今日の出来事

makisuke2004-04-04


早起きしたら/雨が降ってた/細かくて/つめたい雨/静かに降ってた/花散らしの雨になるの?/終わってしまうの?/桜には/腫れ物に触るように/接してしまうね/杉並の銭湯は/桜湯だってさ/奥ちん/は/雨の中/帰っていった/傘がさみしく/揺れていた/早起きしたから/雨が降っていたから/一日が/びろおんと/長くなった/時間が/ゆっくりゆっくり/過ぎてくみたい/なんか贅沢/Aと/だらだら/DVDを2本観る/低反撥のマットレスと/枕が届いた/気持ちが良くって/いくらでも眠れそう/ぼよおんと/体がゆっくり/ほどけていって/沈んでいって/なんだか私/無重力/

「ドッグヴィル」ラース・フォン・トリアー/銀座シャンテ・シネ


あの、オモシロカッタのです。

阿部和重の「シンセミア」を思い出しつつ見ましたよ。

夜で始まり、語りで進められていくこの映画。「このままこれが延々続くのか?」と、不安がよぎったのも束の間でありました。

三時間の長丁場だわ、ロケもなく全てがワンセットだわ、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の監督だわ、前作以上の後味の悪さ。と、いう噂も耳に届くわ、で。全く期待していなかったのですけれど。いやいや期待というよりも、ある程度の覚悟を決めて。それでもあの、白線と家具だけで作られた「ドッグヴィル」という村を見てみたいものだよと、映画館に足を運んだ訳なのですけれど。これが、非常にオモシロカッタのです。

この映画は「ニコール・キッドマン」の存在なしでは、成り立たなかったという事だけは、確かだと思うのです。

もちろん、美しい人であるとは知っていたけれど。今まで、その美しさを感じる事がなかった、ニコール・キットマン。この映画で、その「美しさ」を改めて思い知らされる。気がつけば、彼女ばかり目で追い、見とれている。それは、物語が進み、終盤になるにつけ顕著になる。物語が、陰惨悲惨になればなる程、彼女の美しさが引き立っていく。言い換えれば、彼女の「美しさ」が、この物語の救いとなっていく。もっと言えば、その「美しさ」が物語を(良い意味で)絵空事に替え、生々しさを削いでいく。彼女の持つ「美しさ」は、一種独特だ。誰かや何かによって目減りしない。それに気が付く。だから、こちらに痛みや辛さや苦しさを伝えてこない。だから楽しめる。奇妙に安心さえする。私にとって「ドッグ・ヴィル」は「不快な作品」ではなかったのだ。それは監督の狙いと言うよりも、予期せぬ化学変化と呼ぶに相応しく。その化学変化は、最終的に爽快感さえ与えてくれたのだ。

終始語りがリードしていく作りも、この映画では悪くない。語りの通りに考えればよく、段々頭はモノを考えなくなる。謎は無くなり、思考は停止する。言われた通りと、そのままに理解し、次第に納得していくようになる。ただただ阿呆のように、美しいニコールの顔ばかり眺めていたような気もするし。

美しいモノ、気高いモノ、弱い立場のモノ。それを汚してみたいみたいという欲望は誰の中にもあって。それは、鼻垂らしているような小僧の中にも、私の中のオスの部分にもあるようだ。一皮剥いてしまえば、人間誰しもおんなじという事も。善良や純朴というものが、いかに表面的なものであるかという事も。ある意味、あまりに分かりやすく、やはり不快ではなかった。それをわざわざ見せられる事は、望んではいないにしろ。

とにもかくにも「ラース・フォン・トリアー」という人の持つ「確信的な悪意」は、よくよく伝わった。伝わった上で、もしかしたら、この「親切ごかし」「押しつけがましさ」は、嫌いじゃないかも。癖になるかも。と、汚れてなお美しい二コール・キッドマンをしげしげと眺めながら、ぼんやり思ったり。とにかく濃密で永遠を思わせる時間の流れが、なんだか気持ち良かった訳で。

