くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「12日の殺人」「πパイ」(デジタルリマスター)

「12日の殺人」

ミステリーというより、人間ドラマという範疇の作品で、特に映像演出が優れているとかもなく、物語の構成や展開も面白いわけでもなく、鬼気迫るおもしろさもカリスマ的な魅力もない映画だった。監督はドミニク・モル。

 

トラック場を自転車で疾走する一人の青年の姿からカットが変わり、2016年10月12日、グルノーブル警察署の一室の窓が映されて映画は幕を開ける。室内では新しい班長ヨアンの歓迎と退任する前班長の送迎パーティが開かれていた。その日の深夜、女子大生クララは親友のナニーの家を出て夜道を帰路につく。スマホで電話をしながら歩いていると、公園から何者かが現れ、ガソリンをクララにかけてライターで火をつける。クララは火にまみれ公園で倒れる。

 

ヨアン達が捜査を開始する。ヨアンはベテラン刑事マルソーと容疑者らしい人物の聞き込みを始めるが、容疑者の男たちは全員クララと関係があり、しかもクララは男好きだったという言葉も出て来る。マルソーは妻に浮気され、さらに妊娠までされて離婚を申し出られ、夫婦仲は最悪の状況の中での捜査になってしまう。ヨアンとマルソーは、容疑者らしい人物に会うたびに次第に事件の糸口も見えず闇の中に引き込まれていくようになる。

 

3年の月日が経ったある日、ヨアンは一人の女性判事に呼び出される。着任したばかりの彼女は間も無く迎えるクララの命日を捜査書類から知り、事件捜査のその後を聴取するが、ヨアンは、あの後結局クララ殺害事件の糸口が見つからないまま、捜査の予算がなく迷宮入りしたのだと答える。判事は予算の都合をつけ、命日に備えて、事件現場の張り込みとクララの墓の前に隠しカメラを置くことを勧める。

 

やがて10月12日夜、ヨアンは新任の刑事と張り込むが、現れたのはクララを偲ぶ人たちの姿だけだった。ところが墓の隠しカメラには一人の髭面の男が現れ、何やら儀式めいたことをしているのが映る。その男が口ずさんだ歌からSNSを駆使して男を特定し逮捕するが、3年前の事件の夜、彼は精神病院に入院していたことがわかる。

 

再び暗礁に乗り上げる中、ヨアンは退任したマルソーに手紙を送る。以前マルソーは、ヨアンがいつもトラック場で自転車を走らせている事に言及して、外を走ってみてはどうかと勧めたことがあった。ヨアンはトラック場を出て山々が広がる山道を自転車で走りながらマルソーへの言葉を呟いて映画は終わる。

 

人間ドラマとして深く掘り下げた感もそれほど感じないし、フランスではセザール賞を獲ったとなっているものの、それほど優れた映画だと思わなかった。普通の映画だった気がします。

 

「πパイ」

細かいカットの切り返しの連続と振り回すカメラワーク、さらに主人公の叫び声の連続、溢れんばかりの数字の羅列とシュールなストーリーに、目頭が痛くなり何度も気を失ってしまいぐったりしてしまいました。お世辞にも面白いと言えない映画ですが、根本的にはサスペンスミステリーなのでしょう。主人公が発見した216桁の数字の真実に謎の集団が迫って来る展開を楽しめればいいのですが、いかんせん映像がしんどい。まさにデビュー作らしいバイタリティあふれる映画だった。監督はダーレン・アロノフスキー。長編デビュー作である。

 

チャイナタウン、並外れたIQを持つ主人公マックスは、自宅のドアにたくさんの鍵をつけ、部屋の中はパソコンとその配線で覆われ、そんな中で生活をしている。この日も部屋を出たら、中国人の少女が電卓を持って計算式を問いかけて来るので暗算で回答するマックス。彼には世の中全てが数字に変換できるように見えてしまい、株価の変化も宗教真理も彼にとっては数式化できてしまうように思われていた。

 

数字の謎を追求していた友人のソルは、その世界にのめり込む事の危険を察知して身を引いたが、そんなソルにもう一度数字の謎を追求しようとマックスは持ちかけるも応じなかった。マックスは行きつけのカフェでレニというユダヤ教の宗教家に問いかけられ、宗教の中にあるものは全て数字に置き換えられるのではないかと持ちかけられる。マックスはレニを胡散臭く思うものの彼の説に一理あると考えるようになる。

 

マックスはますます神秘の数字の法則を追い求めていき、次第にその核心に近づいた手応えを感じ始めるにつけ、自身の頭の中が目まぐるしく変化していくのを実感し始める。その頃、謎の組織のメンバーから接触を受け、さらに何者かに監視されている様な感覚に囚われ始める。ある時、謎の組織に拉致されかかって、レニら宗教団体に助けられるが、レニらもまたマックスが突き止めた216桁の数字の謎を求めていた。しかし、マックスはそれに答えず、次第に自身の脳内が狂っていくようになる。

 

幻覚を見始め、頭の一角に違和感を覚え、とうとうドリルを頭に突き当てる。気がつくとマックスは公園にいた。そこへ中国人の少女がいつものように暗算を持ちかけてくるがマックスはわからないと答える。こうして映画は終わる。

