”道徳”教育の終焉

ツイッターにちょっと書いたことを書き直す。
まず、おいらのスタンスを書いておく。

一つは、分析には「セコい政府」論を使うこと。
これは政府は最低限の手間でそこそこの結果を出すであろうという話。
例えば企業に源泉徴収では徴税コストを負担させることで、政府は少ない手間で効率良く税金を集める事が出来る。また企業の社宅が政府の公的住宅制度の肩代わりをし、終身雇用が雇用保険などの代用となっている。
また司法だと、起訴便宜主義では、検察官の裁量で大幅に裁判コストを低減している。
このように、小さな政府の最低限の公的コストで、大きな政府に類似したサービスを提供しているのである。ただし類似であるので、公正さやカバー率の観点では課題を抱えている。しかし、大きな政府に動こうとすればサービスレベルはさほど改善されないわりにはコストがふくれあがるし、小さな政府にしようとすると、コストはさほど下がらない割りにはサービスレベルは大幅に低下する。そのため、現状が費用対効果の極大点となっており、ありとあらゆる改革は不幸をもたらす。

もう一つは、高度防災国家志向に向かいつつあるのでは、という点だ。
台風の話やクールビズの話でも述べたとおり、地震や風水害といった災害は多発する一方で、それに対応出来るほどのインフラ整備を行っていくことは出来ない。そのため、災害が起こることを前提とした社会体制に移行するのではないか、ということである。また、豊かさがすり減り労働力も減っていくかも知れないのに災害に対応するためには、豊かな時代では許されていたような無駄な競争は否定される。そのため、監督官庁の権限はふたたび強くなり、激しい競争の結果と同じ結果になるように政府が競争を経ずに誘導するのはないか、ということである。努力の質とコストパフォーマンスもまた判断されるであろう。

で、道徳の話である。
道徳は一定の条件では極めて効率的な教育手段である。それは一つは社会がやさぐれており、それを善導して平均値を大幅に改善する場合である。もう一つは、情報倫理みたいに、専門家以外の一般人は何をしちゃいけないのか分かっていない場合に、それをやんわりと啓蒙する、ということである。セコい政府論者としてはもってこいだよな。
しかし、これらの条件から外れると急激に効果を失っていくのである。
道徳は8割9割の人には届くであろうが、1%のバカか基地外聞く耳を持たない。だからすでに8割9割が善導された後となっては、道徳を聞き入れる人は元から悪いことはしないし、悪いことをする人は聞きゃしない、となる。
また道徳は加害者にならないために、という方向性であるため、災害時にどうすればいいのか、といったことや、性犯罪の被害者になった時にどうすればいいのか、といった場合には、つまり被害者になった場合にどうすれば、という内容は組み込めない。

つまり、豊かな社会において旧来の道徳というのは急速に意義を失ってるところはある。
もっというと、「自分が望むことを他人にする」教育は多様な価値観の中では地雷量産機になる。家族の尊さを説けば、毒親の子供の苦悩は深まるだろう。性道徳を説けば、往々にして性犯罪の被害者に追い打ちを掛けることになるかもしれない。ともなれば、「自分がされたくないことは他人にするな」の徹底になっちゃうんだろうね。おおかたの日本人は家族に対して理想像があるし、それに向かおうとしてる状況で、それについて道徳教育を行うのはさほど意味がないかもしれないし、例外の事例に対して有害ともなれば、無益で有害ということになってしまう。

学校は善導のための装置であった。だから先生が生徒を制裁し、そこで完結することで、警察や司法に介入させずに、当事者の更正を促すことも出来た。セコい政府としてふさわしい。しかし昨今はその境界領域での問題が増えてきているし、これまで隠蔽されていたことが暴露されつつある。犯罪としかいいようがないイジメ事案であったり、ただの暴行にエスカレートした体罰などもある。
学校が善導のための装置である必要性が薄れる一方で、生存のための装置としての役割は変わっていないどころか増えているような気がする。防災教育なんかもその一例ではあるよね。あるいは法律についての知識を持つことなんかもそうだ。災難に対してどう対処するかを教えること、あるいは1%のバカを封じ込めるか、となると、話としてはかなり個別具体的で生臭い話になる。8割9割を不愉快にさせるかもしれないし、それを教育現場に導入するのには抵抗があるかもしれない。
象徴的な事例で、今回の震災で防災無線で避難を呼びかけつつ庁舎が津波で被災して犠牲になった自治体職員の話が埼玉県の道徳の教科書に載った、という話がある。「なぜか埼玉海がない」という言葉が浮かんだのだが、本来なら防災教育の分野で、津波の時にどう対応すれば良いのかたたき込むべき話だ。生きるため。釜石市での教育活動は大きな成果を上げた。埼玉県は荒川を津波が遡上する可能性は指摘されているが、優先して対応すべきリスクでもないからなんだろうな、と思わざるを得ない。
学校で何かを教えるということは、教師や子供の時間や労力を投入することである。となるとトレードオフと機会コストの問題が発生する。道徳教育を行う事で得られる便益が他の科目よりも小さいのならやらないほうがいい、ということになる。これに対して道徳教育で得るものがある、と論じることは意味がない。他よりも価値がある、あるいはこのような問題に対応出来る、と明確に論じなければならない。高度防災国家において、より個別具体的な防災教育を行うべきであろう、という主張に対して道徳教育はどう返すのか。被災地での助け合いの精神だって現状で十分に担保されている、とされている。道徳教育などせずとも、そういう美談をテレビで流しておくくらいでいいだろう。その番組を見たときに自分は何が出来るのかちょっとは考えるだろうしね。当座の社会的安定は同調圧力で。

性教育だって、道徳を説いてもそれを聞き入れる生徒は元から何もしないだろうし、問題を起こす生徒は聞き入れないだろう。それなら個別具体的に起こりそうなトラブルについての教育を行うべきであり、あるいは1%のバカの災厄をどうするか、というのを論じるべきだわな。また性的少数者についても、世の中いろんな人いますよね、と触れておけば、そしてどう向かい合えば良いのか、ということについて、8割9割に理解させておかなければならない。高度防災国家において、少数者を社会的排除させておく余裕などないのだ。これは道徳の枠組みを使うのは効果的ではあろうが、旧来の”道徳”論者にとっては多様性を認めるというのは不快なことだろう。

再度、問いたい。”道徳”って今となっては何の役に立つのか?それに明確に答えられないなら、もはや注力すべき必要性はないだろう。