Hatena::ブログ(Diary)

寄らば大樹の・・・どこか

9999-12-31

平素

寧日時を迎えず

日々鬱積を刻む

寧日時待てども

鬱積之を閉ざす

2017-05-16

加害者を追い込む過剰な正義

朱門には酒肉きに

路には凍死の骨有

杜甫


今の日本ではないかと。富を持つものは生臭く生を貪り、貧乏人は道端で凍死しても同情されない。地獄の沙汰も金次第とは何時からこんな日本は薄情な国になったのだろうか。私が生きていたほんの数年前からこの変わりようはおかしい。おかしいのはてめえの頭だと言ってしまっても構わない。人柄を才能で潰すことでこの国は成長したのではないと。日本が諸外国から評価されてきたのはその「人柄」である。「人命は地球よりも重い」とハイジャック犯の要求を鵜呑みにした日本政府はまだ弱者に対する抱擁があり、「それ」だけは国外からも評価されていたという。それが今では自己責任と言う薄情な言葉で切り捨てそれを国民が理解してしまう。だから、この国は弱者に薄情になったのだ。国が変われば民も変わるものか。私はこの国の人間ではないのだろう。

弱者を助けようとせず、さらに弱者となる人を追い込んで弱者に仕立てようとする。

どこかの鉄道かは東急田園都市線痴漢を疑われた男性が女性と他の男性客によって電車からおろされたあとに線路に逃走して轢かれて死んだ。痴漢冤罪なのか痴漢と言う卑劣な行為の報いだというのは個々の判断でよいのだが、私が許せないのは女性ならともかく、関係のない他の男が正義ずらして男性を苦しめたことである。どこの誰だからわからないが第三者の私人逮捕は大変腹が立つ。これは私は過剰な承認欲求からくる正義としている。痴漢を捕らえて女性に感謝されたいというのではない。痴漢という低俗な人間を合法的にいたぶり蔑みいじめて気分を爽快にしたいだけである。痴漢男は悪。悪だから大衆にその醜悪なサマを見せつけるためにも俺がこの行動を起こさねば(痴漢男を捕まえなければ)。まさにいじめである。この国は弱者となったものをいたぶって快感を得る得体のしれない人間がいるのである。溺れた犬を棒で叩くどこかの国のメンタルを見習っているのである。痴漢は最も醜い犯罪であり衆目に触れることで社会的信用を失墜させる。だから、せめてもの情けとして痴漢者に大立ち回りをして捕らえるようなことは差し控えてもらいたいのである。痴漢者がつけ上がるからとかそういうのよりも、痴漢者と周りのトラブルを私はあまりにも汚い世界なので見てるだけでも吐いてしまうのである(実際吐いた)。そんな芝居を終わらせて欲しくてそこら辺の男数人で取り押さえるような大げさな真似はやめていただきたい。痴漢者とその被害者と周りの協力者のやり取りはこの世のものとは思えないほど悍ましい。私が痴漢者を取り押さえる男を嫌うのはこんな心からの嫌悪感である。しかし、罪は罪。罰しておかなければとおもうところだが・・・。

昔の日本は「武士の情け」と言うものがあった。人の弱みは見て見ぬふりをしてあえて周りに風潮させたりしない。何故ならそれはその弱みを持った人をさらに傷つけ自尊心を内心までも傷つけては余りにも不憫である。それがたとえ犯罪であってもだ。悪人であっても恥をさらさせたりはしない。それは日本固有の日本人の持つ優しさでもあった。

古代中国において春秋時代の楚の荘王は臣下にむけて酒宴を開いた。その時ふとしたことからろうそくの明かりが消えた。暗闇の中である臣下が荘王の妃に悪戯をした。妃は荘王に「私に無礼を働いた者がいてその者の冠の紐を切りました。明かりをつければ冠の紐が切れた者がいます。その者が私に無礼を働いた者です」と語った。荘王は臣下全員に「明かりがつく前に冠の紐を切れ」と命令した。明かりをつけたら皆の冠の紐は切れていたので誰が妃に無礼を働いたのかわからずその場は収まった。確かに悪いことをしたならば咎められねばならない。しかし、大勢の前で辱めを受けさせるのは悪戯とはいえ耐えがたい屈辱であり他の臣下からは蔑まされ今後の人生に暗い影を落とすことになるかもしれない。ちょっとした悪戯ぐらいでそれでは可哀想であるとしたのは荘王の優しさでもあった。その後は続きがあり荘王は戦いで死にそうになった。その死にそうになった荘王を命を捨てて救い出したのが妃に悪戯をした臣下だった。見事に荘王の優しさにその臣下は応えたのである。女性の言葉と臣下の今後の人生を天秤にかけて判断した荘王が戦国覇者となれた所以の一つであろう。

