ロシアとウクライナの俳句同人は今どうしているか

 

 

    ロシア、ウクライナで、俳句を作る人が増え、句会も開かれているというニュースを読んだのは、ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まるよりも前のことだった。国境を越えて、俳句でつながっていた人たちは、今どうしているだろうか。スポーツや音楽、芸術、学問の世界の人たちも、つながっていた。どうしているだろうか。

    俳句会の人たちは、ときどき寄り合って吟行に出かけ、親睦を深める。自分の作った句は、句会をひらいて発表し合う。

    私が奈良に住んでいた時、大きな句会に参加したことが何度かあった。参加者は円く輪になって座り、自分の名前を書かずに、おのれの作句だけを書いて、担当者に提出する。集まった句は全句が公開される。そうして発表された俳句を読んで、参加者は気に入った句に投票する。その後で、それらの句が誰の作であるかが、作者の名乗りで明らかになる。

 この仕組みに私は大いに感心した。

 

    ロシア、ウクライナで、俳句を作り合っていた人たちは、今どうしているだろう。

 戦争は彼らを、句会を破壊して、滅びの道に投げ込んでいるのだ。

     

   

  かつて日本で、戦争を詠んだ俳句がある。

 

     戦争にたかる無数の蠅(はえ)しずか

  あやまちはくりかへします秋の暮れ       三橋敏雄

 

  戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり 

  戦争が廊下の奥に立っていた          渡辺白泉

 

  やがてランプに 戦争のふかい闇がくるぞ    富沢赤黄男

 

  軍鼓(ぐんこ)鳴り 荒涼と秋の痣(あざ)となる    高柳重信

 

  戦争が戻ってきたのか夜の雪

  射殺され棒の如くに屍(かばね)凍て      若木一朗

 

  戦傷兵 外套(がいとう)の腕 垂らしたり

  炎夏の街 英霊車過ぎ 音もなし        加藤楸邨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新船海三郎著「翻弄されるいのちと文学」

 

 

    新船海三郎著「翻弄されるいのちと文学」(あけび書房 2023)に、五味川純平の大作「人間の条件」について書いている。

 作家の五味川純平は、1916年に中国東北部に生まれ、1995年に死去した。彼は戦争末期に徴兵され、ソ連軍と戦い、彼の部隊158名は生き残りが4名だった。彼は生き残って、戦後「人間の条件」を書いた。

 

 「ぼくらの人間形成は、戦争と切り離しがたく結びついている。戦争に対して、どういう態度をとったかが、ぼくらの人間を決定したのだ。ぼくが小説を書こうとするとき、この問題が基本テーマになる。」

 戦争とは何か、人間とは何か、戦争という極限状況のなかで、いかに人間としてあり得るのか、五味川は問い続けた。吼えるように言葉を発し、晩年まで問い続けた。

 「私は、(戦時下)屈せずに開戦の非を唱えつづけるべきだったが、さすれば獄につながれただろう。私にはそんな勇気はなかった。自分は非戦論者のつもりだったが、軍国主義に決定的な敗北を喫したのだ。」

 五味川は、この戦争がまったく義のない侵略戦争であり、無謀極まりないものであることを分かっていた。だが正面から堂々と批判を行えなかった。なぜ人間はそうなってしまうのか。五味川純平はそれを小説で問おうとした。なぜ自分は軍国主義に膝を屈したのか、問いつづけた。理知への不信か、勇気の不足か、弾圧・拷問への恐怖か、それらすべてがあったろうが、彼を絶望させたのは、それら以上に周囲の白眼視だった。総がかりで疎外、排除し、押しつぶしにかかる『空気』であった。

 新船海三郎は指弾する。

 日本文学は戦争加害を語らない。「戦争文学」や「原爆文学」というジャンルを成立させながら、明確な加害意識を背景にした作品を積極的に評価してこなかった。石川達三「生きている兵隊」は,戦時下の1938年に発表された。南京に進軍した部隊の蛮行を描き、戦争の実相を伝えようとしたが、発禁処分となり、石川達三も禁固四カ月の刑を受けた。戦後、それは出版され大きな衝撃を与えた。

 

 小説「人間の条件」は映画化され、後に映像で私は観た。おぼろに覚えている最後のシーンは、雪のなかに倒れた仲代達也演じる主人公・梶の上に、雪が降り積もっていくシーンだ。

 

 今この時も、ウクライナで、ガザで、銃弾に倒れれいく人たちがいる。世界は、いまだにこれを止めることができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最貧国モルドバの豊かな心

 

  「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」(東 大作著 岩波新書)から

 

   モルドバという国がある。場所はどこか、私はその国の場所をよく知らなかった。世界地図で探すと、ウクライナルーマニアにはさまれた小さな国だ。東大作は、この国を訪れて現地取材した。

 

