「悪人正機」の「悪人」とは?

 昨日の続き。

 例えば、親鸞思想の革新性とされる「悪人正機説」は、先行し法然が唱えたことは知られてきた。その法然より前に、旧仏教が「どんな悪人も念仏を唱えれば極楽往生できる」と説き、民衆に信じられていたことが、平安期の貴族の日記や歌謡集「梁塵秘抄」から浮かび上がっている。
 大阪大の平雅行教授によると、旧仏教は来世への恐怖感をあおり、民衆を神仏の敵(悪人)と善人に選別することで身分や性の差別を正当化したのに対し、親鸞は徹底して平等を主張した。人間はみな、悪を犯そうとしたことがあるし、悪を犯しうる。だから、すべての人間は平等に悪人であるという論法だ。「ここに親鸞思想の新しさと普遍性がある」と指摘する。
 親鸞よもう一度 750回忌法要前に思想を再検討(朝日新聞)
 

 親鸞聖人の言われる「善人」「悪人」とは、何を指すのか。

 一般的道徳倫理で言われる「善悪」を、ここに持ってくると大変な誤りを生む。
 「悪人正機」の誤解である。
 
 この朝日新聞の記事中、教授は「悪人」のことを「人間はみな、悪を犯そうとしたことがあるし、悪を犯しうる。だからすべての人は悪人」と説明している。
 すべての人を悪人と見るのは親鸞聖人の教えの通りだが、この説明では、まだ道徳的善悪の範疇から脱していないと読める。
 
 親鸞聖人の「悪人」とは、そのようなレベルではない。もっと深くて重い意味を持つ。

 ここで、高森顕徹氏の「歎異抄をひらく」の説明を見てみよう。
 高森氏は、「悪人」の説明に、教行信証の一文を示している。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」

 そして、次のように解説している。

 人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ"必ず救う”と誓われたのだ。これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。
 聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。
 

 これ以上の解説はないだろう。