著者は出版社に権利を渡すべきではない、は本当か

先日のエントリに対する反論(はてブのコメントに対する反論に非ず)を書きたいところだが、また興味深いネタが上がってきたので、そちらを取り上げる。

西田宗千佳氏のツイート

電子出版について などで紹介されているが、西田宗千佳氏が twitter で「電子出版に対する誤解」を列挙されている。番号のついているものを列挙してみる。

そこは言葉の使い方が…というツッコミもあるようだけれど、全体的にはこんなところだろうと思う。元々“新たな契約”が必要なのは、旧来の出版契約における“出版権”が、法的に電子的な出版には及ばないためであろう。日本書籍出版協会が出している「出版契約書のヒナ型」には、電子媒体については“双方の協議の上で決める”ことになっているが、電子出版する際に個別に協議していたのでは電子化を進めにくいから、印税率も決めておいて勝手に進められるようにしようとすることは、それほど不思議なものとは思えない。

立場の違い

はてブのコメントにも色々な見方が出ているが、認識がズレる理由は、著者側の立場と出版社側の立場での見方の違いにありそうだ。著者から見れば「印刷物の書籍は10%の印税で出したが、著作権は自分のもの。新たに電子出版でも出すなら、その“追加分”は自分の取り分にしてよいはず」と思うかもしれない。それなら、15%なんてとんでもなく低いということになる。出版社から見れば「書籍の編集もデザインも装丁も宣伝も出版社が費用を負担している。今後、印刷物から電子媒体へのシフトを進めるには、両方とも“出版権”と同じように契約が必要。電子媒体で削減できるコストはせいぜい印刷費用程度だから印税率を上げる余地は少ない」となりそうだ。であれば、15%は妥当な数値と言えるだろう。

まあ、このエントリのタイトルはともかく、(7)に書かれている通り「嫌ならサインしなければいい話」ではあると思う。その後の著者と出版社の関係がどうなるかはわからないが、もっと良い条件を出す出版社があるなら、そちらに行けばいいのだし、既存の出版社がカルテルを結んでいるなら、新しい出版社を立ち上げるビジネスチャンスでもあるはずだ。現実には、出版社の中にもいろんな編集者がいて、受け取った原稿を印刷に回すだけの人もいるかもしれないし*1、デザインやら校正やらで骨を折ってくれる編集者もいるだろう。

ただ、「サインをすると電子書籍化が止まる」という発想はどうかと思う。少なくとも講談社(あるいは大手出版社)が電子化を押しとどめるための契約だというのは陰謀論が過ぎるのではないか。もちろん“Appleamazon に流れなくなる”可能性は(私は)否定しない。出版社は、自社の利益を最大化しようとするだろうから、ガラパゴスだと言われようと、利益が最大化できる配信先を選ぶだろう。そのためには Appleamazon に流さず、第三の配信先を選ぶ可能性だってある。着うたで配信されているが、(単価の安い)iTS で配信されていない楽曲は多そうだ。でも、それで収益が増えるなら著者にとって悪い話とは言えないはずだ。どうせ検印がない今では信頼関係が基本なのだしね。まあ、電子化の手間をかけるほど売れそうにないと思ったら、電子配信されない可能性もないとは言えないが、そんな相手に電子版の契約を持ち出そうとするかは疑問ではある。

少なくとも Appleamazon は流通や小売りの代わりをしてくれるだけで、編集も装丁のデザインも校正も宣伝も(締め切りを守れという尻叩きも)してくれるわけではない。電子書籍を販売するだけのサービスが50%とか70%という数字を“印税”だと言うのなら、編集も装丁のデザインも校正も宣伝もしないと、“出版社”の代わりとは言えないのではないか。そのコストを出版社に負担させて、出来上がりの成果については“著者”とだけ分け前を配分しようというのは、あまり褒められる姿勢とは思えない。

誰が権利を集約するのか

ということで本題だが(↑前フリかよ)、電子書籍の世界を広めようというのであれば「著者は出版社に権利を渡すべきではない」というのはおかしいのではないか。何度も書いていることだが、個々の著者が反対しても出版社(協会)が推進側に回ったから和解に合意できたのが、グーグルのブック検索である*2。そもそも、アメリカでは出版社が電子化も含めた包括的な権利を契約しておくのが一般的なようだ。ある技術書について、著者に「この章の情報が他にないので、ぜひ使わせてほしい」と連絡したところ、「もちろんOKだとも、出版社に連絡を取ってくれ」と言われたことがある*3。洋書の翻訳も“著者”ではなく“出版社”に許諾を取るのが一般的だ。電子化のすう勢について「アメリカを見よ」と言うなら、今回の出版社の行為はまさにアメリカに倣っているように見える。

そして、JASRAC を見ればわかるとおり、著作権者が権利を委託して集約する仕組みがあるからこそ、ユーザーは個々の著作権者に許諾を取る必要がなくなっている。著作権者は許諾権ではなく報酬請求権を持つだけだ。故川内康範氏が「ダメだ」と言っても、森進一を含む誰もが「おふくろさん」を歌えるのは、その仕組みがあるからだ*4。ことあるごとに「電子化が進まないのは著作権者が反対するからだ」と言う人が、出版社への権利集約を否定するのは本末転倒ではないか。出版社は“金になる”なら電子化だって何だってするだろう。もちろん、出版社の代わりに自らが権利集約する仕組みを作るのだということは否定しないが、「それなりの金になる」アテがなければ権利者は集まらないだろう。

当たり前だが、すべての著者は出版社の元にひれ伏せ、と言っているのではない。自分で判断すればよいことだ。でも、著者への“投資”*5をしない会社が著者の味方なのだと思ってもらえる可能性って、外野を除けば、あまりないんじゃないだろうか。

*1:そんなケースは、あまりない気がするけれど、佐藤秀峰氏はそういうケースなのかなとは思う。

*2:いまだ成立したという話を聞かないが。

*3:まあ、そこでお金の出るような話ではなかったわけだが。

*4:オリジナルであれば。個人間の感情的な仁義は別。

*5:編集や装丁デザインや校正や宣伝にかかる費用を負担してくれるという意味で。