平成の坂本龍馬

とうとう、日本共産党の志位委員長が、野党共闘「国民連合政府」構想をぶちあげた。
私たちが待ちに待った、共産党からのアクションが、今回の安保法制を巡る、国民的な抗議運動に

  • 答える

形で、共産党から提示された。こういった共産党のアクションをひきだしたのも、ひとえに、今回の安保法制における、国民の抗議運動のもりあがり、運動の大きさ、拡大が、彼らをして、自分たちに求められているののの大きさを自覚させたから、ということになるであろう。
これは、まさにヘーゲルの言う「弁証法」そのものであろう。
よく考えてほしい。今までの国政選挙は常に、

という三つ巴の形で、票を分け合い、ぶっちゃけ、民主党共産党の票を足せば、自民党を上回っていたことを。ヘーゲル弁証法は常に矛盾を

する形で、運動は進む。なぜ、上記の「停滞」が続いていたのか。それには、一定の「意味」があったと考えられてきた。つまり、そうは言っても、他の野党と、共産党は、あまりにも異質なのではないか。だとするなら、この分裂には一定の意味があると考えられた。つまり、それによって、与党が政権を維持することになっても「しょうがない」くらいの意味だと考えられた。
ところが、である。
よく考えてみてほしい。上記の「矛盾」が現れたのは、そもそも、小選挙区制度に、日本の選挙制度が変わってからなのである。つまり、ここで

  • ゲームのルール

が変わっていることに、国民がまだ気付いていないのである。小選挙区は、一択総取りである。つまり、この選挙で何を選ばなければならないかというと

  • 最悪の回避

なのだ。大事なことは、この選挙制度は「選び方」を間違えてはいけないのである。
その結果が、今回の安保法制である。
自民党は以前の、硬軟折り混ぜた、バランスのとれた政策集団ではなくなった。党が集権的にお金を抑え、管理するようになり、多様な思想が常在できる環境では、すでになくなっている。一部の狂信的な、右翼思想をもったリーダーによって、どんな無法も無法ではなくなっている、

  • 恐怖政治

政権運営が移ってしまっている。今回の安保法制における与党による、あまりにも醜い振舞いは、「政治はそういった恥かしいことをやらない」ものだと考えていた、多くの有識者を裏切る結果となった。つまり、

  • 安倍政権は、日本の政治の<品位>を傷付けた

わけである。
安倍政権は、まったく、国民との対話を行わない。安倍総理は、自らの会見で、記者クラブの連中の質問しか、受け付けない。嗤っちゃうように、

  • だれ

も、今回の自民党総裁選挙において、野田氏の立候補に対して、さまざまな妨害行為があったことを直接、安倍総理に質問しない。今回の安保法制の参議院の採決が無効だったんじゃないのかと質問しない。それもそのはずである。毎日、安倍総理が「会食」をしている、新聞社やテレビ局の下っ端ばかりに質問者を指名しているのだから。
こんな茶番劇を、いつまで繰り返すのか?
シャンタル・ムフの「闘技型資本主義」の本質は、カール・シュミットの言う政治的なものの定義である「友敵理論」を、ある意味において「否定」するために提示されている。つまり、シャンタル・ムフは一見すると、シュミットと「同じ考え」を主張している「右翼思想」の持ち主と受け取るかもしれないが、まったくの

  • 正反対

なのである。シュミットは本質的に人間同士が行う政治は「友敵理論」という形にならざるをえない、と考えている。ここで言うシュミットの「友敵」は、ナチスユダヤ人を排斥したこと、民族浄化を行ったことを意味している。つまり、そういった意味で、今の時代に、この「友敵」理論などというものを、政治の本質だと主張している人間がいるとしたら、そうとうな「右翼思想家」か、頭のおかしいレイシストだということになる。
シャンタル・ムフが言っていることは、そういうことではない。たとえば、「ゲーム」を考えてみてほしい。「闘技場」において、ゲームプレーヤーたちが「ゲーム」をするときにそれぞれを「友」や「敵」と呼ぶように、お互いがそれぞれの「役割」を演じるところに本質があるのであって、つまり、「ゲーム」として、その「比喩」としての「役割」を演じることが重要だ、というところにポイントがあった。
よく考えてほしい。なぜ、国会において、与党と野党が存在するのか。それは

