「文」というジャンルについてのメモ

大岡昇平『小説家夏目漱石筑摩書房
これも、小説家ならではの読み、というものを感じさせる。研究者が論じるのとは、違うところを作家は読んでいるのだなあと思って、勉強になった一冊。
柄谷行人が、「文」というジャンルについて論じたときに、参考にした箇所を、自分の目で確認してみる。大岡は、「文」というジャンルをこう論じていた。
「文」とは、いまなら「文章」と呼べるものだという。漱石自身も「永日小品」というタイトルのものがあり、また「小品」という名が当時「中学世界」という投稿雑誌にはあった。

原稿紙二、三枚の短文で、措辞が整い、音読して耳に快く、美しいのが理想でした。漱石にも中学時代から漢文、擬古文の「作文」があります。(p.40)

さらに「美文」というジャンルがあり、たとえば大町桂月らの『花紅葉』、高山樗牛『わが袖の記』、国木田独歩『武蔵野』、徳富蘆花『自然と人生』などが挙げられている。これらは、自然描写が主で、美辞麗句で飾られ、読んで心地が良いものだ。
さて、ほかには「写生文」もまた「文」というジャンルの一つであった。「写生文」は、もちろん正岡子規が提唱したものである。

『猫』もまた写生文という「文」でした。これは子規が提唱したもので、自分の俳句での仕事は革新といっても復古だが、これは我等仲間の創始したものだ、と威張っていたそうです。『花紅葉』『自然と人生』『武蔵野』はセンチメンタルでいけないけれど、写生文は目に見える物を、はっきり書くということで、たしかに近代日本のリアリズムの一方の起源です。しかし「文」の中には「山」がなければならぬ、というへんに実際的な主張があって、主旨一貫しないところがあった。子規没後、むしろ主観色の濃い変種が出ていた。『猫』もその一種です。(p.42)

「文」という小説でも詩でもない、一つのジャンルの存在は注意しておいて良い。漱石の初期作品を読むときは、気をつけること。
ところで、この本では、大岡昇平江藤淳を激しく批判している。いわゆる嫂登世の問題についての有名な論争だ。江藤淳が、嫂登世と漱石が関係があった、と執拗に論じるわけだが、大岡はこの論を批判している。大岡はこう述べる。

このあたりからすでに江藤淳探偵の推理は、いわゆる見込捜査で、自分の仮説に都合のいい証拠ばかり集めて来る。それは『漱石アーサー王傳説』全般にわたって見られる特徴です。(p.149)

自分の仮説に都合のよい証拠ばかり集めて論じてはいないだろうか。文学は自由に読み解釈することが出来る。しかし、それが落とし穴でもあるのではないか。つい、自分の都合の良い証拠だけを挙げて、テクストを解釈してしまっているのではないだろうか。もう一度、自分の研究を反省する必要がある、と思う。

明日の予定

さて、明日、私は東京へ行きます。夕方から、例のジュンク堂トークセッションに出る予定です。あ、その前にたぶん国会図書館で調べ物をする予定。もし、午後、図書館で、「東京日日新聞」を調べている人がいたら、たぶん私だと思います。探している記事があるので…。あと、雑誌のカウンター付近でボーッと雑誌(古い映画雑誌)が出てくるのを待っていると思います。そんな予定です。
というわけで、明日から1週間ほど、日記はお休みです。また来週から復活する予定です。