薬は毒

岡田茂吉師御論文です)
薬毒

『明日の医術(初版)第一編』昭和17(1942)年9月28日発行

 今日迄、西洋医学に於ては二千五百年以前ヒポクラテス創始の医道以来、




支那の医祖伏羲が、五千年前創始せられた医道は固より其他幾千万の病




気療養の方法は尽く浄化作用停止又は一時的苦痛軽減の方法以外には出で




なかつた事は再三述べた通りである。そうして最も効果ありとしたものが、薬剤




療法であつた。


 そうして薬毒なるものは、啻(ただ)に浄化作用停止だけではなく、その人間




の健康に及ぼす悪影響は実に想像されない程の恐るべきものがある。私の長




い経験によれば、凡ゆる痛苦は悉く薬毒の結果であつて、痛みも発熱も不快




感も疲労も神経衰弱も原因はそれであり、全身的新陳代謝の衰耗も機能の弛




緩も咸(ことごと)く薬毒の結果である。従而、人間の健康の良否も病気の軽重




も“薬毒の多寡に因る”といふも過言ではないのである。
 今日迄、人間が一度病気に罹るや、浄化作用を薬毒によつて停止するが、




それ以外、薬毒なる新しい毒素を追増するのである。その例として、何よりも周




知の事実は、医師が医療を行ひつつ、余病が発生するといふ事である。最初




の病気を治癒する目的であるに拘はらず、第二第三の病気が発生するといふ




事は甚だ不合理ではあるまいか。即ちその療法が適正であるならば、最初の




病気が軽減しつつ余病など発生すべき訳はない筈である。即ち拾の病気と仮




定して、時日を経るに従ひ、九となり八となり七となるやうに、漸次軽減しなけ




ればならない筈である。然るに何ぞや治療を施しつつあるに関はらず、十一と




なり十二となり、十三となる―といふやうに増加する不可解極まる事実である。




之に対し、患者も医家も、何等の疑念を起さないのであるが、これは全く、医学




が一種の迷信化するまでに到つたためであると思ふのである。


 故に、私は斯う想像するのである。日本人が薬剤使用を全く中止し拾年経た




なら恐らく病人は半減するであらう。従而日本人の寿齢は延長し、数十年を経




るに於て平均寿齢八拾歳位は易々たるものであらう。何となれば短命とは病気




に因る死であるからである。所謂不自然死である。病気が減少すれば自然死




が増加する。自然死といへば、少くとも九拾歳以上でなければならない筈であ




る。又人間が死に際会して苦痛が伴ふといふ事は、天寿ではないからであつ




て、天寿を全うして死ぬといふ場合は、例へば樹木が樹齢尽きて自然に仆(た




お)れるが如く、聊かの苦痛もないのが当然である。そうして死の苦痛の原因




は何か、言ふ迄もなく、薬剤其他の方法によつて浄化作用の停止を行ふから




である。即ち自然である浄化作用を、不自然なる抑止をする―その摩擦が苦




痛となるのであつて、而も、衰弱し切つた肉体であるに於て、苦痛は倍加すると




いふ訳である。


 古から“人は病の器”といふ言葉があるが、之は大いに謬つてゐる。実は“人




は健康の器”であり、健康が原則であらねばならないのである。神は人間をし




て、神の理想を此地上に顕現せんが為に生ませられたものである―と私は信




ずるのである。従つて、其使命を遂行するに於て不健康であつてはならない。




故に不健康といふ事は、人間が何等かの過誤即ち神の摂理に反してゐるから




で、その過誤の最大なるものが“薬剤使用”である。


 次に、今一度私の事を言はして貰はう。元来私自身は、生れながらにして頗




る虚弱者であつたから、四拾歳位までは、人並以上の薬剤崇拝者で、殆んど




薬びたりといふ程で、それまでは、健康時より罹病時の方が多かつたのであ




る。然るに会々(たまたま)或動機によつて薬毒の恐るべき事を知り、断然廃




(や)めたのであつた。それから年一年健康に向ひ、二拾数年後の今日では、




実に壮者を凌ぐほどの健康体である。又私の家族十数人も、今日稀にみる健




康体の者ばかりである。其他私の説を信じ、それを実行してゐる人達は例外な




く、年々健康になりつつあり、健康家族が造られつつあるに察(み)ても、疑ふ




余地はないのである。


 私は爰で、今一つ重大な事を述べなくてはならない。それは薬毒保有者は、