故事を持ち出して私が言いたいことはいかに犯罪者でも人としての尊厳はある。身体は痛めつけてもいいが心まで痛めつけるのは余りにも不憫でならないと私は思う。ことに痴漢と言う人前で恥ずかしいことはその当事者間で誰からも知られずに厳罰を受ければよい。そういう犯罪は他人に言いふらすのは下品で無教養。ことにそんな痴漢と言う過去の後ろめたさを弱みとして握り、それで陰口を叩くような卑怯な輩は殺されても構わないと思っている。過去は過去。受けた罪を罰で全うしたらいくら気になっていても決してそれをその人にむけて言い放ってはいけない。

さて、痴漢を取り押さえた男どもにそんな相手に対して気遣いはあったのだろうか? 断言する。ない! そんなことだから痴漢者を余計に怖がらせて線路に追いやり殺してしまうのである。線路で死んだのは冤罪云々とかではなく馬鹿な男の過剰な正義のせいであると言いたい。悪者は悪いから銃で撃ち殺しても構わないというダーティハリー症候群に武士の情けとか、情けをかけてあげられる寛容な精神を持つことなど二度とできない。その人の人生なんて知ったことではない。悪者は悪者なので人ではないのである。捕らえた男の言い分はこうだろう(死ぬ前までは)。これは今の日本社会にに相通じる。低所得者は努力不足、甘えだから助けてやる必要ない。おそらく痴漢を捕まえた男は社会的に合格したリーマンあたりだろう。何を偉そうにネクタイ絞めて首から社員証をぶら下げ勝ち誇った態度でいるのだろうか。そんなんだから弱者に対して過剰な正義を振りかざすのである。自分自身を善人だと思っている人間の傲慢さに自分のなかにある悪に対する自覚に関する問題を解いてほしいと常日頃であるのだが。

さて、無教養なエリートリーマンがこの過疎ブログを見ていることを祈りながらもう一つ・・・。

レ・ミゼラブルジャンバルジャン。彼はくだらない金額パンを盗んだ罪で十年余も時計吊るしの刑を受け刑が終わると無一文で刑務所から追い出される。食べるあてもなく死にそうなジャンを教会の神父が助けてあげる。神父はパンを盗んだだけでそれだけの刑を受けるのかと驚きジャンが余りにもかわいそうすぎると涙を流す。神父はジャンを教会で働かせジャンもそんな神父の優しさに感動して真面目に一生懸命働いた。神父はそんなジャンの献身的な態度に心を打たれる。ある日神父が教会を留守にしたとき一人残ったジャンは魔がさしたのか教会の銀の蝋燭立てを盗んで教会を出て行っしまう。帰ってきた神父はジャンがいないのと蝋燭立てがなくなっていることに気がつく。後日ジャンは逮捕された。手には盗んだ蝋燭立て。ジャンは己の悪事を認め観念して警察とともに神父のもとに。ジャンを捕らえた警察は神父に伝える。

「奴が盗んでいった蝋燭立ては無事戻りました」と。

その時神父は怒りながら警察にこう放った。

「あなた方、なんてことをしてくれたのですか! その蝋燭立てを彼が盗んだ!? とんでもない!! 何を勘違いなさるのか。その蝋燭立ては彼に差し上げたのです。それなのに何故彼を捕まえたのですか。あなた方はまたしても罪をかぶせて彼を痛めつけようとするのですか!?」

その後のジャンは完全に改心してパリ市長になる。そんなことよりも恩をあだで返したジャンを神父が、このような言葉を放ったわけとは何だろうか。

親鸞歎異抄にもある「悪人正機」。悪人こそが救われなければならない。悪人は善行を成しえないのだから救ってあげて善人にさせなければならない。常人は常人ゆえ、悪ではないから救うこともない。まことに救うべくは煩悩具足に苦しめられている悪人。どんな修行しても地力救済を成しえない。だから阿弥陀仏は救ってあげねばならない。ジャンが悪事を働いたのに嘘をついてまでジャンを庇う神父。悪人こそが救わねばまた悪人になるだけ。ならばまたジャンを救わねば。実に単純である。罪の重さよりも人間としての良心がジャンにはあり、神父はそちらを選んだに過ぎない。本当に悪人ならば教会で真面目に働くわけがない。ただ、その時は手が出てしまったけど彼にまた辛い思いをさせたくない。銀の蝋燭立て一つでまた彼の人生に影を落とすくらいならそんなものあげてしまっても構わない。