 

全編モノクロで、時折赤い部分は挿入されているシュールな映像と、細かいカット編集を繰り返し、カメラワークも目まぐるしく動き回るし、主人公に迫って来る謎の組織の正体も見えないままにストーリー展開するので、90分足らずの作品なのに体力が持ちません。これも映像表現のひとつかと思いますが、いかんせん疲れ切ってしまう作品だった。

映画感想「変な家」

「変な家」

こう言う映画を真面目に見るものじゃないと思うので、その前提で見れば、全編見せ場の連続で全く退屈しない。しかし、ふと我に帰ると、細かいリアリティをすっ飛ばしたあまりに非現実的な脚本に唖然とする。その雑さゆえ、この映画がホラーではなく娯楽映画というジャンルにとどめる理由かもしれません。過去のホラー映画の場面をオマージュしながら、目先の面白さだけを追い求めたエンタメ映画という印象でした。監督は石川淳一

 

奇妙な仮面を着たYouTuberが、部屋の壁の裏から聞こえる不気味な音を語る場面から映画は幕を開ける。今日の配信が終わった雨宮にマネージャーが、そろそろネタ切れでしょうかという問いかけをする。そして、購入予定の一軒の家の間取り図を見せて、何かおかしいと思うので、雨宮の知り合いのオカルト好きの設計士栗原に意見を聞いて欲しいと言って帰っていく。

 

雨宮は早速知り合いの栗原に図面を見せるが、開口一番、この家は買うなと言う。奇妙な空間が存在し、殺人を犯すための通路ではないかと言い、そこにこの家に不気味な物語が存在すると言うのだ。その頃、この家の近くで死体遺棄事件が起こり、その遺体に左手がないというニュースが流れる。興味を持った雨宮はこの家について調べ始めるが、そこへ、この家の関係者だという片渕柚希という女性が接触して来る。かつてこの家で生活していたが、夫が行方不明になったのだという。雨宮は柚希とこの家に忍び込み、空間を調べ始めるが、そこへ栗原から電話が入り、柚希に結婚の事実はなく、その女は謎だという。雨宮は急いでその女から逃れるが、家の向かいの主婦に呼び止められる。

 

しばらくして柚希が雨宮の家を訪ねて来る。実は本名は宮江柚希と言い、この家に住んでいたのは姉の綾乃とその夫慶太なのだという。ところがある日、仮面を被った人物が雨宮を自宅で襲う。嫌な予感がした栗原は玄関先で気を失うマネージャーを発見、雨宮を助ける。関わらない方がいいという栗原のアドバイスを無視して雨宮は柚希の母に会うために出かける。

 

母の喜江は雨宮、柚希、栗原に、かつて綾乃、柚希、母の喜江と柚木の父らは普通の生活をしていたが、父が事故で亡くなり、喜江から片渕家の話を聞かされる。片渕家は明治時代財を成した実業家だったが、その当主がその家の女中ウシオを妾にし子供を孕ませた。しかし本妻が激怒しウシオに虐待して流産させ、ウシオは気が触れて左手を切り落として死んだのだという。その後、本妻は子供を産んだが左手がなかった。ウシオの呪いを封じるため、毎年殺人をおかして左手を奉納するという左手の儀式が行われるようになったのだという。

 

雨宮と柚希は片渕家に綾乃たちとその謎があると判断し片渕家へ向かうが、引き返した栗原は喜江の部屋から、雨宮を襲った女の仮面を発見する。片渕家にやってきた雨宮と柚希は、当主重治、その妻文乃、息子清次に迎えられ、さらに綾乃と慶太もその場にいた。夜、雨宮と柚希は眠らされてしまい、気がつくと栗原が駆けつけていた。

 

三人はこの家にも存在する奇妙な空間を見つけるべく廊下の奥の仏壇の背後へ潜入、そこで、綾乃たちのもう一人の息子トウヤを発見するが、そこへ清次が襲いかかって来る。雨宮たちが応戦するが、すんでのところで重治が清次を殺しその左腕を切って仏壇の奥に消える。文乃がチェーンソーで迫って来るがなんとか逃げ切るが、慶太は重治らと戦い逃げきれなかった。

 

柚希、雨宮、トウヤ、ヒロト、綾乃、らは助けに来た喜江の車に乗り、片渕家本家は炎に炎上していく。全てが終わり、柚希が街で綾乃と喜江のところへやって来ると、喜江と綾乃が今年の左手の仕事の話をしていた。雨宮はことの顛末をYouTubeに上げることをせず、マネージャーに残念がられる中、栗原と話をしていると壁の裏で物音がし、二人が耳を澄まして暗転映画は終わる。

 

なんとも言えない映画で、面白いというよりただの娯楽映画だった感じです。

 

 

 

 

