矢部宏治『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』

1945年。日本は、戦争に負けた。
敗戦国になったわけだが、では「誰」に負けたのか? それが、「連合国 united nations」と呼ばれた国家群。つまり、今の国連である。よって、それ以降、日本が国連に再加盟を実現するわけだが、そこには「敵国条項」と呼ばれるものがあり、つまりは、WW2の敗戦国である、ドイツ、日本、イタリアは、別扱いとされることになる。
ところで、WW2の最中、日本の国民はもしも戦争に負けたら「鬼畜米英」によって、奴隷状態にされる、と話されていた。さまざまな残虐な扱いを、敗戦国は受けることになる、と。ひるがえって言えば、だから、戦争に負けるわけにはいかなかった。負ける限り、先祖末裔に渡って、奴隷的な扱いをされることを覚悟しなければならない、と彼らが思っていたから。
ところが、実際には、違っていた。
なぜか?
なぜなら、日本と戦った相手国は「国連」に所属する国々であったため、

  • 国連のルールに従った

からである。もしもこれが「逆」であったら、どうだろう? もしもドイツと日本とイタリアが勝っていたら? こちらは、そもそも、国連に加盟していなかった。国連から脱退していた。つまり、ドイツと日本とイタリアは国際「ルール」をもっていなかった。むしろ、こちらが勝っていたなら、それらの他の国々を「奴隷国家」にしていた可能性がある。

つまり本書でこれまでみてきたような、独立後も事実上の軍事占領がつづく日本の現状は、アメリカにとって、もともと日本との平和条約をむすぶうえでの大前提だったというわけです。だからダレスにとっても、その条件を日本にのませなければ交渉そのものが不調に終わり、大きなマイナス・ポイントになってしまうところでした。
しかし、もちろん独立後の主権国家に、そのような権利を認めさせることは非常にむずかしい。国連憲章にもポツダム宣言にも、完全に違反した行為だからです。

国家とは何だろう? 国連とは何だろう? しかし、こういった問いを始める前に、私たちにはもう一つの問いがあるわけです。つまり、

  • 国家とは「誰」だろう? 国連とは「誰」だろう?

こういった「法人」の「人的性格」について考えるとき、ここで「誰」と問うていることは、その「誰」という人が、つまり、独裁者が存在する、ということを意味しているわけではありません。そうではなく、ここで「人」と呼んでいるものは、つまりは

のことであることに注意が必要です。つまり、国家とは「ルール」のことだ、ということなのです。
ルールは、ただの文字列に過ぎません。しかし、ある意味において、ルールは私たちを「強制」します。ルール化されているものは、そのルールによって規定された形で人々の行動を制限していきます。つまり、そういう意味において、「強力」です。逆に、そのルールに逆らうという行動には、それなりの「政治的意志」が、自らに求められます。つまり、国家と「対決」する覚悟が求められているわけです。
有名なカントとヘーゲルの論争において、ヘーゲルはカントの構想した国際連合を嘲笑します。

ヘーゲルは、カントが『永遠平和』で提起した諸国家連邦の構想に関して、一八二一年につぎのように述べています。

カントの構想の批判 もろもろの国家のあいだには最高法官などおらず、せいぜい調停者か仲介者がいるだけである。しかもこれすら、偶然の成り行きで、特殊な意思任せでしかない。カントは国家連盟による永遠の平和を表象した。国家連盟はらゆる抗争を調停し、個々の諸国家それぞれから承認を受けた一機能として、すべての反目を鎮め、こうして戦争による決着を不可能ならしめる、というのである。だが、こうした表象は諸国家の合意を前提にしている、この合意は、宗教的、道徳的、あるいはその他のどんな根拠や側面においてにせよ、総じていつも特殊な主権的意思に基づいてきたし、まただからいつも偶然性がまとわりついているにも拘らず、である。
(原注)理想論として考えるかぎり、私たちはカントの構想などのほうにより大きな親近感を示すに相違ない。けれども、現代にいたるまで、リアリスティックに考えるなら、こうした事態のほうが歴史の示した現実であった。そして、私たちはこういうリアリズムを踏まえたうえで今後の世界を考えていかねばならないだろう。(『法権利の哲学』第三三三節、未知谷)

ヘーゲルの考えでは、条約であろうと、国際法であろうと、それらが機能するためには、規約に違反した国を処罰する実力をもった国家がなければならない、ゆえに、覇権国家がないかぎり平和はありえない、というのです。だから、カントのいう「理想論」は大衆には人気があるだろうが、現実的政治のいては無力でしかありえない、と。

憲法の無意識 (岩波新書)

憲法の無意識 (岩波新書)

ヘーゲルの言っていることは、個々の細部については正しい、と言うしかない。しかし、全体としては、間違っている。つまり、それだけ「ルール」というのは、やっかいなものだ、ということである。よく考えてみてほしい。あるルールがあるとき、それを「破る」のは

  • 個人

である。つまり、その場合、どうしても、そのルールを破ろうとする「個人」が剥き出しになってしまう。そうであるなら、その個人は自らのその行為が「国家の意思」であることを証明しなければならなくなる。つまり、そういった一連の

  • 手続き

を求められてしまう。この問題の難解さは、「誰が<国家>なのか?」の難しさに大きく影響している。この難問に答えるのが難しいから、多くの場合、国家の作成する「ドキュメント・アーカイブ」の「正当性」の重要さが示されるわけであろう。
上記の引用にあるように、まず「敗戦」とは何か、ということになります。戦争は、国連が明確に定めた「定義」のある国家行為です。よって、当然、「敗戦」も定義されます。では、敗戦国は、

  • どのように扱われなければならないか?

