続・ひきこもりスペクトラム

2004-03-07の日記の「ひきこもりスペクトラム」のつづきのようなもの。

ひきこもり当事者にとってメリットがあるかもしれない、そうおもって「ひきこもりスペクトラム」という言葉をつかってみたのでした。では、それはどんなメリットなのか。以下、現時点でかんがえていることについての覚え書き。

「ひきこもりスペクトラム」の核は、ひきこもりといってもその状況は多種多様だけれど、それは連続しており、そこには共通する要素があるのではないかということ。どうしてひきこもりの連続性や共通要素を強調するのか。それは、ひきこもりの「階層性」や「偽ヒキ」問題にまつわる厄介さを回避したいから。

ひきこもり当事者のコミュニケーション・スキルや社会適応にちがいがあるのは事実で、その事実は否定できない。しかしその事実をもとに「おまえなんか、ひきこもりじゃない」といった批判の言葉がでてくるのは「なんだかなぁ」という気持ちがします。

ひきこもり当事者は、ある種の頑固さ・かたくなさ、そんなものを持っているようにおもう。「生きること、それは変化すること」そんな言葉がありますが、ひきこもり当事者の頑固さ・かたくなさは、そのような変化を遠ざけるような頑固さ・かたくなさではないか。

たとえば、つぎのようなことはないだろうか。

  1. 「はやく働いてくれ」という親の圧力に対して当事者は抵抗する
  2. しばらくひきこもって当事者自身が「働かないと……」とおもう
  3. 同時に当事者は「自分が働くことって、抵抗してきた親の願望じゃないか!」と感じる
  4. 結局、親へのかたくなな抵抗のため「働かないと……」という意思は無効になる

これは「働かないと……」という自発的な意思が無効になってしまう例。ひきこもり当事者のもっている頑固さ・かたくなさによって、このように自発的な意思を無効にしてしまうことがありがちではないかと。ひきこもり当事者はダブルバインド状況をみずから築いてしまい身動きがとれなくなりがちである、このように説明することができるかもしれません。

これがひきこもりの階層性や「偽ヒキ」の問題になると、つぎのようになるかもしれない。これは「グループへ行ってみよう……」という意思が無効になる例。

  1. 自助グループに行ける奴なんて偽ヒキだ」と発言する
  2. しばらくひきこもって「自分もグループに行ってみようか……」とおもう
  3. 同時に「それは、自分がこれまで否定してきた奴らのやってたことじゃないか!」と感じる
  4. 結局、かたくなな「偽ヒキ」拒絶感のため「グループへ……」という意思が無効になる

「○○できる奴は、偽ヒキだ」という発言は、ひきこもりの定義をめぐる線引き合戦である。そしてそれはひきこもり当事者にとって不毛な合戦であり、その戦いへ当事者が参加すると頑固さ・かたくなさのために現状から身動きがとれなくなりかねない。こんな懸念は杞憂なのでしょうか(杞憂だとよいのですが)。生きることは、変化すること。だから「おまえなんか、ひきこもりじゃない!偽ヒキだ!」と発言した当事者がその「おまえなんか」とおなじような状況になる可能性がある。だったらその変化を邪魔するモノはとりのぞいたほうがいい。

「階層性」や「偽ヒキ」にまつわる厄介な問題を回避するため、「ここからがひきこもりです」と線引きすることの困難を認めてしまったほうがいいのではないか。線引きするかわりに、ひきこもりを連続体としてかんがえたほうがいいのではないか。ひきこもりの連続性や共通要素を強調したほうが、当事者の精神衛生上もメリットがあるのではないか。そんな気持ちから、とりあえず「ひきこもりスペクトラム」という言葉をつかってみたのでした。

かなり言葉たらずですが、以上、覚え書き。

注記:自閉症スペクトラム、これは診断や治療のための概念です。しかし「ひきこもりスペクトラム」のほうは、当事者の精神衛生のためにわたしが捏造した概念にすぎません。

『アイデン&ティティ』

みうらじゅんアイデン&ティティ:24歳/27歳』角川文庫、ISBN:4043434014

成長や成熟がテーマかと。ただし最初にことわっておきますが、映画のほうは見てません。

中島はバイトしながらバンド活動をつづけている。たとえバンド・ブームがおわっても「みんながやらなくなった時こそロックの意味があるわけでー/ロックの本来の姿/アンチの精神が/生きる時なんだよ!!」なんて言いながらバンド活動をつづけている。けれども、やっぱりそんな状況に不安も感じるわけで「セックスをしている間だけは、何か分からないが不安を忘れる事が出来る」からという理由でファンの女性と性的関係をもつ。

中島は幼稚な万能感の持ち主である。不安を感じながらも、周囲が思いどおりになるという万能感を抱いているからこそ、バンド活動がつづけられるのだ。また「今の気持ちを歌う事がオレはロックだと思う!!/大人を…困らせたいんだ」という言葉にも幼稚な万能感があらわれている。中島とボブ・ディランやジョン&ヨーコの対話も、かれの万能感がうみだしたファンタジーとして解釈できそうだ。

そのような中島の万能感は、かれの彼女によってささえられている。この彼女、自分で「君は私をマザーだと思ってるでしょ……」と言ってるように、中島にとってマザーという母性的な役割をはたしている。中島は自分がダメな人間だと感じており、自信がもてない。だからかれの万能感をささえる自己愛は脆弱で、どうしても他者の賞賛に依存しようとする。そんなときマザーは「不安なの?誰もいなくなっても私だけは味方なのに…ね」といった言葉をささやく。マザーに依存しながら脆弱な自己愛をまもる幼稚な中島クン……。

……こんなツライお話でおわってしまうことなく、みうらじゅんは読者の男の子の夢をかなえてくれる。中島はすこしずつだけど本当の「ロック」にちかづいていく(ように見えるだけなのかもしれないけれど)。しかしながら成長していくためには中島はマザーへの依存をやめなければならない。そこでこのマンガでは、中島の彼女は絵の勉強をするために突然アメリカへ留学してしまう。これは精神分析用語でいうところのエディプス・コンプレックスを戯画化した物語なのかもしれない。

中島はバイトしながらバンド活動をつづけている。こういう人間のことを、ふつうはひきこもりとは呼ばない。しかしかれの脆弱な自己愛にまもられた万能感は、ひきこもり当事者にもみられるものだ。また中島とマザーの関係についても、それをひきこもり当事者と母親の関係として読みかえることができる。わたしは中島にはひきこもりと共通する精神があるようにおもう。「ひきこもりスペクトラム」のなかで比較的よく社会適応できているポジション、そこに中島を位置づけてもかまわないのではないか。そんなことをかんがえる。

中島には「ロック」という欲望があった。そしてその欲望をすこしずつ実現していくために、すこしずつ成長した。成長過程でかれの幼稚な万能感は創作の源として幸運にも生かされたといえるだろう。中島はライブの観客に向かって、つぎのように言っている。

みんなの心の中にもきっと住んでいるロックはこう言うだろう
”やれる事をやるんだよ/だからうまく出来るのさ”って

「やれる事をやる」──やっぱりこれが大切なのかしら。