映画感想「海街奇譚」「ミニオンの月世界」「FLY!フライ!」

「海街奇譚」

個性的なカット割と大胆な編集、鏡や窓ガラスを効果的に使った見事なカメラワークと美しい構図で、相当映像クオリティの高い作品なのはわかるのですが、いかんせん物語が追いかけていけなかった。現実なのか回想なのか妄想なのか、過去と現在を繰り返す展開に翻弄されてしまう。映像が美しいのでさらに目眩く混乱に苛まれてしまいました。非常にいい映画だと思いますが、難しかった。監督はチャン・チー。

 

フォルムカメラを持った一人の男が海辺の港町にやって来る。学校の中に入れてもらおうとするが門で職員に止められ、写真を撮ろうとするが顔を隠される。職員が気がつくと男はいなくて、いつのまにか教室の中を撮影している男。教室では消しゴムスタンプを作っている少年が先生に咎められ、スタンプを窓の外に捨てられて、窓の外のカメラの男が拾う。生徒たちが帰る中に美しい女教師を見つけて声をかけるが女教師は走り去ってしまう。

 

桟橋で写真を撮っていたら、頭にカブトガニを被った村人たちが何やら儀式をしているように通り過ぎ、その先に飲んだくれの男がいてその男に、村で無くなった仏像の頭が見つかったのか問い詰めている。問い詰められた男は町長と呼ばれ、仏像の頭が見つからないと漁に出れないし、漁に出た人たちも戻ってこないのだと儀式に男たちに言われる。さっきに消しゴムスタンプを作っていた少年はペットボトルに水を入れそれを通して覗くと真実が見えるらしい。その少年の父が町長らしい。町長はことあるごとにカラオケにうつつを抜かしている。カメラの男は町長のいるクジラのネオンのクラブに行き、ホステスとダンスをする。

 

カメラの男は泊まるところを探していて、太った女主人に勧められて、そのホテルに泊まることになる。さっき拾った消しゴムスタンプを窓に押し付けてみる。押し付けられた文字を通して光が部屋に差し込む。カメラの男は妻を探しにこの村に来たのだと言う。彼は映画俳優で「オアシス」と言う作品で変態殺人鬼を演じたと女主人に言うが女主人は見ていないのに適当な返事をする。

 

女主人には双子の妹がいて、このホテルを経営していたがうまくいかず、自分に変わったら繁盛しているという。8月5日に妹が出ていったのだが、カレンダーはその日のままにしているという。カメラの男が夜食を頼んだので、女主人はカブトガニとタコを料理しようとする。女主人はかつてバレエをしていたと言い踊り出す。場面が変わると、女主人はカメラの男に殺され、死んでいるかのカットになり傍にカメラの男がいる。映画のワンシーンなのか現実なのか妄想なのかわからない。

 

村の若者が、仏像の頭が見つかっていないから危険だと村人に言われながらも一人漁に出ていく。カメラの男は、学校帰りの女先生を呼び止め写真を撮らせて欲しいと頼む。二人は映画を見に行き生徒たちに見つめられる。カメラの男はこの村に来る前、大都会で美しい妻と暮らしていたが、妻はある朝、男に別れを告げる。丸い鏡に映る男の姿と妻の会話場面がシュールで美しい。妻は投資会社にいるようで、カメラの男が外から妻のいるビルを撮っていると妻が窓に映し出される。カメラの男が妻を殺害したかのように部屋のガラスに赤い血飛沫らしきものがあるが真相は不明。

 

村では女教師とカメラの男は体を合わせている。この女教師は実は男の妻の若き日なのか、出会った頃の物語なのか、はたまた不倫相手なのか、同じ女優さんが演じているので混乱して来る。村ではカメラの男は船に乗り沖に出る。一人漁に出た男が戻ってきて、消しゴムスタンプの少年と父が大喜びで出迎える。船に乗っていたカメラの男がカメラを構え、船から消えたような遠景になって映画は終わる。男は自殺したのかと思うがそれも違う気がする。

 

なんともシュールな展開に混乱してしまう作品ですが、真上から捉えるカットを効果的に挿入したり、クレーン撮影を独特の使い方で映像にしたり、鏡や窓に映される人物や、スタンプ消しゴムを通して光が通る場面、横長の画面で船と人物を左右に配置した構図など、映像のクオリティは相当なセンスである。しかしとにかく物語がわかりづらくてほとんど理解できないほどしんどかった。映像としてはなかなかの映画だったと思うけれどもストーリーテリングはなっておらず、なんとも言えない一本だった。

 

ミニオンの月世界」

月に追いやられてしまったグルーの敵役ベクターの月からの生還を果たすべく奔走する姿を描いた短編作品。そこへミニオン達もやってきて大騒ぎ。ベクターはなんとか月を脱出したが、たどり着いたのは火星だったとなって映画が終わる。「FLY!」と同時上映の添え物作品です。

 

「FLY!フライ!」

子供向けのシンプルなエンタメ映画だと割り切ってみる作品で、普通に楽しめばそれでいい。あえて言えば、鳥たちの家族の物語なのに画面の視点が人間の高さというのはどうなのかと思う。でも、そんなことはどうでもいい映画なのかもしれません。監督はバンジャマン・レネール。

 