についても、当然、定義されるわけです。国連軍による、軍事占領が、未来永劫に渡って行われるような「奴隷状態」が許されないとするなら、その関係はなんらかの「人権」的なものでなければならない、ということになります。よって、いずれは占領軍は、その「役目」を終えたなら、本国に帰らなければならない、ということになります。
つまり、占領はいずれ終えなければなりません。
しかし、占領を終えるといっても、敗戦国がまったく「反省」をしていなければ、終えたくても終えられないでしょう。よって、その占領の終了には、なんらかの「担保」を最初から、必要としている、ということになるでしょう。
なぜ、日本の戦後は「ねじれ」ているのでしょうか?
つまり、ここで言っている「ねじれ」とは、戦後の自衛隊の誕生と共に問題にされた、いわゆる「憲法解釈」の変更と呼ばれる事態のことを指します。そこで考えるべきは、

が「辞めさせられている」という事実にあります。戦後すぐにおいて、日本の扱いの全権を任されていたのはマッカーサーでした。ところが彼は、失脚しています。それ以降は、

  • ダレス

という闇の存在が、日本の占領政策を決めていくことになります。つまり、ここには

の亀裂がある、というわけです。マッカーサーが進めた政策とはなんでしょう? それこそ「国連主義」です。日本の憲法第9条は、そもそも、「国連主義」を前提にしています。なぜ、日本が軍隊をもたないのか? それは、代わりに、日本を守るのが

  • 国連軍

だから、ということになります。つまり、それを「崇高な理念」と言ってもいいが、ようするに、世界を守るのは「国連」だった、ということなのです。
この主張に反対したのが、ダレスです。

とくにダレスが非現実的だと考えていたのは、マッカーサーがその実現を夢見ていた国連軍構想でした。
「大国による軍事政策の協調などは、まずあてにはならない」
「[国連軍構想は]大国の政治的合意を前提としているが、そうした合意はこれまでほとんどおこなわれたことがない。そもそも大国の合意があれば、それだけですでに平和が保障されているはずではないか」
つまり大国というのは、つねにみずからの国益だけにしたがって行動するものだから、大国どうしがいつも協調して行動することを前提としたり、大国の主権を制限するようなかたちでの安全保障構想は、まったく非現実的だとかれは考えていたのです。

こういった認識が上記のヘーゲルに似ているのが特徴でしょう。いずれにしろ、朝鮮戦争の勃発と共に、実際において、日本は武器供給の補給路として、十全に使われるわけで、冷戦の対立が鮮明化する過程において、マッカーサーの理念は、ダレスの現実に塗り替えられていく。
そして、それに伴って、アメリカによる日本政策の「換骨奪胎」が進められた。表向きは、マッカーサーの「国連中心主義」的な理念の文言をそのままにして、その「意味」を変えていく。
本来、占領軍としてのアメリカ軍とは

  • 国連軍

が前提であった。その「建前」は重要であった。ところが、いつのまにか、それは「国連」ではなく、「アメリカ」との「同盟」と呼ばれるようになっていく。マッカーサーからダレスに、占領政策が引き継がれる過程で、日本は

へと変質していく...。

そもそも現在の自衛隊には、独自の攻撃力があたえられておらず、哨戒機やイージス艦、掃海艇などの防御を中心とした編成しかされていない、「盾と矛」の関係でいえば聞こえばいいが、けっして冗談ではなく、自衛隊がまもっているのは日本の国土ではなく、「在日米軍と米軍基地」だ。それが自衛隊の現実の任務だと、かれらはいうのです。
しかも自衛隊がつかっている兵器は、ほぼすべてアメリカ製で、コンピューター制御のものは、データも暗号もGPSもすべて米軍とリンクされている、
「戦争になったら、米軍の指揮下にはいる」のではなく、
「最初から米軍の指揮下でしか動けない」
アメリカと敵対関係になったら、もうなにもできない」
もともとそのように設計されているのだというのです。

最初、日本が「平和」を実現させる手段は、「国連」を前提とするものであり、それがマッカーサー・プロジェクトであった。ところが、その後の冷戦以降、様相が一変する。日本の憲法理念が「国連」との

  • 対関係

において記述されていたはずであるのに、それが、いつの間にか、アメリカとの「同盟関係」と読み替えられるようになった。すると、9条に記述されている「戦争放棄」の理念が、異様なまでの違和感を与えるようになる。

  • なぜ、こんな文言が、<ここ>にあるのか?

もし、この文言が不要であったなら、最初から、ここになければよかった。しかし、実際にここにある限り、これが「なんなのか」が問題とされざるをえなくなる。これがなにかが解明されることなく、この文言を削除できない。井上達夫先生の言うように、9条を削除すれば、すべてがまるくおさまるというのは、

  • なぜ、こんな文言が、<ここ>にあるのか?

に答えていないという意味において、非歴史的な幼稚な行為だと言わざるをえないであろう。よく考えてみてほしい。この文言は、敗戦当時の日本国民が「勝ち取った」のだ! 戦争中、日本国民は日本国家によって、さまざまな権利を奪われ、多くの戦死者を出した。もう国家の暴走による戦争はこりごりだと思ったからこそ、実現させた理念に対して、それを「削除」すればいい、と言ってのける、井上達夫先生は、たんに

  • 国民を、なんとかして、だまくらかして、彼らの権利を手放させれば、うまい汁を吸える

と言っているに過ぎない。私たちは、こういう「うさんくさい」勢力と戦っていかなければならない、ということなのだろう...。

日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか

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