キリスト教はこんな博愛精神がある。右の頬を殴られたら左の頬を差し出す。悪人には悪人をも改心させるほどの慈愛の精神が、その慈悲深さ優しさこそがキリスト教の「愛」となり最大の特徴なのである。

犯罪者を擁護するのは私ぐらいである。しかし今日において僅かばかりでもいいから犯罪を減らしたいと思うならば、罪を重くしたり見せしめとしてさらし者にするのでは世が殺伐とするだけな気がして全く効果がないと考える。私の足りない頭で犯罪関連の本を読んだがどうも罪を減らすのは博愛主義だと信じている。

それにしても、だ。悪人なら悪人を善人にさせることの手間を惜しみ悪人のまま悪人で終わらせ後世に悪名を綴る。貧乏人は努力不足と言い自己責任と言う薄情で無慈悲な言葉で後世に綴る。お人好しと呼ばれた日本人も変わられたものだなと実にため息が出てしまう。

2017-03-05

変な旧譜頒布するかもよーヽ( ̄▽ ̄)ノ

私が作ったしょうもないものを



    ヾミ || || || || || || || ,l,,l,,l 川〃彡|

     V~~''-山┴''''""~   ヾニニ彡|       出す・・・・・・!

     / 二ー―''二      ヾニニ┤       出すが・・・

    <'-.,   ̄ ̄     _,,,..-‐、 〉ニニ|       今回 まだ その時と場所の

   /"''-ニ,‐l   l`__ニ-‐'''""` /ニ二|       指定まではしていない

   | ===、!  `=====、  l =lべ=|

.   | `ー゚‐'/   `ー‐゚―'   l.=lへ|~|       そのことを

    |`ー‐/    `ー――  H<,〉|=|       どうか諸君らも

    |  /    、          l|__ノー|       思い出していただきたい

.   | /`ー ~ ′   \   .|ヾ.ニ|ヽ

    |l 下王l王l王l王lヲ|   | ヾ_,| \     つまり・・・・

.     |    ≡         |   `l   \__   私がその気になれば

    !、           _,,..-'′ /l     | ~'''  頒布

‐''" ̄| `iー-..,,,_,,,,,....-‐'''"    /  |      |    10年後 20年後ということも

 -―|  |\          /    |      |   可能だろう・・・・・・・・・・ということ・・・・!





AAズレんなよ(ブラウザIE推奨)。でコレ欲しい奴いんの? 俺だったら100円でもいらねえよ。100円くれておまけについてきてもいらねえと思う。


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クソジャケから漂う地雷臭。中身は冷戦時代のソ連東方原曲pianoアレンジ。いちおう今年の例大祭なんだけど…。例大祭って何? どこの神社? そして東方とは? 東方って何? 詳しくは「東方 例大祭」と検索してください。

そもそも興味あんのか東方とやらには? おめーサークル活動もう二度としないとか言ってたじゃねーかよ。そうですだからわしは当日行きません。ちなみにタダです(マジです笑)。


※追記

やっぱわし当日行きません。めんご

2017-02-28

交流するためにあるのに交流できない? SNSというのが正直苦手

※この文章は所詮エビリファイを飲んでる奴が考えたものなのでご理解を。

長い前置きになるが、ネットをしていて一番後悔するときというのが2ちゃん見てる時だったりする。

相田みつをさんの書を綴る書籍「生きててよかった」(角川文庫)の中に

「ひとの批判はかんたんなんだがなあ」

というページがある(p40)

その意味とはSNSで誰でも気軽に意見を発信出来る現象一億総批評家」とはそれ自体は間違いということはないにしろ、批判するだけなら楽なんですねとチクりと述べられている。人の批判をするとき自分はいつも傍観者。具体的には動かない。自分は手を汚すことは何一つしない。要するに自分のことは棚上げなんですねと続き、自己が具体的にどう動くか傍観者になってはいけないと締めくくる。