渡り鳥の生活をせずに年中同じ池で暮らすマックたち家族、マックが池の外には恐ろしい色々が居るというのを子供のダックスと幼いグェンらに聞かせている場面から映画は幕を開ける。何かにつけ臆病な夫のマックにいつも文句を言うのは冒険好きな妻のパムだった。

 

そんな彼らの池に渡り鳥の一行が通りかかる。ダックスはその中のキムに一目惚れしてしまうが渡り鳥一行は目的地へ旅立つ。一緒に行こうと誘われたが、マックが思いとどまってしまう。そんなマックにパムはとうとうキレてしまい、叔父のダンをグェンらが説き伏せてジャマイカを目指して旅立つ事にする。

 

途中ニューヨークに立ち寄ったマック達は、都会の鳩のボスチャンプと出会い、人間のレストランで籠の鳥でジャマイカ出身のおうむのデルロイを助け出して、一行はジャマイカを目指す。途中、レストランのシェフに料理にされる寸前の水鳥を助けたマック達は、一旦はシェフのヘリコプターに捕まってピンチになるが、ダックス達の活躍で脱出、無事ジャマイカについて映画は終わる。

 

キャラクターの個性が全く描けていないので映画が面白くないと言うのが正直なところで、お話のシンプルさは構わないのですが、全体にワクワク感が感じられない普通の子供向けアニメでした。

映画感想「マリの話」

「マリの話」

所々にキラキラ光るシーンやセリフが楽しい作品で、60分と言う中編映画の面白さを堪能できる作品でした。監督は濱口竜介監督の助監督に就いた経験のある高野徹。

 

四つのパートに分かれて、現実か夢かわからない場面が交錯して展開していきます。スポットライトを浴びる女優マリの姿から映画は幕を開ける。そして場面が変わるとベッドで寝ている映画監督の杉田の姿、次回作の脚本を書いているらしいがなかなかまとまらず、さっきのマリの場面は彼の夢だったようだ。

 

同僚の青年と韓国居酒屋で酒を飲んでいた杉田は、ちょっと煙草を吸いに外に出た際、一人の女性とすれ違う。なんと夢に出て来たマリそっくりだった。杉田は早速、女優になってみないかと持ちかけるが当然その女性は店を出てしまう。場面が変わると海辺を歩く杉田は海岸べりで立つ女性に声をかける。その女性はマリで、杉田の映画に出ることになっているらしい。二人は海岸を歩いた後、食事をし、酒を飲み、酔い覚ましに海岸へ行く。そして杉田はもう少し飲もうとホテルの部屋に誘う。

 

ベッドで目覚めた杉田は夢だったかと思うが、シャワールームからマリの声が聞こえて来て現実だとわかる。場面が変わり、マリは試写室にやって来た。画面にはマリが出ている映画が映されているが杉田の同僚は、所々声が録れていないのでアフレコしたいと言う。しかし杉田は行方不明らしい。マリはマイクを持ちアフレコを始めるが、冒頭の夢のマリのセリフと同じセリフを言った後涙が止まらず、女優を辞めると言って試写室を出ていってしまう。

 

場面が変わると、足の悪い一人の老婦人フミコが縁側に置いた飼い猫の餌を見にいって、猫がいないことに気がつき探しに出る。そこでマリと出会う。マリはフミコと一緒に猫を探し始める。見つからずフミコの家に戻って来たが、フミコは縁側で寝てしまう。傍に座るマリ。やがてマリもフミコに添い寝するが、フミコは目が覚めて、マリの彼氏のことや、猫の元カレのことや自分のことを話しだす。ふとマリが気がつくと元カレと一緒の猫を見つける。

 

マリはホテルのベッドで脚本を書いている。短編映画を撮ったらしく、外人二人が会話する映画の場面が流れる。女優のアップの後暗転し、杉田が海岸から歩いてくる場面で映画は終わる。

 

一本筋の通った作品ではないですが、目眩くような現実と空想、夢が交錯する様が楽しい映画でした。

映画感想「DOGMAN ドッグマン」「PLAY!勝つとか負けるとかは、どーでもよくて」

「DOGMANドッグマン」

なかなか深みのある人間ドラマだった。B級ホラーアクションかと思いきや主人公のキャラクターが単純なサイコ野郎ではなくて、なるべくしてなってしまった深みのある存在感で、その描写がドラマを大きく膨らませている。さらに神の存在にも言及し、周囲に張り巡らせた犬の存在が限りなく作品を盛り上げているのが見事。素直にラストは感動してしまいました。良い映画だった。監督はリュック・ベッソン。まだまだ才能は健在でした。

 

深夜の検問所、一台のトラックが近づいてくる。警官が運転席を開けると、中にマリリン・モンロー風の女装をした男性が乗っていて、さりげなくタバコに火をつける。この煙草が実に上手い。荷台にはたくさんの犬が乗っている。夫のDVから逃れ母と幼い子供と暮らしている精神科医のエヴリンの所に電話が入る。緊急で留置所で被疑者にあってほしいという。子供を母に預け、エヴリンが留置所へ出向くと一人の女装した男性がいた。煙草を燻らせながら真摯に向き合ってくるその男性は、名前をダグラスだと言う。そして、エヴリンにこれまでの経緯を話し始める。

