『基本的人権』とは何か?

 まず、私の手元にある国語辞典を引いてみましょう。すると、こういう意味だと書かれていました。「憲法にきめられている、いかなる権力にもおかされない、人間が当然にもつべき権利。人権。[個人の精神・身体の自由や、物質的生活手段の確保などを中心とする]」と、ありました。何だか、わけがわかったようなわからないような説明です。私たち日本人は、これと同じような説明をこれまでも何度か聞かされてきました。「へぇ〜。今の日本の憲法でそう決まっているのか。そういうものなんだな。」と納得しないと、時代に乗り遅れるように感じたり、今の世の中から取り残されてしまうような気持ちになってしまいます。
 だから、『基本的人権』という言葉の正体がつかめないまま、それをどうやって尊重したらいいのかわかりません。この言葉を読むことはできても、何度読んでもよくわからないから、知っているふりをしようというのが、これまでの私たちの本音だったと思います。
 「これからの世の中は、人は個人として尊重されるんだよ。」と他人から言われたりします。言うことをきかない我が子に手を上げてはいけない、と諭(さと)されたお父さんお母さんは一体どうしたらいいのか困り果ててしまいます。結局我が子を甘やかしてしまい、人として基本的なことを身につけさせてあげられなかったりします。
 だから、「日本人はこうあるべきだ。」とか「我々日本の社会、あるいは、世の中はこうあるべきだ。」とか「日本国はこうあるべきだ。」という理想を掲げることが大切だ、と考える人たちも増えているのです。それなのに、現行の日本国憲法にはどうして、このような日本人として、あるいは、人間として道義的に大切な理想が述べられていないのか。こんなことでは、日本人は、日本の社会、あるいは、日本国は、乱れていく一方である。全ての法律のおおもとである、憲法のこうした悪しき内容を変えて、戦後にわかに蔓延(はびこ)ってきたそうした悪しき状態から日本人や日本国を救わなければいけない。そうした使命感を持つ人たちが、そんなふうに考えていることは、無理からぬことと言えましょう。
 ところが、最近、思いがけない事件が起きてしまいました。このことを話せば、若い人たちにも理解ができると思うので、ここであえて述べさせていただきます。昨年の、横綱日馬富士暴行事件です。その事件についての詳細は、ここでは割愛させていただきます。テレビを通じて私は、「これは、今の日本人と風習の違うモンゴル人同士が起こした暴力事件である。」ということと「日本の相撲協会の古い体質が、そうした暴行事件を内々のものとして隠蔽して、被害者の人権を侵害してしまう可能性があった。(注・日本相撲協会は、被害者の力士の人権を実際には侵害してはおりません。私の前の記述では、そこを間違って受け取られる心配がありましたので、訂正いたしました。日本相撲協会様に、陳謝いたします。ファンの方々も安心してお相撲を観覧ください。)」ということを知りました。実は、こうしたニュースの背景には、語るのも恥ずかしい、私たち日本国の失敗と反省の歴史があると思うのです。
 「力士としてこうあるべきだ。」とし、後進を指導した元横綱日馬富士だった人は、後進が言うことをきいてくれないと判断して暴力的な指導をして、それがエスカレートしてしまいました。結果、後進の一人に大怪我を負わせて、世の中で大騒ぎになったことは周知のことです。実は、このようなことは戦前戦中における軍国主義の日本においては、日常茶飯事(さはんじ)でした。子供の頃に私は、両親や祖父母から、慰安婦のことは一度も聞いたことはありませんが、彼らの世代の多くの人々が、教育指導のもとに暴行を受けて、殴られたり引っ叩かれたりしたそうです。そして、その後遺症で、片目の視力が落ちたり、片耳が聞こえづらくなってしまったという話をよく聞かされました。
 教育や指導をする側の暴力というものは、DVなんかもそうですが、躾(しつけ)や教育や指導といった正当な理由があったとしても、相手が言うことをきいてくれないとわかるとエスカレートしたり、常習化してしまうものなのです。誰か止めにはいる人や言葉で注意する人がいないと、歯止めがきかなくなったり、罪の自覚が全くないということが多いのです。だから、後進を教育指導する立場の人は、注意しましょう。指導をする側の私たちが折角(せっかく)正しい志を持っていたとしても、相手にそれが伝わらず、迷惑をかけてしまうということになってしまうのです。
 さらに、精神的な影響力に関しても、注意が必要です。そのように教育や指導を、拷問や体罰などの暴力をともなって行うことによって、それなりの効果は期待できるかもしれません。拷問や体罰などで暴力を受けた側には、二度とそんなイヤな気分は味わいたくないと感じさせて、行動を改めさせやすいと言えます。しかし、それは同時に、暴力の肯定や正当化を学ばせることになります。普段の規律さえ守っていれば、(身の危険を感じたなどの)自分勝手に正当化された理由によって、暴力や、殺人さえもしてよいということになるのです。これは、教育や指導をする側の盲点です。まさか教育指導をされる側がそんなことを感じて学んでいるなんて、これまでの常識では全く考えられないことだったと思います。