正論かもしれない。だから今まで口先だけで行動しようとしない右翼と俺たちは違うんだという思想の元、行動する右翼として在特会が誕生した。その後の流れは私にはどうでもいいこと。好きにしてほしい。言葉が逸れたが、ネットで勇ましく言うわりには案外だったりするのは、それは別に口に出したことを行動しなくてもその言葉を出すこと自体が気持ちいいからそういう「傍観者」になるのである。私はそれが大変気持ち悪いからブログ批判したものだが。後で知った。ネットで現実では言えないことを言うのは大変面白くてやはり気持ちがいいのである。ちなみに、もし自分の思っていることを誰にもわかるように身分を明かしてあえて口にすると大変な目に遭うのは長谷川何とかという元アナが証明してくれた。みんな大人だから気づいてるけどあえて言わないことが世の中にはたくさんある。それを何の配慮もなく無神経に発言しておいて「他人が気づかない、言えないことをズバリ言った俺は偉いみたいに勘違いしてない?」なんてね、と。けれども誰とは名乗らない「匿名」であるならば長谷川何とかみたいな酷いことも言えるだろう。匿名で言うのでは問題とされないくせに実名で言うと叩かれる。このダブルスタンダードは何なんだ。私は「自分」という正体を明かして正直な気持ちを発信した長谷川何とかという元アナは、少なくとも自分の「正体」を明かさないでコソコソ陰湿に人を中傷する2ちゃんモンなんかよりもよっぽど清々して潔い、そして嫌い。殺せという言葉も私ならば首を切り落としたいと言い換えるだろうからその殺せという言葉の倫理観を説いても無駄なのであしからず。この、なんていうか、正体を明かさずに自分は安全な場所から人を批判してその人を傷つけても当の本人は傷つかないのであればそれは批判ではなく誹謗中傷でフェアではなく意見としてまかり通らないと思う(これは私にも言えることでまったくの矛盾だが…)。

誰かというのがバレなければ悪口みたいなことを言っても平気。現実社会でそれを出さなければいい。もしそれが分別のある行為とするならば理屈ではわかっていてもその二重人格がとても恐ろしい。それにも関わらず私は2ちゃんを見てしまう。前置き長く2ちゃん文句の後は2ちゃんねらー発言ですか。ふーんご立派ですね。その理由としてひどいと思う反面、鋭い意見が2ちゃんにはあり驚かされた次第。その匿名で偉そうなことを言っているのを差し引いても鋭いレスを見てもいいかなという思いで嫌々2ちゃんを見てしまう。鋭い意見よりもひどい意見のほうが多かったりもするから悩みどころだが。それと2ちゃんみてるのは性格悪く思われるからそれを隠しているという方がいたら、まぁ嫌う人もいるから口に出さないほうが賢いと思う。けど私はそれは偏見だとして自分を正直に伝えるためにたとえクソねらーと呼ばれても絶対に気分を悪くしない。

2ちゃんみてたら小金井女子大生アイドルアイドルと言うのは判断に迷うと思うが)刺傷の判決にいろいろスレがあった。その中である人が被害者をファンの男とうまく交流できなかったのが今回の事件につながったというそのスレのタイトルは「○○(被害者)さんにも落ち度がある。Twitterで無闇にブロックするのはどうかと思う」。要は被害者とファンだった男のやり取りには被害者の性格の悪さがあり気位が高いからあんな結果になったと半ば人格否定を含んでいるものでそれが被害者の落ち度としている。あーそれ言っちゃうのかー。やっぱそう思っている方がいるもんなー。いざ口に出されるとそういうのって凹むものです。「屍に鞭打つ」という伍子胥みたいな性格が好きでもこれはあんまりである。まず落ち度という言葉の使い方が間違い。冷静になれよと。何故そんなことを言ってしまうのか。包み隠さない本音のを語れるというSNSの長所のような短所の部分だ。こう言ったほうが注目を浴びるからだ。言った本人は注目を浴びたいのだろうし、現に2ちゃんが取り上げた(2ちゃんで取り上げられたからって注目されるものでもないが)。こういう過激なことを見てしまうとひどいと思う。これは鋭い意見でもなんでもない。鋭い意見には「落ち度」という言葉は存在しないし、その使うべき本当の意味を知らない無教養さに腹が立つ。まぁ個人的な意見として見るならば感情的に排するものではないので発言自体は撤回するものではないが。

しかし私もうすうす感じてたよ。事件が起こった当初から。それは思っていても言わないことだったけど、なんで以前書いたブログの文をまたここで書き直してまで言うのだろうか。それにはSNSというものが無常に思えてくるから。今回事件の判決2ちゃん見て改めて思ったこと。それは・・・ここからが本題。

まず例を挙げる。あるシンガーソングライターがそのファンに刺された事件があっただろう。ファンSNSシンガーソングライターの女性にプレゼントを贈り、そのプレゼントをSNSにアップしてほしいと頼む。それに女性は無視。別のファンからもらった品をSNSにアップする。なんで自分の贈り物はアップしてくれないんだとムカつき、いらないんなら返してくれと言ったら本当に返してきた。その瞬間自分はこんなに応援して感謝の気持ちを出しているのに何で分かってもらえないのだろうと酷く傷ついたのだろうか。自分だけがその女性と形だけでもいい、仲良くできないのはそれほどまで自分が嫌いなのか、じゃあ今まで好きで応援していたのは何なんだという葛藤が嫌悪殺意に変わったのだろう。