  • 国民のため

なのである。与党が通そうとしている法律をもしも、野党が本当の敵味方「のように」、本気になって、相手に挑まなかったら、どうなるか? その法律は、どこに問題があるのかをだれも分からないまま、国会を通ってしまうであろう。そういう意味で、各法案の審議に十分な時間をかけないことは、結果として、法案の中身が十分に判明にならないまま、国民にその問題点が知られないまま、法律が成立してしまうという意味で

  • 国民の利益に反する

わけである。与党と野党に分かれることは、こういった意味で、国民の利益において、非常に「システム」として重要だということなのである。言うまでもなく、今回の参議院における与党の強行採決は、このことを意味していた。いかに安倍政権が「危険」であるかを、国民に知らしめたわけである。
安倍政権が行ったことは、この「ゲーム」のルールの基盤を破壊することだった。そして、安保法制への抗議行動においても、その最も問題とされたことこそ、この民主主義の破壊に対する、政治指導者たちの「裸の王様」っぷりだったわけであろう。
ようするに、彼ら政治指導者たちは

  • しらばっくれた

わけである。嘘を本当と言いくるめた。その「恥ずかしい」行いを目にして、多くの人たちが立ち上がったわけであろう。嘘を本当だと言いつくろう。今も「デマ」だとか言って、国民からの抗議にまともに、話し合おうともしない。会見での国民からの質問に逃げ続ける。こういった恥ずかしい大人たちに、国民は、怒りの声をぶつけることにした。
マスコミではさっそく、今回の共産党による「国民連合政府」構想に反対の声があがっている。民主党共産党が一緒になったら、政治の多様性が失われて、日本政治の危機だってさw しまいには、共産党政権によって、知識人が田舎に労働者として下放されて、反知性主義政権が作られてしまう、とかいった被害者妄想まであらわれたw
バカじゃないの。というか、今こそ、国立大学の文系学部が廃止されて、日本の知識人が安倍政権に滅ぼされようとしているのに、なんでそれを、自民党に対して言わないのw
ようするにさ。こういった自称知識人って、今の自民党に「適応」して、順応してきた人たちなわけでしょう。まさに、シュミットの友敵理論で、今の自民党を「よいしょ」して、共産党をさまざまな場所で

  • 敵扱い

してきたから、今、さまざまな場所から「ちやほや」されているだけでしょうw だから余計に、今までの自らの悪事が跳ね返ってきて、共産党政権になったら、自分が「ちやほや」してもらえなくなるという

  • 危機感

を告白しているだけなんだよね。まあ、こういった恐怖感をもっている思想家は多いんじゃないですかね。さんざん「現実的」とか称して、自民党政治の「妥協」を主張してきておいて、今ごろになって、共産党が現実的だとは言えないんでしょうね。
そういうことじゃねえんだよ。
今、ここで問われていることは、今回の安倍政権が行った、さまざまな「非民主主義」的な作法を、国民は許すことができないと言っているの「だから」、共産党は「国民連合政府」構想を民主党にもちかけた。つまり、すべての元凶は

  • 安倍政権の無法ぶり

がトリガーになっているのであって、この無法な状況を認められない限り、安保法制が廃案にされない限り、この異常事態を元に戻すための「理性的運動」を国民的な運動として行わなければならない、ということなのであろう。
現状、民主党岡田党首は、選挙協力の必要性には言及しても、この構想そのものには懐疑的な主張をしているが、ヘーゲル弁証法がそうであるように、安倍政権によって引かれた「トリガー」は、結果として、選挙でのオリーブの木構想に必然的に辿り着かないわけにはいかない。
この現在の、共産党民主党の関係は、幕末の薩長に比べられるであろう。安倍政権という無法組織の暴走を止めるには、この二つの政党の「犬猿の仲」をとりもつ

が必要とされている。しかし、こういった存在があらわれることは、ヘーゲル弁証法を示すまでもなく、必然的にあらわれることになるであろう。なぜなら、何度も繰り返すが、この「トリガー」は

  • 安倍政権の無法ぶり

に端を発しているのだから、彼らの傍若無人な態度が改まることがない限り、絶対に終わることがないからだ。日本共産党に対し、赤狩り的な非難をしている右寄り知識人は、今ここにおいて、誰が理性的な会話のできない存在かを、よくよく考えてみればいい。彼らが今、日本共産党を敵扱いしているのは、こいつが今、共産党の優秀なインテリに会話で

  • 勝てない

と思っているからなのだ。彼らを「説得」する力が自分にはないと怖がっているわけである...。