 

コンウェイ高校の廃墟となった校舎、一人の青年ホアンが奥の部屋にやって来て、そこにいるドッグマンことダグラスに捨て犬を届ける。ダグラスは見返りに何か役にたってやろうと言うのでホアンは恋人のマーサがこの地域のヤクザで死刑執行人の異名のエル・ヴェルドに見返り料を急かされ困っていると言う。ダグラスは引き受けたと言う。場面が変わると、エル・ヴェルドのところに数匹の犬がやって来て、一匹のドーベルマンがエル・ヴェルドの股間に噛み付く。もう一匹が電話を渡し、その電話を通じてダグラスはマーサに近づかないようにと告げる。

 

ダグラスはエヴリンの前で、何故こう言う仕事をするようになったかを話しはじめた。少年時代のダグラス、父は闘犬で生計を立てていていつも家では暴力を振るい、母やダグラスは苦しめられていた。歳の離れた兄は何かにつけ父の味方をして、ダグラスを貶めていた。ある日、家族より犬の方が大切だといったことから、ダグラスは犬舎に閉じ込められ、そこで生活するようになる。そんな姿を見た母は家を出てしまう。ある時、ダグラスは父が向けたショットガンに撃たれ指を飛ばされた挙句跳ね返った銃弾で脊髄を損傷してしまう。兄は慌てて父を家に隠したが、ダグラスは犬たちを使って警察を呼ぶ。この頃にはダグラスは犬を手なづけ、なんでも言うことを聞くように訓練していた。

 

ダグラスは施設に入れられ、そこで、演劇を教えに来ていた女性サルマにシェークスピアなどの演劇や歌、さらに化粧の仕方を教えてもらう。父は逮捕された先で自殺、兄は八年後に出所してくるが、ダグラスが差し向けた犬によって殺されてしまう。ダグラスはドッグシェルターを管理して生活するようになる。サルマは施設を出て劇団に入りやがて大舞台に立てるまでになって、ダグラスは応援に赴くが、すでに彼女は結婚していた。

 

ショックからシェルターに戻って来たダグラスだが、予算不足からシェルターが閉鎖になることが決まる。ダグラスは立退の日の前にシェルターから犬を逃しコンウェイ高校の廃墟跡に移り住んだ。仕事を探したもなかなか決まらず、やっと場末のクラブで歌手としてデビューする。脊髄を痛めているため一曲ぐらいしか立っていられずすぐに車椅子に座ってしまうのだが、この歌唱シーンが圧巻である。医師からは、銃弾を完全に取ると脊髄が漏れて死んでしまうから、体内に残したままだから、激しく動くなと言われていた。

 

ダグラスは週一回のステージに立つ一方、犬の欲しい人への仲介や、犬を使っての警護、さらに犬を使って富豪たちから宝石などを盗んだりするようになる。ところがある大富豪の家に盗みに入った際、保険の調査員アッカーマンが防犯カメラから犬の存在を見つける。そして関連の事件のビデオから、車椅子に乗る男が犯人だと特定し、ダグラスのステージを見にやってくる。その帰り、アッカーマンはダグラスをつけて、コンウェイ高校のダグラスの家を発見、銃を持って中に入り、ダグラスが盗んだ宝石を奪おうとする。しかし、すんでのところで犬たちに襲われ殺される。

 

そんなある時、エル・ヴェルドとその手下たちが、ホアンを脅してダグラスのアジトを見つけ乗り込んでくる。ダグラスは訓練していた犬たちを使って反撃し返り討ちにしてしまう。こうしてダグラスは逮捕されるまでに及ぶ経緯をエヴリンに話し終える。エヴリンは聴取を終え自宅に戻る。

 

留置所の外には犬たちが集まっていた。そして受付の警官を巧みに驚かせて鍵を奪った犬はダグラスを助け出す。エヴリンに頼んで持って来てもらっていた正装を着たダグラスは車椅子で留置所の外に出る。外はすでに夜が明けていた。必死で立ち上がり、向かいの教会へ向かうダグラス、教会の十字架の影の中でやがて脊髄が漏れ出したダグラスは十字架に包まれるように倒れて死んでしまう。エヴリンの家の窓の下には一匹のドーベルマンがダグラスの死を知らせるかのように佇んでいた。こうして映画は終わる。

 

ダグラスが時々吸う細い煙草が実に上手いし、ゴッドファーザー愛のテーマやエディットピアフの名曲などを流す音楽センスも上手い。アクションシーンも終盤に向かって盛り上がりを見せるし、語り続けるこれまでのダグラスの人生の姿が映画にさらに深みを生み出していく。物語の構成のうまさ、テンポの組み立ての秀逸さ、小道具の使い方など堂にいっている。なかなかのクオリティの佳作だった。

 

「PLAY!勝つとか負けるとかは、どーでもよくて」

B級レベルのたわいない青春映画なのですが、一生懸命作っている感満載なのと、ちょっと変わった脚本が瑞々しくて楽しい映画だった。出来の良し悪しはともかくこう言う未完成でも真面目に作った映画は大好きです。監督は古厩智之

 