 過去の日本の歴史を振り返ってみても、道義的に正しいことをしていた人が、いきなり暗殺されたりする事件が時々あったりします。立場の違う人の恨みを買ったからだと、私たちは考えがちです。これまでは、それが全ての原因だったと、私たちは考えていたと思います。けれども、本当にそれだけだったのかな、と疑うことも、ひょっとしたら必要なのかもしれません。「日本人はこうあるべきだ。」と道義的に強く主張される人を、私は否定しませんが、慎重に述べて頂き、くれぐれも事故など起きて欲しくないなと祈るばかりです。
 さて、ここからは具体例に基づく話はやめにしましょう。学校のいじめの話もそうですが、人権にまつわる私たちの日常の経験を語りだすと、人権侵害の例などに話が及んで、際限なく身が沈んでいく泥沼のようになってしまうからです。それでは、いつまでたっても、らちがあかないと思います。もっと原理原則的に話を進めましょう。
 そもそも『基本的人権』とは何か、と私たちは考えます。人権に基本的なものとそうでないものがあるのかな、と考えます。基本的な人権って何だろう、よくわからないから、私たちが理解しやすい言葉に変えて、『基本的人権』は削除しよう。誰だって、このように考えてしまうと思います。
 かつて私が学校でこの言葉を社会科で学んで覚えた時も、言葉の意味がよくわかりませんでした。しかも、大人になって、つい最近までの長い時間が流れても、いっこうにこの言葉の意味するところが理解できませんでした。だけど、世の中のみんなが「基本的人権は尊重しなければいけない。」と言っているので、みんなと同じようにそう思い込まないといけないと思っていました。でも、これでは民主主義ではなくて、宗教です。
 本当のことを申しましょう。私たちの世の中に、『基本的人権』という、そういう特別な人権があるわけではないのです。これは、法律の世界の中の言葉です。砕いて言えば、『人権』のことです。なぜ「基本的」とわざわざ形容しているのかと申しますと、以下の二つの意図、すなわち、先人の知恵が感じられます。
 一つは、法律上で変えてはいけない基本的なものであることを示すためです。すなわち、人権とは、「(私たち人間が)変えてはいけない、あるいは、失くしてはいけない基本的なものであるところのもの」です。「そんなこと、わざわざ、法律に書いていなくてもわかっているじゃないか。人間として当たり前のことだ。言わなくてもわかる常識だ。」と、しばしば私たちは反発します。しかし、私たちは、時と場合に応じて、しばしば非人間的なことをしてしまいます。それが、私たち人間の現実なのです。それを法律や道徳で取り締まろうとします。けれども、それにも限界があります。それもまた、私たち人間の現実なのです。
 もう一つは、『人権』という言葉の濫用を防ぐためと考えられます。私の戯言(たわごと)にすぎないかもしれませんが、人権人権とただ繰り返すのは簡単なことです。あれも人権だ、これも人権だということになると、何でも人権だということになって際限がなくなります。しかるに、『基本的人権』と言わなければならないとすると、その言葉の扱いに重みが加わります。『人権』という言葉の意味することがたやすく用いられたり、軽々しく扱われることを防ぐことができると思うのです。
 したがって、「(人権を)尊重する」という言い回しの意味方向も、次のように考えることができると思います。その文言(もんごん)を言い換えるとするならば、「(人権を)軽んじない、軽視しない、あるいは、軽々しく扱わない」ということだと思います。
 そしてまた、「人権を守る」ではなくて「人権を尊重する」ということはどういうことなのかを考えましょう。「守る」というと、害がないように防ぐとか、決められた規則などに従わせるという、周りから何かを人に強制させないといけないようなイメージになってしまいます。しかし一方、「尊重する」となると、人権にかかわる双方が双方のことを認められるように、おのおの自発的に努力し、その意志を持つというイメージになると思います。強制的にではなくて自発的・自主的にという言葉のニュアンスが、「尊重する」という言葉の表現には含まれていると思います。
 最後に、ひと言ことわっておきます。TPOに合わせて的確に内容をとらえなければならない場合、日本語は難しいです。今までほとんど手伝ったことさえなかった農業を学ぶために、四十代の私は農家研修に行きました。そして、六十代の農家さんの「〇×△しろ。」という動詞だけの命令語がわからなくて、何をしていいかわかりませんでした。「お前は日本人なのに、日本語がわからないのか。」とその度に叱られて、頭を拳でゴツンと叩かれました。私はそのことに手向かいはしませんでしたが、その無抵抗はかえって、農家さんの暴力的な指導をさらにエスカレートさせてしまうこととなりました。
 私は、このような経験から、日本語を理解するためには、その背景となる予備知識(あるいは、先人の知恵)を知らないと上手くいかないことを知りました。現代の私たちは、新しいものに目を奪われがちですが、古いものを理解する力も無いといけない、ということです。学校で、古文や漢文などの古典や、世界史や日本史などの歴史を学ぶのは、受験勉強のためばかりではなく、社会に出てからも必要な見方であり、かつ、必要な素養なのです。私はそう理解しています。