とにかく、トリアーの新作がかかったら、また見たい。是非是非見てみたい。個人的には、エピローグとプロローグ、それぞれの章で別れて暗転で繋ぐという作りは気に入っている訳だし。見終わって好きと転ぶか、嫌いと転ぶかは、やはりまだ分からない。この監督には一抹の不安感と、拭いきれない不信感は、やはりどこまでも付いて回る事になるのだろうけれど。

「図書館の神様」瀬尾まいこ

図書館の神様

良いな。何だかとっても好きだな。そんな事をしみじみと噛みしめながら、読み終えた。「何処が心地良いのだろう?」と、自分の中でその「気に入り具合」を確認しながら読み進めるという。不思議な余裕を与えつつ、ずんずん夢中になれた本。そんな「間合い(距離感)」が気持ち良くって。ここに流れる「空気感」が気持ち良くって。誰かに「良いよ」と、言いたくなる。そんな本だった。

この距離感は、きっと作者である「瀬尾まいこ」という人が持っているそれで、本能的に「この人は良い、信用出来る」と、私に教えてくれた。主人公である高校の講師の「清」は、だから作者にダブる。気も目的意識も強くて、実に体育系いかにもバレーボール部員(私の偏見か?)。そのくせ、どこかトボケていて、身の丈ですぽんとモノを言って…実にチャーミングで。

魅力的な登場人物たちも出てくる。出てきては色々な形で主人公に力をくれる。気付かせてくれる。ー絶妙のタイミングで助けてくれる弟くんだとか。不器用でらしくない不倫相手の浅見さんだとか。クールで全てを見透かしているような文学部員の垣内君だとかー出てくるけれども、彼女「清」が、少しずつ変わり選んでいく事は、この人の底(内)から生まれてきた事だと、分かるのだ。

感傷的。という訳では全くなく。いろんな事を思い出させてくれる本でもあった。忘れていた。という訳じゃないのに、いろんな記憶の引き出しが次々に開けられて、ちょっと不思議な感じ。ざわざわと気持ちが忙しくなったよ。

「ああ、神様。二度と悪い事はしませんから」と、体調が悪くなる度、必死に布団の中で祈っていた事とか。病気の時の心細さとか。本当に本当に好きだった事を、続けられなくなってしまった事とか。それを他人には上手く説明出来なかった事だとか。死んでしまって、もう答えの返ってこない人に、何度も何度も話しかけた事とか。よくよく「ロールキャベツ」ばかり作っていた事とか。その帯びがベーコンで、爪楊枝は使わなかった事とか。あの頃あれが、何と手の込んだ料理かと信じていた事とか。それをせっせと恋人に出していた事とか(私って案外ベタね)。何かに本気になると、楽しめなくなって、余裕がなくなって、周りから浮き上がってしまう。そんな自分のツマラナサとか。だから本気になるのが「怖い」事だとか。むちゃくちゃに走るのは気持ちが良いって事だとか。山本周五郎夏目漱石のスバラシサだとか。体も頭もおんなじぐらい疲れてて、おんなじ方向を向いているって時の気持ち良さだとか。

そんな、そんな事。つまんなくて淡くて忘れてしまいそうな微かな事を、いっぱいいっぱい思い出したよ。

そしてそして、この人の「食べ物」の場面が好き。とっても好き。食べる事作る事その効果を知っている人だと思うから。人をしょんぼりさせたり元気にさせたりするのに、上手に「食べ物」を持ってくる。クリームも飾りもない、ただの焼き立てのフカフカスポンジケーキだとか。喉につるっと滑り込むモズク酢だとか。家族で食べる雑駁で美味しいモノと、恋人同士が食べる気取っていて見栄えが良いモノとの比較だとか。

とにかく最後まで一貫して、風通しが良くて、見晴らしの良い小説だったな。そしていつの間にやら、この人を「良いな」と思えた事は、自分を「大丈夫」と、確認するよな作業になっていったっけ。誰が何と言おうと、大丈夫。私は私の中に、良い風や景色を感じる事が出来るから。今日や昨日や明日がどうであろうと、大丈夫。そんな訳もない自信で、私は今、走り出したいような、叫び出したいような、エネルギーに包まれているもの。