映画「ロイドの巨人征服」

 活弁シアターで、映画「ロイドの巨人征服」(1923年、アメリカ、56分、白黒、Blu-ray、無声)を観る。

 監督、フレッド・ニューメイヤーサム・テイラー

 出演、ハロルド・ロイドジョビナ・ラルストン、ジョン・アーサン。

 活動弁士佐々木亜希子さんによる活弁シアターである。

 世界三大喜劇王のロイドと巨人の凸凹コンビが繰り広げる痛快コメディー。

 

自分が病弱だと信じている、若き億万長者ハロルドは、看護師を連れて熱帯の孤島へ静養に行く。が、そこは革命戦争の最中で、密使と間違われて投獄されてしまう。牢屋で出会った巨人のコロッソと共に脱獄するが、敵は大軍で押し寄せてきて・・・。 作品提供/マツダ映画社(チラシより)

 

 

 

小冊子から

 書店にて、『理』(コトワリ)No.67を頂く。〈非売品、ご自由にお持ちください〉という文面が16ページのスタッフ通信の下に書かれている小冊子である。

 リレーエッセイが三篇あり、そのひとつ「京の六条」(前川裕)と「連載 世界から」(海老坂武)を読む。

 「京の六条」は、《一条から十条まである京の通りの中でも、一番影の薄い通りだと思われます。》と筆者が語るその六条通を歩いてみませんかという案内記であった。ゆっくり歩いても三〇分ほどの短い通りですが、ほかには見られない風景も残っている、という。

 「連載 世界から」は、最終回で「大江健三郎を想う」であった。

 『万延元年のフットボール』のようにサッカーと言わずフットボールと言う大江健三郎のその秘密(?)が、中野重治の詩によるはずだという。

http://www.kgup.jp/files/ko_web_67.pdf

「僕は珈琲」を読む

 新刊のエッセイ集、片岡義男著『僕は珈琲』を読む。

 本文267ページの内、125ページから148ページが、短編小説「謎なら解いてみて」である。

 印象に残るエッセイのひとつに、「わしゃあカタオカじゃ」があった。

 戦時中、一般人の長距離の移動、旅行が厳しく制限されていた当時、東京駅から汽車に乗って、二日近くかかって岩国に到着した子供の頃の思い出を書いているエッセイである。

 小林信彦片岡義男の対談集「星条旗と青春と」に、「1940年代 大いなる幻影」に、岩国について、次のような対談があるのでその箇所を一部引用すると、

 

 小林 片岡さんは、八月十五日という時点では岩国(いわくに)ですか。

 片岡 そうです、岩国にいました。

 小林 何歳だったわけ?

 片岡 小学校に入る前の年でしょう。

 小林 六歳ぐらいですか。

 片岡 そうです。昭和二十年というと、だいたい以上のようなかんじだったのですか。

 小林 ぼくはそうですね。  21~22ページ

 

 新刊の片岡義男著『僕は珈琲』という本を読んで思ったのは、筆者はリチャード・ブローティガンのやろうとしていたあのアイデア、つまりブローティガンのマヨネーズを、珈琲という言葉で試してみたのではなかろうか。

 片岡さんの『謎の午後を歩く』という本に、ハワイのマウイ島のラハイナ、リチャード・ブローティガンのペーパーバックの写真があり、並々ならぬリチャード・ブローティガンへの片岡さんの興味が感じられたのだった。

 

僕は珈琲

 

謎の午後を歩く

謎の午後を歩く

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対談:ぼくらの個人史2

 小林信彦片岡義男の対談集「星条旗と青春と」(副題が、「対談:ぼくらの個人史」)を読む。

 

 目次             

 はじめに           小林信彦

一九四〇年代 大いなる幻影

一九五〇年代 蜜月の終り

一九六〇年代 根こそぎの十年

一九七〇年代 昨日を超えて

 おわりに           片岡義男

 戦後史略年表

 解説             河村要助

 

 「はじめに」の冒頭から一部引用すると、

 《こういう書物をいっしょにつくる気がありませんか、という計画を、ぼくが片岡さんにしたのは、昨年(一九七九年)の暮れ、植草甚一氏が亡くなったお通夜の席であった。

 こう書くと、はなはだ不謹慎にきこえるかも知れないが、その直前に、片岡さんがDJを担当しているFM番組に招かれ、二人で一九四〇年代の話をして、たのしかった気分がぼくのなかに残っていたことと、さらにいえば、ぼくは片岡さんに電話で気軽に語りかけるほどには親しくなく、こうした機会がなかったら、声をかけにくい事情もあった。》

 

 

 