左の如き悪影響を受ける事であつて、それが多量ほど甚だしいのであるが、世




人は全然気が付かない事である。


 一、常に不快感のある事。


 二、頭脳の活動が鈍くなる事。


 三、身体の動作が弛緩する事。


 右の三項目に就て詳説してみよう。


一、の不快感は、薬毒集溜個所に微熱があるから、局部的又は全身的に悪寒




があるので、常に普通以上寒がるのである。又、何事を為すにも億劫(おっく




う)がり、寝る事を好み物に倦(あ)き易く長く一つ事に携はる事が出来ないので




ある。そうして物事の解釈は凡て悲観的となり、常識を欠き、陰欝を好み、従




而、晴天の日より雨天の日を好むのである。又腹立ち易く、甚だしいのは自暴




自棄的になつたり、又常にクヨクヨとして、些かの事も気にかかり、ヒステリー的




ともなり、自分で間違つてゐる事を知りながら、どうする事も出来ないといふ状

態で、又それを煩悶するといふ事になり、最も甚だしいのは厭世(えんせい)的




となり、廃人同様となる人さへある。


 一家に斯ういふ人が出来ると、他の者まで影響を受けて、家庭は暗く、争ひ




の絶間がないので、人生の幸福を得る事は到底期し難いのである。





二、現代人は非常に頭脳が鈍くなつてゐる。従而、記憶の悪い事も夥しい。故




に、今日重要なる地位にある人の講演が、殆んど原稿なしではやれないといふ




やうになつてゐるが以前は原稿を持つ事は恥のやうにされたといふ事を聞いて




ゐる。


 幕末期、彼の杉田玄白高野長英等の人々が蘭学を飜訳するに当つて、参




考書も碌々ないのに兎も角やり遂げたといふ事は、余程頭脳が良かつたに相




違ないと思ふ。現代人にはそういふ人は殆んどないであらう。又弁慶が安宅




(あたか)の関に於て、白紙に向つて勧進帳を詠んだ如き、稗田阿礼があれ程




浩瀚(こうかん)な古事記全巻を記憶してゐた如き実に日本人の頭脳の優れて




ゐる事は、世界無比であらう。


 又、現代人は簡単明瞭な所説では、充分頭へ入らないやうである。諄々(くど




くど)しく、微に入り細に渉り、又種々の例證を挙げて説かなければ、会得が出




来ないやうである。本来、頭脳の良い人は、一言でその意を悟り得るのであ




る。昔の諺に“一を聞いて十を知る”といふ事があるが、現代人は“十を聞いて




一を知る”のが関の山であらう。又、実際よりも理論を重んずる傾向があり、そ




の為に、医学なども理論に偏し、実際を無視したがるのである。


 又、政府が新しい施設や政策を行ふ場合、国民に対してラヂオや新聞やポス




ター等、これでもかこれでもかと宣伝に努力しても、国民が速かに理解し実行し




ないといふ事実は全く今日の国民全般の頭脳が鈍くなつてゐるからであると惟




ふのである。


三、現代人の動作の遅鈍なる事は、また甚だしいのである。之は、国民の大部




分がそうであるから気が付かないのである。特に、都会人の歩行の遅い事は




驚く程である。之は身体が鈍重である為である。


 昔の武士や武芸者等が、咄嗟(とっさ)の場合、飛鳥の如く身をカワしたり、又




飛脚屋が一日二十里を平気で日帰りしたりしたといふやうな芸当は、現代人に




は到底出来得ないであらう。


 元来、日本人は、外国人に比べて非常に身が軽く、動作が敏捷であるのであ




る。日本人の飛行家が特に優秀であるのは、何よりの證拠であらう。





 従而、人間の不幸も争ひも、その根本は、薬毒にあるといつても過言ではな




いのである。故に、薬毒のない人間の社会が出現するとしたら如何に明朗であ




るかを私は想像するのである。全く薬毒が無くなつた人間は、頭脳明晰で、爽




快感に充ち、生々溌剌としてゐるのである。(岡田茂吉師御論文です)





東京黎明教会http://www.tokyo-reimei.or.jp/jp/0301_mok.htm




岡田茂吉師御論文はこちらから

http://www.rattail.org/

http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/goronnbunn.html


岡田茂吉師動画はこちらから

http://peevee.tv/v?6t6mb7