徳島、eスポーツゲームロケットリーグに夢中の高専生達郎は、今日もゲームにのめり込んでいるが今一歩で、ライバルに負けて悔しい思いをしている。そんな彼はたまたまロケットリーグの高校生大会のネット広告を目にする。応募しようとしたがメンバーが三人必要だった。早速募集のビラを作り学校に貼る一方で、近くの席でいつもゲームをしている亘に声をかける。

 

募集ビラで申し込んできた翔太と無理やり参加させた亘を交えて達郎は大会に応募する。翔太は金髪でピアスを開けてみたりしている。彼に気がある紗良は必死でアプローチするが翔太はなかなか受け入れてくれない。家庭は裕福だがVtuberと会話ばかりしている亘は、なかなかゲームに気持ちが向かない。達郎の父は飲んだくれらしく、母が一人で頑張っている。翔太の家庭は夫婦仲が悪く、弟達は寂しい思いをしている。この辺りの家庭背景の描写が実に弱いので映画が薄っぺらくなっているものの、かえって暗い部分が希薄になって、eスポーツ場面の爽やかさが全面に出たのは良かった。

 

やがて地元の予選大会が始まる。最初は乗り気でなかった亘は途中から本気になり、元々ゲームの才能があったのもあって、達郎らの足を引っ張ることはなかった。初心者ながら必死で練習して来た真面目な翔太の活躍もあり予選は優勝して東京へ行くことになる。

 

先生に引率してもらい三人は東京で決勝戦に臨むが、準決勝で敗退してしまう。しかし、三人はこの後は素直に遊ぼうとわりきってゲーム大会の行方を応援する。紗良は別の男性と付き合うことにしたと翔太に告げ、翔太の両親は東京へ旅立つ前に離婚、達郎は、バスケットボールをしていた頃の古傷が痛む。亘は、Vtuberだけでなく本当の友達を手に入れる。こうして映画は終わる。

 

それほど出来のいい映画ではないのだけれど、真面目に作っている気持ちが伝わってくる爽やかな青春映画でした。見て損のない一本だった気がします。

映画感想「青春の反抗」

「青春の反抗」

青春映画という触れ込みなのですが、芯になる話がまとまっておらず、三角関係の展開を繰り返す一方で学生運動の成り行きを同じウェイトで描いていくので視点が見えてこない。ラストの締めくくりから遡って思い起こしても、今ひとつ心に迫ってくるものがない映画でした。監督はスー・イーシュエン。

 

1947年の二・二八事件の後戒厳令が敷かれた台湾は1987年に解除されるまで恐怖政治が続いたというテロップの後、時は1994年に舞台が移る。旧態然とした運営が今なお行われている大学で、美術学科のチーウェイは、何かにつけ理不尽な態度を取る教授陣に疑問を呈していた。この日も、クラスメートからの回しメモを見たことをきっかけに主任に咎められ、それに反抗したために採点を落とされてしまう。その頃、校内では大学側の運営に反旗を翻すビラが撒かれる事件が繰り返されていた。たまたまビラ張りをしていたウェイチンと出会ったチーウェイは、彼らの運動に次第に参加していく。

 

ウェイチンは政府の高官の娘で学生運動のリーダーイークァンの恋人でもあった。イークァンとウェイチンを中心にした学生たちは、美術課の主任の退任、理不尽に退学された学生の復学、学校の運営方針の変更などを求めて授業ボイコットやストライキを行う。チーウェイは拠点であるウェイチンの家に出入りするうちに、ウェイチンに興味を抱いていく。ウェイチンは父への反感もありイークァンと体を交えたりするが、ある日、チーウェイと海に出かけた時、つい口付けをしてしまう。

 

チーウェイは次第にウェイチンに友人以上の感情が湧き上がっていくが、イークァンもまたチーウェイに好意を持っていく。次第にウェイチンの活動はエスカレートし、運動のリーダー的な行動を取るようになるにつけイークァンと争うようになっていく。チーウェイとウェイチンはますます惹かれあい、とうとうベッドで交わってしまう。しかしウェイチンはイークァンに絶対知られないようにしてほしいとチーウェイに頼む。

 

学校側との討論の機会を得た学生たちだが、結局意見がまとまらず、ウェイチンは事務局を占拠する行動に出る。独断的な行動にとうとうイークァンはウェイチンと喧嘩をし、別れることになる。まもなくして、教育副大臣との対話で学校側と折り合いをつけたイークァンは、事務局占拠を解き、資料を引き上げるためにウェイチンの家にやってくるが、その頃はウェイチンとチーウェイは一緒に暮らしていた。イークァンはウェイチンの部屋で、チーウェイが描いたウェイチンとチーウェイの抱き合うスケッチを見てしまう。ウェイチンとチーウェイははっきりとお互い恋人同士になり、二人で手に手をとって出かけるところで映画は終わる。

 

青春映画といえばそうなのだが、学生運動にも力の入った演出がなされているために、どっちつかずの仕上がりになったように思います。台湾の近代史を語りたいという意図も強いために、まとまりのない映画になったのかなと思える一本でした。

 

