赤頭巾ちゃん気をつけて  庄司薫

 Wikiで見ると芥川賞受賞作でミリオンセラーになったのは八作あるが、その中で堂々三位につけている。(すでに綿矢りさには抜かれてしまったかも知れない)。受賞順では、石原、大江、柴田についで四人目ということになる。「ライ麦畑でつかまえて」をタイトルからし本歌取りしたこの小説は、1968年革命前後、「やさしく」なりたいと希求する男の物語だ。「森のようにたくましく静かな大きな木のいっぱい生えた森みたいな男になろう」と願う男。たとえそれが「このおおきな世界の戦場で戦いに疲れ傷つき」と言ってもせいぜいが受験戦争と競争社会の中での希求に過ぎず、「勉強したりテニスをしたり散歩をしたり」して生きていく」と言っている限りにおいての話であるにしても。その後作者はサリンジャーに義理立てするかのように若くして断筆した。仮にも一度優しくありたいと願った人間はその後幾多の試練に晒されたはずだし、芥川賞受賞という幸運に恵まれた男はそれをこそ書いてみせる責任があると思うところだが、それができないのなら芥川賞を返上するくらいのことはしても良いのに。サリンジャーがそのようなことをしていれば間違いなく彼もそうしたはずなのに残念だ。後年株の売買をもっぱらにしていたという彼の創作中止にはただ生活に自足したからということしか理由として見当たらない。黒青白シリーズですべて描ききってしまったからとはとうてい思えないし、まさか細君の方の才筆ぶりに毒気を抜かれたわけでもあるまい。福田章二名で発表した処女作「喪失」に対する江藤淳のほとんど罵倒とも言うべき酷評を乗り越えたと見せながら、やはりその批判がボディー・ブローのように効いてきた、ということなのだろうか。軽薄体とも言うべき饒舌な文体を駆使する文才をひけらかしてもやはりここにいるのはせいぜい「バクの飼い主」を目指すだけの男に過ぎなかったのか。最近も「夢を見るために目覚める」と言った超人気者の「バクの飼い主」がいたけれど。

第61回
1969年前期
個人的評価★★

カイ  饒舌体で書きつらねながら、女医の乳房を見るところや、教育ママに路上でつかまるところなどは、甚だ巧い(三島由紀夫)
ヤリ  おもしろいところはあるが、むだな、つまらぬおしゃべりがくどくどと書いてあって、私は読みあぐねた(川端康成)

※受賞作ミリオンセラー一覧

村上龍   『限りなく透明に近いブルー』354万部
柴田翔   『されどわれらが日々』186万部
庄司薫   『赤頭巾ちゃん気をつけて』160万部
安部公房   『壁』130万部
綿矢りさ   『蹴りたい背中』127万部(単行本のみ) 文庫本を入れて149万部 ?
池田満寿夫   『エーゲ海に捧ぐ』126万部
大江健三郎  『死者の奢り・飼育』109万部
石原慎太郎  『太陽の季節』102万部

江藤淳「喪失」評抜粋 (後年彼が田中康夫「なんとなく、クリスタル」を激賞してしまうことを思い合わせると面白い)
石原慎太郎菊村到開高健大江健三郎といった作家たちが提出している文学的な問題を、単に文学的ファッションとしてだけうけとめようとする安易な態度」を持つ「無神経なエピゴーネンたち」の代表。
「『頭のいい人』が緻密に計算したからといって、その結果が文学作品になるとはかぎらない」
「『必然性』を欠いた作品は文学作品としての根本的な要件を欠いているので、そのような作品を『緻密に』計画することに喜びを見出しているような精神はどこかが病んでいる。あるいはおそるべき鈍感な精神である」
「福田氏の場合、むしろ創作態度の根本にこのカマトト的態度がある」
「ここに浮遊しているミミッチイ自己満足的な『最高』への憧憬はとうてい文学者のものではない」
「ここでは『文学』が作者の自己満足のためのひとつの道具に堕落している」
「ここにいたってわれわれは遂に作者自身の卑俗な自己満足のために書かれた小説が、堂々と文学作品として大手をふって評価されるという奇妙な現象に直面したのである」

2013年2月22日追記

 中井久夫「私の日本語雑記」に庄司薫に触れている部分があった。彼の「断筆」(沈黙)の由来のみならず、作家の変貌一般についての洞察なので、以下に転記する。

 文体の獲得にはリスクがある。以前と以後とでは何かが大きく変わる。文体を獲得した人間がその後辿るコースを考えてみたことがある。
 第一は、自己模倣である。一部愛好者だけのものになってゆくコースの入口である。第二は絶えざる実験である。実験を重ねると次第に実験のための実験になってゆく。そうなると「何か大切なものの底が浅くなる」。第三は、公衆に理解しやすいジャンルに移ることである。たとえば小説家からノンフィクション作家になる。医学者から医学解説者になる。
 第四は沈黙である。庄司薫を例に挙げても失礼ではないであろう。第五は自己破壊である。例は誰もが思い当たるはずである。私は、それくらいなら沈黙をすすめる。
 (「私の日本語雑記」―日本語を書くための古いノートから―)