私の、この事件の嫌なところはSNSで自分の気持ちが相手に伝わらないどころか、嫌っていないのに嫌われるというやるせなさである。たとえどんなに気持ち悪い顔をしていようが、一人のファンとして見ることはできなかったのか。正直私は被害者の女性に同情しないし、刺したファンは自分が好きだったのにそんなことするからそれに輪をかけて同情しない。つまり、その差に開きはあるもののどちらも悪いと思う。こうなった元凶はSNSというそんなSNSが嫌いだったりする。

誰と交流するかなんて人の勝手だし、干渉する物言いだから嫌われて当然。刺したファンも私も一緒。だけど・・・SNSで相手にされずに嫌われると察してしまうのは結構落ち込むものなのです。それこそ、顔が良くて才能があって素敵な性格でないとSNSで交流できないとあれば、そうやって人を差別するSNSが嫌いなのである。同じ趣味を持っていても必ずしもつながれないのがたいへん悔しくて堪えるのです。私は趣味を通じてSNSで交流して実際に出会って夜は焼き肉食ってその写真をアップしているTwitterをみると羨ましくて妬ましいです。「なんでこんなに仲良くできたのだろうか。私は出来ないのに」。

私がSNSで後悔することの最大の理由とはコミュ障は現実でもSNSでも孤独なんだなと。SNSで人と交流できるなんて大間違い。できるためには本人の器量がものをいう。これではその器量がない人間がSNSをやるのは自分で自分の首を絞めるようなもの。現実でも嫌われているからせめてネットの中だけでも好かれたいと思っていたのに何でネットでも嫌われなきゃいけないのだと。そうなると自分はなんてくだらない人間なのだと自己嫌悪に陥る。「交流したいと思う方から相手にされないというのが辛い。それで自分がいかに魅力のないくだらない人間なのかと感じてしまい自尊心が傷つく」という理由はSNSが嫌いな理由としてどのサイトでも紹介されてなかった。私だけなのだろうか、こんな理由でSNSが嫌いなんて・・・。

私は被害者と加害者がSNSに性格をモロ反映させてしまったことが事件に至る進行を加速させたのだと。両者ともSNSのデメリットを考えないで、相手の気持ちを考えられないで自分の赴くままSNSを使っていたのが事件の本質だと感じるのである。私は事件当初に加害者に一語半句でも同情するならば、それは被害者に一語半句でもいいから自分のファンだった男に同情してほしいことは、相手にされないと感じたときの失望感を、それを察して欲しかった。嫌いな相手には嫌いだという姿勢は相手を傷つけるということに思慮を深く持ってほしかった。だが後から思い直した。そんなのは相手がごく普通のファンの時であり、今回の加害者には通用しない綺麗ごとである(犯行が余りにも逸脱している故)。じゃあどうすれば刺されなくてすんだのだろうか? どうしても嫌いならば以下の方法をとればよかったのではないか。

・相手を見極める。所有欲、過剰反応、病的嫉妬、極端な献身と拒絶など情緒不安定がないか、あるいはどの程度か

・相手が危ないと思ったら遠ざかる。付き合いをやめる、相手の体面を傷つけず、かつ理性的に率直にきっぱりと告げる

個人情報を守る。自宅住所、電話メールアドレスSNSなどは公開しない

そんなことをするのは相手に屈したという屈辱を味わうので、嫌な思いに負けずに自分を貫く活動をしたとあればそれは間違いだったのだろう。こんな奴に活動を妨害されたくない、危害を加えられそうだからといって活動をとめるようなことは私のプライドが許さない。そんな気の強さがいけなかったのだろうか。時には相手から逃げなければならない時だってあるのではないだろうか。

この事件。被害者の気の強さでも加害者の異常な気質でもそれが引き金だとしても、そうさせたであろう、そうやって性格を歪ませたSNSが悪いのです。だから私はSNSが嫌いなのです。

2016-12-30

俺は約束したからコミケに参加するね

今年の夏コミ(C90)で私に差し上げると約束していただいたお品を頂きに今年の冬コミ(C91)に一般参加しました。


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手前に写るお菓子とカイロはもらったものだよ

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「クリフさん(私のPN)よろしければお描きしますよ」とは、私は嬉しいというよりも正直恐縮でした。夏コミの時にお約束頂いたお品確かに受け取りました。本当にありがとうございます。