映画感想「ロッタちゃん はじめてのおつかい」(2Kリマスター版)「水平線」「アバウト・ライフ 幸せの選択肢」

「ロッタちゃん はじめてのおつかい」

たわいない子供映画かと思っていたら、思いの外楽しい映画だった。当時大ヒットしたのもうなずける作品でした。主人公ロッタちゃんの愛くるしさだけでなく、何気なく展開するエピソードに心温まる感動を覚えるし、街の人たちのさりげない物語に人間味溢れる叙情が漂います。スウェーデンという国柄もいいのかもしれませんが、見て損のない一本でした。監督はヨハンナ・ハルド。

 

5歳の女の子ロッタちゃんが可愛がっている豚のぬいぐるみバムセとベッドで目を覚ますところから映画は幕を開ける。ママがやって来て着替えを急かすが、兄のヨナスと姉のミアがロッタちゃんが可愛がっているぬいぐるみのバムセを殴ったと訴える。そんなのは夢よというママはロッタちゃんに早く着替えるようにと毛糸のセーターを出すが、ロッタちゃんはそれはチクチクするから嫌だと言い、ママが出て行った後、ハサミで切り刻んでしまう。そして階下に降りてママが用意したココアを飲もうかと思うが結局また二階へ上がる。

 

ママが出て行った後、ロッタちゃんは家出することに決めて、お隣のベルイおばさんの家に行く。ベルイおばさんは、ロッタちゃんのために物置に部屋を作ってくれる。そこへヨナスとミアもやって来てしばらく遊ぶが夕食だからとパパが迎えに来て行ってしまう。一人残ったロッタちゃんはベルイおばさんの用意した食事をして一人ベッドに入る。しかし、寂しくなってくる。そこへパパが迎えに来て、ロッタちゃんは大喜びでパパとママの家に戻る。

 

クリスマスが近いある日、ロッタちゃんは雪が降るようにと神様に頼んで、当日雪景色になる。ソリでスラロームができるからと一人通りを行ったり来たりするロッタちゃん。ママに頼まれて、ゴミ捨てと風邪で寝込んでいるベルイおばさんの家にパンを届けに行き、途中、ゴミとパンの袋を間違えて捨ててしまい大騒ぎ。

 

一方、雪が多くて木こりが森に入れずツリー不足の年で、ツリーが買えなかったロッタちゃんのパパはがっかりして戻ってくる。ツリーを飾るのを楽しみにしているヨナスもミアも泣いてしまう。ロッタちゃんはベルイおばさんの家に行き、お手伝いをして、ベルイおばさんに頼まれて雑誌を買いに行く。そこで、たまたまストックホルムに樅木を運ぶトラックを見かけ、分けて欲しいとロッタちゃんは頼むが断られ走り去る。ところがトラックから一本樅木が落ち、ロッタちゃんはお店の人に手伝ってもらって樅木を持って帰り、パパ、ママ、ヨナス、ミアを驚かせる。

 

復活祭の日、ロッタちゃんはヨナスやミアと魔法使いの格好で回るのを楽しみにしていたが、ヨナスたちは友達の誕生会に出かけてしまう。ロッタちゃんは仕方なくパシリスさんのお菓子屋さんに行くが、この町ではお菓子は売れないからとギリシャに帰る準備をしているパシリスさんに会う。しょんぼりするロッタちゃんを見たパシリスさんはクリスマスの売れ残りのお菓子をたくさん分けてくれる。

 

ロッタちゃんはそれをバムセおばさんの物置に隠す。そこへヨナスたちが戻って来て、みんなで魔法使いになってお菓子をもらいに近所を回るが、時すでに遅く何も残っていない。さらに、パシリスさんの店が閉店でパパは復活祭の卵も買えなかった。がっかりしたヨナスやミアを見ていたロッタちゃんはその夜、部屋を抜け出す。

 

翌朝、ヨナス、ミア、パパ、ママが庭に出ると。そこにはクリスマスの綺麗な包装をされたお菓子が所狭しと置かれていて、傍にうさぎの着ぐるみのようなコートを着たロッタちゃんが眠っていた。復活祭にくるうさぎの格好をし、うさぎもサンタもいるんだと言わんばかりのロッタちゃん。そこへギリシャに向かうパシリスさんの車が通り過ぎていく。それを見送るロッタちゃんのカットで映画は終わる。

 

とにかく微笑ましいほどに楽しくて、たわいのない日常のたわいのない出来事の数々なのですが、夢溢れている空気感がとっても良くて、日頃さりげなく見ている景色をもう一度見直したくなってしまう映画だった。

 

「水平線」

悪い映画ではないし、出来もそこそこなのですが、いかんせんテーマが暗いですね。それでも、自分たちの考え方の別の視点を突きつけられた衝撃はかすかにありました。災害や犯罪をいつまでも風化させないことが正しいのかどうか、その勇気あるテーマに臨んだ姿勢は見事だと思います。監督は小林且弥

 

