藤本忠『時間の思想史』

カントの純粋理性批判が、空間・時間の、ニュートン力学的なベースの上に構築されたものと解釈されることには、一定の正当性があると言わざるをえないわけだが、だとするなら、特殊相対性理論量子力学が一定の正当性を獲得したこの現代において、こういったカントの議論をどのように受けとればいいのかには、一定の留保をもたざるをえないわけであろう。
しかし、問題はそんなに単純じゃない、とも言えるわけで、カントの「空間・時間」のニュートン力学的なベースは、超越論的統覚、つまり、ジョン・ロックの言うところの

  • 自己の同一性

といった観念に関係して構築されている、一定の「範囲」の中の扱いだと考えれば、それなりの救済もそれほど不思議ではない。事実、カントが純粋理性批判で、空間・時間に関係して書いてあることは、物理学というより、どちらかというと、

のような色彩の方が強いわけで、これはこれで、もっと数学的な課題にとりくんでいたと考えることもできるわけであろう。
例えば、こんなことを考えてみよう。カントが、空間・時間を、直観形式としてアプリオリに想定するとき、ビッグバン理論のようなことを考えてみるなら、確かにこの宇宙の「始まり」は、

  • そこ

で時間も空間も同時に始まったのだから、カントの理論と矛盾しないよな、とか。
しかし、カントの純粋理性批判が、現代の視点でどうしても不満に思わざるをえない特徴もやはり、

的な立て付けのところにあるわけでして、そういう意味でいうなら、この本も指摘しているように「ライプニッツ」の方が現代の自然科学に相性がいいように思われてくる、と掲題の著者は言うわけである。

クラークは、第四の書簡の返答で、「空間と時間が単なる事物の秩序ではない」(7.385)と論じ、これに対してライプニッツは第五の書簡の中でクラークのこの無理解を強く批判している。ライプニッツは、空間は事物の位置付けのための秩序ではなく、時間は諸事物の契機の秩序でもない、と述べている(7.415)。クラークは、第三の書簡の返信以後、時間と空間が先に存在して、それが事物に対しての秩序となっている、としか時間と空間を理解できていない(7.368)。ライプニッツが論じている時間・空間の関係説とは、時間と空間が先に存在して物体が秩序付けられているのではなく、逆に事物の配置や契機の秩序が空間や時間を紡ぎだすのである。それゆえ、空虚な空間はそもそも過程できないのである。この点に関するライプニッツの主張をクラークは最後まで理解できない。
ライプニッツによれば、真に存在する対象はモナドしかないのであって、このモナドしか単純な対象はない。そのため可感的事物に、つまり空虚と原子に第一原因を押しつけるニュートンの理論では、自然の根拠(原因)の探究を封印する「怠惰の哲学 la philosophie paresseuse」(7.394)に陥るとライプニッツは断じる。

あまり事情を知らない人には、「なにを言っているんだ」と思うかもしれない。しかし、ライプニッツの「モナド」という考え方は、なかなか興味深いわけで、上記の引用でも語られているように、

  • 真に存在する対象はモナドしかない

という「表現」に全てが示されている。つまり、ある意味において、「時間」も「空間」も<モナド>だと言っているわけであろう。カントは、純粋理性批判で、自らの空間・時間の直観形式による定義を始める段階において、ライプニッツをボロクソにこき降ろしているわけで、つまりは、ライプニッツではなく、ニュートン的「絶対空間」「絶対時間」をベースに純粋理性批判が作られたということを意味しているわけであるが、こうやって、現代にまで至ってみると、そう簡単にライプニッツを嘲笑して済むようなものなのか、ということが疑わしいわけである。
さて。なぜそれが疑わしいのか、という話に入っていくわけであるが、その前に、多くの人は「量子力学」について、どれくらいの「教養」をおもちなのだろうか? 私はあまりに、この分野から遠ざかっていたので、久しぶりに以下の教科書を読み直してみたのだが、こうやって読んでみると、以前は気付かなかったが、多くの個所の証明が省略されているんだな、ということに気付かされた。

ヒルベルト空間と量子力学 改訂増補版 (共立講座 21世紀の数学 16)

ヒルベルト空間と量子力学 改訂増補版 (共立講座 21世紀の数学 16)

いや。この本にしても、私が大学時代にそれなりに、数学をやっていたこともあって、まあ常識的な感覚で読めたわけだが、なかなかハードルは高いんじゃないのだろうか。
ただ、少なくとも、この教科書にあるような、数学的な定式化に、一定程度慣れておくと、掲題の本の第8章、第9章の辺りは、そこまで通読が難しいというところまではないんじゃないのか、とは思うわけである。

歴史的にはよく知られているように、非定常状態(non-steady [non-stationary] state)において、粒子のエネルギーを測ると実験値が分散する。そこで、エネルギーと観測時間との間の不確定性が考えられた。例えば、ハイゼンベルクはシュテルン=ゲルラッハ(Stern-Gerlach)の実験において、時間とエネレルギーの不確定性関係、δEδT〜hを示した。これを正確に書くと以下のようになる。

ΔTΔE≧(1/2)h

ここで、Δは標準偏差である。
この事実をふまえて、次にY.アハロノフ(アハラノフとも表記される)とD.ボーム(Y.Aharonov and D.Bohm)は時間次元をもつ作用素を構成した。この作用素は「アハロノフ=ボームの時間作用素」といわれている。

T=(1/2m)(QP^-1)+P^-1Q)

Qは位置作用素であり、Pは運動量作用素である。
上の時間の作用素はポテンシャルのないシュレディンガータイプの自由ハミルトニアン H_0 = P^2/m と共役関係、すなわち、正準共役関係(CCR)、[T, H_0] = i, (h=1)。をもつように構成されている。ここで、次のような疑問が生じる。すなわち、「時間作用素Tは物理量なのか」という疑問である。つまり、「時間作用素のスペクトルは実数なのか」という問題であり、換言すれば、「Tは(本質的に)自己共益作用素なのか」ということである。

これを見ると、ほとんど「ライプニッツ」的世界であることに驚かされないだろうか。量子力学ヒルベルト空間によって定義される「物理系」から、そのヒルベルト空間上の自己共役作用素によって定義される(質点の位置も、運動量も、自己共役作用素によって与えられるわけだが)「物理量」から、「観測」を通して得られる「観測値」に、

  • ゆらぎ

が生まれる(それが「波束の収束」であり、ここに確率論が関係する)。そして、この自己共役作用素の間には、ハイゼンベルク不確定性原理が成立するため。どれかを精度を高く測定すると、他の値は必然的に測定不可の誤差にまで広がってしまう。
上記の引用は、こういった「事情」が、もしかすると

  • 時間そのもの

にまで拡張されるのではないか、という疑いを示しているわけであり、確かに考えされられるものがあるわけであるが、さて、みなさんはどう思われるだろうか...。