    「私(東大作)は、2022年8月下旬から一か月、サウジアラビア、トルコ、モルドバを回った。ロシアのウクライナ侵攻によって、多くのウクライナ人が海外に脱出している。国連の推計では脱出者は750万人を超えている。ウクライナの隣国であるモルドバには、60万人が避難した。モルドバは、ウクライナ同様、NATOにもEUにも加盟していない、欧州の最貧国と言われている。ロシアによるウクライナ侵攻が始まって、モルドバウクライナの避難民を受け入れた。モルドバの人口は380万人、そのうち120万人は、海外へ出稼ぎに行っている。ロシアのウクライナ侵攻が始まると、モルドバ政府は真っ向からロシアを批判する声明を出した。この声明を出したモルドバの恐怖心について、私はモルドバの副首相に聴いた。副首相は応えた。

    『ロシアがモルドバまで侵攻してくると、思いました。ウクライナオデッサからモルドバまで、わずか200キロです。私はあらゆる事態を想定しました。モルドバには60万人超のウクライナ人が逃れてきました。モルドバの人々は、率先して避難民を受け入れました。家が狭くても、難民を迎え入れる部屋を用意しました。それは誇りある行為です。』

    モルドバの国民は、モルドバに逃げてきたウクライナの難民の95パーセントを自分たちの家庭に迎え入れ、5パーセントの難民は、モルドバ国が、全土に80の難民居住センターを設置し、そこで居住できるようにした。

    この時、日本の支援も動き出し、開戦から一か月、日本のNGOの責任者がモルドバに飛んだ。「ピースウィンズ・ジャパン」と、「難民を助ける会」だった。この二つの団体はモルドバで、日本大使館の全面的な協力を得ながら難民支援に当たった。そこへ「JICA」が加わった。首都の五つの病院に、必要重要医療機器が供与された。

    日本の大使、片山氏は、広島原爆の被爆二世だった。彼は語った。

    『モルドバの人たちが、ウクライナ難民を受け入れる温かい姿を見て、日本政府としてできることを一生懸命に考えました。』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

反戦の意識と行動はいかに

 

 

     ロシアとウクライナの戦争が続いている。

    「ウクライナ戦争をどう終わらせるか ――和平調停の限界と可能性」(東大作著 岩波新書)を読んだ。東大作氏は、大学、国連、NHKなどで幅広く活動をしておられる。

   彼の著書の中に、「ベトナム戦争の教訓――戦争終結の難しさ」の項がある。

 

  「私は1998年にNHKディレクターとして、『我々はなぜ戦争をしたのか――ベトナム戦争・敵との対話』というタイトルの番組を制作した。その際に、アメリカ国防長官のロバート・マクナマラや、北ベトナムの和平交渉を指揮したチャン・クワンコ政務次官など多くの北ベトナムの高官にインタビューをした。 

 実はその前年に、アメリカとベトナムの戦争指導者が、『どうすれば戦争を防ぎ、もっと早く終結させることができたか』という議論をしていた。ハノイでのその対話は、三日間に及んだ。この歴史的な対話のなかで、アメリカのマクナマラ国防長官は、『1973年のパリ和平協定と同じ合意内容を、私自身が主導していた1967年の秘密和平交渉でも結べたはずだ』と何度も主張した。これに対してベトナム側は、『アメリカの空爆が続く中で、アメリカからの和平交渉の呼びかけなど、断じて信用できず、応じられなかった。』と主張し、アメリカとベトナムの意見は真っ向から対立した。

 私は直接マクナマラにインタビューした。マクナマラは応えた。

    『今でも私は、なぜ北ベトナムが、1967年段階で交渉に応じなかったのか分からない。爆弾を落とされていたって交渉はできるじゃないか。』

    一方、ベトナムのチャン・クワンコ外務次官は語る。

    『対話の三日目、マクナマラ氏に問われた。爆撃で殺されているベトナム人の命に関心が無いから北ベトナムは交渉に応じなかったのではないかと。私は怒りに震えた。爆弾を落としていたのはアメリカであり、爆撃を指示していたのはマクナマラ本人だったからだ。

    対話をしても相手に通じないこともある。それでも理解するためには対話を続けなければならないと思う。』と。

 

     一度戦争を開始したら、いかにそれを終結させるのが難しいか。アメリカによる空爆が続く中、1967年の秘密交渉は失敗、アメリカはさらに五年におよぶ消耗戦を行った末に、撤退を決断した。それが両者合わせて300万人を超える犠牲者を出した戦争の結末だった。」

 

    ベトナム戦争は、アメリカ市民の反戦行動に火をつけ、日本の反戦運動にも大きな影響を与えた。鶴見俊輔小田実開高健本多勝一らが立ち上がり、「ベトナムに平和を 市民連合」が結成された。「べ平連」は日本全国に広がり、反戦デモが巻き起こった。在日アメリカ軍の兵士たちに軍からの脱走を呼びかけ、脱走兵を市民がかくまって、スエーデンなどに脱出させた。私もまた反戦運動の渦の中に入った。

