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2016-04-02

大隅(鹿屋市)歴史探訪

郷土史講座現地研修

郷土史講座現地研修に参加した(2016/3/27)。中世の山城、高隈松尾城跡は急坂もあり、トレッキング気分を味わいながら山頂の本丸跡を目指した。その他、古葉薬師や長谷城跡、花岡島津墓地など主に鹿屋北部地区の文化財史跡を巡った。

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↑土持堀の深井戸

土持堀(つっもっぼい)の深井戸は笠野原台地の開発の苦難の歴史を物語る貴重な遺跡として、昭和57年に鹿児島県の指定史跡に登録されている。保水性が低いシラスで覆われた笠野原台地のもとでは雨が降ってもすぐ地下に吸い込まれるため、長い間、耕作や生活用水の確保に困っていた。そこで人々は土手で周りを囲み、竹などを植えて風を防ぎ境界ともした。これを「堀(ほい)」という。それでも生活用水が不足するために井戸を掘ったもので土持堀の深井戸もその中のひとつである。掘られた時期は文政年間から天保年間(1818〜1843年)頃と見られている。井戸の深さ約64m、表面の直径約90cm、円筒形の素堀りである。深井戸のため当時は、人力で水を汲み上げるのは大変で、牛に綱を引かせて井戸水を汲み上げていたという。1927年(昭和2年)、笠野原簡易水道ができ、水の苦労がなくなった。

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↑観音淵中世古石塔群

観音淵は地下水が長い年月をかけて造り出した天然の洞窟で、高さ8メートル、幅16メートル、奥行30メートルもあり、洞窟の中には、鎌倉時代初期から戦国時代までの供養塔が約90基ある。洞窟入口から見て右側の供養塔は、鎌倉初期にこの地方の開田作業を進めた富山一族の長谷三郎太夫義遠(はせさぶろうだゆうよしとお)一族及び、家臣団の逆修供養塔(ぎゃくしゅうくようとう)と見られる。左側の供養塔は肝付氏のもので、ともに鎌倉初期から富山氏と競って開田作業を進めたものと思われる。逆修供養塔とは、土地開発等の大事業や戦乱、または個人の意志により死後の安楽、極楽往生を願って生存中に建立する供養塔をいう。この観音淵中世古石塔群(かんのんぶちちゅうせいこせきとうぐん)は鹿屋市の指定史跡になっている(昭和56年8月19日指定)

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↑高隈松尾城(白石松尾城ともいう)

 高隈城は、中世の初め頃から当地方を支配していた肝付氏の私城として構築されたものと思われるが、南北朝時代の山城として築城形式をふんでいる。南北朝時代から戦国の世にかけて大隅方面の戦乱舞台にたびたび登場してくる。正平6年(1351年)7月11日、この城によった南朝宮方の楡井四郎頼仲(遠江の守)を北朝武家方の畠山直顕の命を受けた祢寝孫次郎清種が攻め、翌日これを落とした記録がある。天文7年81538年)及び11年に新納氏・肝付氏・祢寝3氏の攻防戦も行われている。城郭は、本丸、二の丸等にわかれ、西面は高隈川を利用した自然の水濠にし、土塁、空堀、木戸口をほぼ完全に残す。 MORE→http://www.osumi.or.jp/sakata/bunkazai/takakumazyou.html

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↑木場薬師

 鹿屋市文化財指定。仏像自体の作りも古く美麗、文政8年の鹿屋名勝誌にも記録がある。 鰐口は、永正4年(1507)の作で、多くの刻字があり貴重な物である。(昭和62年5月1日指定)

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↑長谷観音・長谷城跡中世石塔群

長谷観音とは、もとは奈良の長谷寺の十一面菩薩立像のことである。 長谷信仰の南限に近い観音で、わが国の仏教の源流を探る上で貴重な像と思われる。鹿屋三観音のひとつで古来住民の尊崇が厚く、数々の伝承がある。永正三年(1506年)の年号と造立の趣旨の記があり、戦国時代にはこの地に鎮座していたことがわかる。

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↑花岡島津歴代墓地

花岡島津家墓地は享保9年(1724)薩摩藩22代継豊がその叔父である久儔(ヒサトモ)の為に大姶良郷のうち、木谷村及び野里村の吉国、上原を割いて花岡郷として独立させ、一家をおこさせたものである。荷台久尚夫人(22代継豊ノ妹)岩子姫が安永年間(1772〜1780)に高須川の上流から花岡用水路を引いて領民の便を図った。

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↑高須波之上神社古石塔群

板碑は鎌倉時代に中国から伝承した供養塔の一種である。ここの板碑は頂部がやや内側に反って突出し、県内にある他の板碑とは作り方がやや異なっている。6基あるが1基は赤色凝灰岩で柔らかく磨損が著しい。他の5基は黄色凝灰岩(山川石)で造られているため600年近く経た今日でも刻字まではっきりしている。これは県下でも重要な塔姿。