「文化とはなんだろうか?」

 12月14日,「情報技術を文化へ」と題したシンポジウムが東京で開催された.

091214-シンポジウム情報技術を文化へ

 この中で最初のご講演,長尾真先生(現 国立国会図書館長,元 京大総長)による「文化とはなんだろうか」を紹介したい.

 それにしても、なんという講演題目であろう。あまりに奥深過ぎて,私などには到底,話すことができないような講演題目である。

 長尾先生の講演は何回か伺ったことがあるが,今回はご本人の弁によると「原島先生の講演会の前座と思い,軽い気持ちで聞いてくれ」とのことで,確かに肩の力を抜いた話ではあったが,情報工学者であり,かつ,国立国会図書館長という職を務める方にふさわしい,示唆に富んだ講演であった.

 話を伺う前は全く予想だにしなかったことであるが,長尾先生の今回の講演の切り口は「書」であった.私は「書」について全く知識を有さないものであるが,今回の講演で「書」の,少なくとも鑑賞の,手ほどきをして頂いた思いである.今まで全く知らない分野のことであっても,その道に通じる人から短い時間をお話を伺っただけで,なるほどそういうことだったのかと,急に理解が深まることがある.長尾先生ご自身,書を書かれるそうであるが,その経験に基づいた,「書」入門であった

 王羲之(おうぎし,303-361年)という方が書の分野での,歴史上の超有名人だそうである.Wikipeida 王羲之 によれば:

 王羲之は書道史上、最も優れた書家で書聖と称される。末子の王献之と併せて二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称され、また顔真卿と共に中国書道界の二大宗師とも謳われた。

 秦・漢代の字体などを研究し、それぞれの字体を楷書、行書、草書などと組み合わせ、貴族的で力強く優美典雅端正な書体が特徴的で、「雪の如く、竜の如し」と形容されるほどである。
「書道の革命家」、「書道の最高峰」とも言われ、近代書道の体系を作り上げ、書道を一つの独立した芸術としての地位を確保し、後世の書道家達に大きな影響を与えた[3]。

 その書の中では『蘭亭序』・『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』が特に有名である。他に『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などが見られる。

 作品「蘭亭序」を示されながら,王羲之はこれを書いたときに酔っていたらしいが,後に何度清書を試みても,草稿以上の出来栄えにならなかったという伝承を紹介された.


Wikipeida 蘭亭序によれば:

353年(永和9年)3月3日に、名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴が開かれ、その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序である。王羲之はこれを書いたときに酔っていたと言われ、後に何度も清書をしようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられている。いわゆる「率意」の書である。28行324字。

 次に紹介されたのが,褚遂良(ちょ すいりょう、596年 - 658年).

http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Chu_Suiliang_Sheng_Jiao_Xu0.jpg

Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/チョ遂良#.E9.9B.81.E5.A1.94.E8.81.96.E6.95.99.E5.BA.8F

六朝期から発展しつつあった楷書を高度に完成させた南派の虞世南・北派の欧陽詢の書風の特徴を吸収・融合しながら、それを乗り越えて独自の書風(「褚法」)を確立した。特に晩年の『雁塔聖教序』は楷書における最高傑作の一つとされ、後の痩金体につながるなど後世に多大な影響を与えた。一般に力強さが特徴的な北派に属するといわれるが、結体は扁平で安定感のある南派の性質を併せ持っており、従来からの帰属論争はあまり重要性を持たないように思われる。また王羲之の真書鑑定職務についており、その書をよく学んだと思われる。40代における『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆法が見られ、そして線は細いながらも勁嶮・剛強と評される一方で、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。

 長尾先生は,細いけれど,鋼のように強い線が特徴と説明された.この他,趙子昂は穏やかなジェントルマンで心に揺らぎがない,米芾(べいふつ),太宗(たいそう)等を紹介された.解説付きで,歴史的著名な書家の書を眺めていく,その見方,凄みが,素人なりにも,何となくわかってくる.

 以上が,長尾先生の講演の,起承転結における「起承」部であった.「転」は,思考実験,コンピュータおよびロボットによる「書」.

 長尾先生が提示された第一の疑問:「王羲之のような文字を書かせられるか?」

 長尾先生のご意見は:

 一文字であれば,多くのパラメータをとり,あるいは,さまざまな学習手法を用いることにより,可能かもしれない.しかし,数行以上の長い分で構成された「作品」を創り出すのは難しいのではないか.

 第二の疑問:「ロボットは自発的に書作品を作れるか?」この疑問は,art(技術)でart(芸術)を作れるかという疑問でもある.

 昔から言われていることでもあるし,また,長尾先生ご自身の経験でもあるが,良い字が書けるのは無念無想のときだそうである.うまく書こうとか,ここまではうまく書けたとか,邪念が入るとうまく書けない.この辺りに,技術と芸術の境界があるのではないかという認識をご紹介されているのではないかと,私は理解した.

 さらに長尾先生は「空間」のもつ重要性のお話をされた.大学の研究室がもつ空間.その研究室でなければ駄目なのだという空間性.他と差別化*1された空間性.自分が長く暮らした京都という街もそうである.

 京都は,次のような特徴をもつようである.

  • ゆったりとした時間の流れ.
  • 過度の情報に晒されず,本質的な物の見方をする.
  • 自分の可能性と限界を量りつつ,経済的に過度の欲望を持たず,自己抑制する.

 今後の日本の方向性を考えるとき,京都の持つ上記のような特徴は大いに参考になるのではないか,とのこと.

*1:「差別化」という表現は加藤による.