 

    今世界はきわめて危険な状態にある。世界は、この危機をどう乗り越えるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦場の短歌

 

 

 日中戦争に従軍した歌人がいた。山中貞則、彼の歌が「昭和万葉集」に載っている。

 

   いささかの愛惜を断ち

        焚き捨つる万葉代匠記の炎よ赤し

 

 「万葉代匠記」とは江戸時代に、国学者歌人であった契沖が著した万葉集の注釈書である。

 中国の戦場へ、山中は万葉集の注釈書二十巻を持っていったのだ。おそらく、その戦争がどんな戦争なのか、日本の軍隊がどんな軍隊なのか、想像もつかなかったのだろう。「万葉代匠記」を読めるなんてできるはずがない。彼は戦場で、「万葉代匠記」を燃やしてしまった。兵士山中の侵略戦争は四年に及んだ。

 戦争は敗北に終わり、多くの戦友が戦死、山中は無事復員した。

 日本は惨憺たる廃墟となっていた。

 帰還した山中は、国会議員になり、日本の復興に議員としてたずさわりながら、歌を詠んだ。

 

   戦友よ(ともよ) 戦友よ(ともよ) 許させ給へ

   永劫に かかる悲惨の戦ひを禁じて誓ふ

   平和憲法 

 

 戦争に従軍した歌人に、宮柊二(みやしゅうじ)もいた。彼の歌も「昭和万葉集」に載っている。

 

   死すれば安き命と 友は言ふ

   われも しか思ふ 兵は安しも

 

 同じく「昭和万葉集」に、松本富治の歌がある。

 

   この弾丸(たま)に あたりて死なば

   楽ならむと思ふとき ふと妻の顔顕つ

 

 同じく「昭和万葉集」、小林和夫の歌。

 

   動哨に出で行かむとする班長

   遺書三通をわれに託しぬ

 

 

 

 

 

 

消えた子どもたち

 

 

 

    今の学校はどういう状況なんだろう。私の地域の学校の教員から、こんな投書をいただきました。

 

 「学校教育は、昭和の時代よりも退化しています。笑い合うゆとり、余裕、少しもありません。みんな何かに追われるように仕事をしています。そして、おそらく、「こんなに仕事をしてるのだから、自分の仕事は子どものためになっているはず」と思い込んでいます。ゆとり教育への批判が始まった頃から、子どもから目を離して、ちがうところを見始めた気がします。」(小学校教員)

    戦時中の軍国主義教育が敗戦によって完全否定されてから、澎湃として自由な教育創造が始まった戦後、しかしやがて学校は、受験競争、管理主義、テスト主義、知識偏重へ傾斜し、その教育への批判がまた新たな状況を生み出し、今は学校へ行かない子どもも増えている。

    教職を離れて年を経た私は今、野を歩き、山を眺める。もう野にも子どもの声は聞こえず、子どもたちの姿を見ることもない。小中学校の校舎は目にするが、子どもたちの声は聞こえない。子どもたちの声を聴くのは、買い物に出かけた時、たまたま通りかかった通学路を下校していく小学生たちの声だ。

 

    ときどき思う。『おじいちゃんセンセイ』になって地元の学校の一教室を『おじいちゃんの部屋』にして、おしゃべりや、遊びをしたい子がやってくるような企画ができないだろうか。そして先生や子どもたちから要請があれば、教室に出かけて行って、「おじいちゃんの授業」「おじいちゃんのお話」を行えば楽しいだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 

学校とは

 

<前日の続き>

 

    教員たちは議論しているか。意見を出し合い実践し、実践して議論しているか。

 今は高齢の私が非常勤講師として最後の教育現場を体験したのはもう十数年前のことになる。

 そこは私学の高校だった。

    教員たちは、職員室の自分の席で、それぞれコンピューターに向かっている。授業の合間はほぼ全員が職員室にいるが、みんな無言だ。自由な時間だが、寂として声無し。授業は、教員それぞれに任されており、彼らはどのような授業をしているのか、どのような学級づくりをしているのか、生徒たちは生き生きと学んでいるのか、困っていること疑問に思っていることは有るのか無いのか、何も分からない。教員間に会話なし。寒々とした職員室、「なんだ、これは。教育が死んでいるではないか」、と思った。

 

    私が公立中学校教員になったのは1960年。職員間には生徒やクラスを話題にした「おしゃべり」が盛んだった。教員は生徒たちを面白がり、笑いが絶えなかった。生徒が教員に言った、「先生ら、仲がいいな」。私は思った、「生徒と教員も仲が良いな」。私は、日本各地の教育実践の記録を読み、世界の実践に学び、先人たちから「教育の魂」を学んだ。私は著作「夕映えのなかに」に、希望と葛藤を詳しく書いた。

    自分たちはどういう学校を創るのか、どういう教育を行うのか。

    教員としての希望は何か。