福島県、散骨業の仕事をする井口真吾は、この日も旧友清一の船に乗せてもらい、依頼人の骨を海に流す用意をしている。遺族から預かった遺骨を細かく砕き固めて海に流すのが彼の仕事らしい。妻を東日本大震災で亡くし、娘奈生と大きな家で暮らす真吾は、毎日が後悔の日々だった。奈生は近くの水産加工所で働き、同僚でシングルマザーの河手と親しくしている。

 

ある日、松山といういかにも疲れた風貌の若者が散骨を依頼しにくる。真吾は、松山の書類が整っていなかったので遺骨だけ預かる。ところが後日一人のジャーナリスト風の男江田がやって来て、松山が預けた遺骨は横須賀連続殺傷事件の犯人のものだと告げる。そして、震災で遺族が亡くなっている海に殺人犯の骨を撒くことはどうかと問いかけてくる。真吾は無視するものの、江田は動画をアップしたり、殺傷事件の遺族を連れて来たりしてくる。以来、散骨の仕事がなくなり、奈生も職場で上司から注意されてしまう。地元の漁師も散骨による風評被害を恐れるようになる。

 

一方、河手がある日奈生に、三万円貸して欲しいと頼んでくる。アレルギーで苦しむ幼い息子を育てているのを知っていた奈生はなけなしの金を貸してやる。しかし、河手は時々仕事を休むようになる。奈生の同僚が、実は河手には子供などいないのではないかと言い、奈生は親友の沙帆と河手のアパートへ行く。しかしそこには幼い息子が留守番していた。奈生らが帰りかけると派手な音楽をかけた車が入れ違いに入ってくる。中から河手と若い男が出て来た。奈生は自身の考えに腹が立つが、そんなことで傷つく奈生は嫌いだと沙帆は言う。

 

真吾は江田に言われてとある工事現場へ向かっていた。あれから連絡がつかない松山がその現場で働いているのだと言う。真吾は遺骨を返却するべくやって来たのだが、必死で生きる松山を見て踵を返し帰っていく。真吾は遺骨を砕き散骨の準備をし、夜、車で外出する。江田が後を追うが、真吾は行きつけのスナックに行った風を装って親友に車を借りいつもの船の船長清一に無理を言って、船を借りて沖へ出る。そして殺人犯の遺骨を散骨してやる。

 

翌朝、漁業者らが真吾に詰め寄る。その帰り江田に引き止められた真吾は、風化させたくないと言う江田に、遺族らは悲しい思いを拭えず、早く風化させたいのだと言い返す。その言葉に江田は言葉が出なかった。真吾は溝ができた奈生を自宅に車で乗せて帰るが、奈生にこれまで頑張って来たことをねぎらい、自由に生きるように言う。そして、松山の散骨事件以来仕事が止まっていた散骨の作業場を開けて、依頼者の遺骨の処理を始める真吾の姿で映画は終わる。

 

テーマこそ暗いし、ジャーナリスト江田やSNSの使い方など一瞬嫌な雰囲気になりそうな映画だったが、描く視点は実に冷静で考えさせられる。一級品とは言えないかもしれないが、一見の値打ちはある映画だった。

 

「アバウト・ライフ 幸せの選択肢」

お話が面白くなりそうなのに、膨らみのないストーリー展開で、豪華キャストの割には、中身の薄っぺらい映画でした。監督はマイケル・ジェイコブス。

 

モノクロ画面での映画のワンシーンから物語は幕を開ける。感涙している一人の観客サム、それが気になる女性グレースは席を移動したサムの横に座る。二人は意気投合し、会話が弾んで、近くのモーテルに行きかけるが、居心地が悪く深夜レストランに行き、結局モーテルへ行くが気まずくなり散歩に出る。ここに高級ホテルのベッドで不倫を重ねて四ヶ月になるハワードとモニカ。モニカはセクシーな格好でハワードに迫るがハワードは話を逸せて、結局別れ話のようになってハワードは出ていく。友達の結婚式に出たミシェルはブーケを受け取る約束の場に立つが、受け取ったのは彼女の恋人のアレンで、二人は気まずくなり喧嘩別れしてしまう。

 

ミシェルは両親の実家に帰ってくる。なんと両親はハワードとグレース。一方アレンも実家に戻ってくるが両親はサムとモニカだった。ミシェルは恋人アレンとの経緯を両親に話し、アレンもミシェルとの経緯を両親に話す。そしてハワードとグレースはアレンとその両親を食事に招待することにする。

 

ハワードたちの家にやって来たサムたちは、あまりの偶然に驚きながらつきつ離れず奇妙な会話をしながらアレンとミシェルの結婚問題に触れ会話を繰り返す。ところがふとした会話から、サムとグレース、ハワードとモニカの関係がそれぞれにばれてしまう。ミシェルとアレンは両親がそんなこととは知らずにお互いの関係を修復する。ハワードやサムらもそれぞれの関係を理解したのか許したのか、クライマックスはアレンとミシェルの結婚式の場面、ハワードとグレースも定位置に、サムとモニカも定位置に立って、それなりに丸く収まって映画は終わる。

 

なんのウィットの効いた展開もない軽いタッチの古臭いアメリカンコメディという作品だった。もっと膨らませる才能があれば面白くなりんじゃないかと思ってしまう物足りない脚本という一本でした。