対談:ぼくらの個人史

梅雨の中休み、街路樹のヤマモモ(山桃)に、実が鈴なりで色付いてきた。

ヤマモモ科の常緑樹で、葉が長楕円形をしている。

 小林信彦片岡義男の対談集、『星条旗と青春と』を読む。

 副題が、「対談:ぼくらの個人史」。

 カバーそでに、

 「アメリカが日本にあたえた影響についてじっくり語り合うとすれば、片岡さん以外の相手は考えようがなかった。(略)四度にわたる対談で痛感したのは、この国の風土のなかにおいては異端であるはずのぼくが、日系二世の子弟である片岡さんと向い合うことによって、およそ〈日本的〉ならざる感じとり方をつきつけられ、おのれの内部の日本的な部分を否応なしに認めざるをえなくなったことであった」(「はじめに」)

 敗戦とともに日本に飛びこんできた〈アメリカ〉。民主主義であり文明であり豊かさであった〈アメリカ〉は、日本で如何(いか)に ”消化”されたのか? アメリカン・サブカルチャーとの様々な出会いを軸に、ユニークな二つの視点が日常感覚でとらえた、もう一つの戦後史・アメリカ論。

 文庫の帯に、

対照的な二つの視点からとらえる”日本のなかのアメリカ”

 

戦後史略年表

解説    河村要助

 

 

汽車旅放浪記から

 五月に公開された映画『銀河鉄道の父』を観た。監督は成島出。門井慶喜の小説『銀河鉄道の父』が原作の映画化作品である。

 父を役所広司、賢治を菅田将暉、賢治の妹トシを森七菜、母を坂井真紀、弟の清六を豊田裕大、そして祖父を田中泯が演じている。

 冒頭の賢治とトシの二人のシーンは、「永訣の朝」を思い出させる。ラストの鉄道のシーンは「銀河鉄道の夜」を思わせるのだった。

 関川夏央著『汽車旅放浪記』の「オホーツク発、銀河行」を読む。

 一九二三(大正十二)年、岩手県立花巻農学校教諭となって二年目の夏休みを利用しての樺太旅行を筆者は追体験している。 

 賢治の樺太行きの表向きの目的は、盛岡高等農林学校を卒業後、王子製紙に入社した学友の細越健を訪ねることだったが、一部引用すると、

《賢治の樺太行きの真の目的は、とし子の鎮魂であった。また、とし子との「再会」であった。鉄路の尽きる海岸、その北の空の「あの青いところのはて」にとし子はいるはずだと賢治は考えた。彼は当初から栄浜を目的地と決めていた。》125ページ

 「銀河鉄道の夜」については、

 《賢治が「冬と銀河ステーション」「『ベーリング鉄道』序詞」「銀河鉄道の一月」を同人誌「銅鑼(どら)」と「盛岡中学校校友会雑誌」に発表したのは樺太旅行の四年後、一九ニ七年のことである。童話『銀河鉄道の夜』に至っては、一九三三年、三十七歳で彼が死んだのちに「発見」されたのである。

 しかし『銀河鉄道の夜』はこの樺太行きで発想されたのであり、「銀河鉄道」の始発駅は、樺太東海岸の当時の終点栄浜駅、またそのオホーツクの岸辺であると私は思う。

 賢治はそこからオホーツク発の列車に乗って、永遠につづくかと思われる「支手のあるいちれつの柱」を見はるかし、「さびしい停車場」のひとつひとつで停まりつつ、無窮の清潔な闇(やみ)を駆けて死者と再会したのだ。そう私は信じる。》130~131ページ

 

 

 

 

 

映画「ロシュフォールの恋人たち」

 1月から3月にかけて月に一回、開催された「土曜日の映画館」は、

 1月、トッド・ヘインズ監督の「キャロル」(2015年)

 2月、ヤスミン・アフマド監督の「タレンタイム~優しい歌」(2009年)

 3月、ジャック・ドゥミ監督の「ロシュフォールの恋人たち」(1966年)

 3月の映画、「ロシュフォールの恋人たち」を観た。

 

 出演、フランソワーズ・ドルレアックカトリーヌ・ドヌーブジーン・ケリー、ジョージ・チャキリス、ジャック・ぺラン、ミシェル・ピコリ

 年に一度のお祭りで賑わう港町ロシュフォール。双子の姉妹ソランジュとデルフィーヌは、新しい恋の予感に胸を躍らせる・・・。ドヌーブとドルレアック姉妹の相手役には『雨に唄えば』のジーン・ケリー、『ウエスト・サイド物語』のジョージ・チャキリスという、ハリウッド・ミュージカル映画の大スターが登場! (「土曜日の映画館」パンフレットより)

 

 上映後、フランスのオーシュ市にあるミニシアター「Cine32」のブランディーヌ・ボーヴィーさんのフランスの「映画の授業」という動画がスクリーンで上映される。
 ロシュフォールで行われた撮影現場の映像、広場から双子の姉妹のいる建物の部屋へとクレーンによる移動撮影のシーン、ジーン・ケリーのタップ・ダンスの撮影のシーンなどなど、そして映画の裏方、照明係や美術スタッフらの映画製作の現場の映像を観る。

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=TyKMhVdFvZI