も広がったところで、このブログ程度の内容を書いているところはゴマンとあることに気付いた。
内容如何は一般人の限界があるので、それ以上のPV数を稼ぐとなると、後は内容ではなく見せ方の問題になってくる。
見せ方についても、かっこいい見せ方というのはそれもアマではなくプロとしてのものであるので、結局凡人はどうするかというと、週刊誌的なそれにするしかできないのではないかと。週刊誌を蔑んでいるわけではないが、要するにテンプレであるからということである。
で、一般人がそうしてPV数に執着する限りは、ルサンチマン臭が自然と漂ってくるのであって、私的にはそういうところにはあまり近づかなくなる。