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2017-01-04 明けましておめでとうございます

ある日玄関を開けると2匹の三毛猫が突然現れた。

同じ様な三毛のデザインで、少しだけ黒の部分が多い方を「クロ」、

比べると少しだけ小さい方を「チビ」と呼んでかつお節などをあげ始めた。

もう20年も前の話。

それから「チビ」は一匹狼で懐くことはなかったけど、「クロ」は次第に家に入って来る様になり家に住み着いた。

それから5匹の子供を生んだけど、その子供達も全員他界してしまった。

最後まで元気でいたのが「クロ」だった。

2016年のカウントダウンも終わり、2017年を迎え初日の出ももう少しでという頃、20年一緒に暮らした「クロ」があの世に旅立った。

秋頃から少し体調を崩したものの、こんなに早くお別れがくるなんて。

12月18日から28日まで仕事で京都にいたけれど、最後の方は京都・東京を往復していた。


年間100日は家を空けているし、ひょっとしたら看取る事が出来ないのかなとも思っていたけれど、クロは頑張って待っててくれた。待ってるだけじゃなく、そのあと数日間は一生懸命お世話をさせてくれたし、一緒に新年を迎えようという僕の希望も叶えてくれた。


いたずらなど一切しない猫で、ある意味臆病で慎重な猫だったけど、家にいるのが当たり前になっていて、いなくなる事がどうしても想像出来なかった。

でもその日は容赦なくやって来た。

でも一緒に新年を迎えてくれたんだから、あんな飲まず食わずで最後まで頑張り続けたクロ以上に頑張らなきゃと思う。

当たり前で笑われるけど、クロは経済やお金に対しての価値観は皆無という姿勢で生きていた。

「不快か幸せか」だけで20年生きた。

彼女が旅立つその時を見ながら、お金では買えない音楽の価値をもっと深く勉強しようと心に決めた。

去年の今頃、僕の好きな東京新聞さんが「クロ」を取材して下さった。僕ではなく「クロ」を。

東京新聞の大元は愛知県を中心とする新聞「中日新聞」だから、実家の父親はもちろんの事、名古屋の知り合いからも多くの連絡を頂いた。

そして僕の50歳の誕生日のリサイタルの紹介も一緒に載せて頂いた。

良い想い出だな。

母親にしても叔母にしても「クロ」にしても、大事な人を亡くす事で僕は学び、そして自分の死への準備を段々するんだなと思った。

まだまだだと当然思っているけど、その日がいつ来るかわからない。

その為にも、クロと最後に過ごした3日間の様に大切に時間を過ごしたいと思う。


新年早々こんな話で大変申し訳ありませんでした。

官庁の仕事初めが今日と言う事もあり、書かせて頂きました。

クロがちょっと調子を崩し始めた2か月前からどうしてもブログの更新ができなかったなぁ。



今年もよろしくお願いいたします。

2016-10-31 晴れた海のオーケストラ

第二回目となるモーツァルトばかりでプログラミングされた「トリトン・晴れた海のオーケストラ」の公演が終了した。多くのお客様に脚を運んで頂き、この場を借りて感謝したいと思う。

ありがとうございました。


リハーサルの開始からの事を少し話すと、このオケの事が少しわかって頂けると思う。

最初にジュピターの1楽章を通した時から、ズレるとか何かう具合がある箇所は皆無だった。

だからこそ、そこからが大変なんだという気持ちがメンバーのほとんどが感じていたと思う。

それから何をするか。

当然コンサートマスターの矢部くんがリーダーシップをとり「こうしてみたらどうだろう」という事からリハーサルが進行していく。その提案に対して、ただただそれに従って行くだけのリハーサルだったら2時間もあれば終わる。

そこでこのオケのメンバーの凄い所は弦楽器だけの方向性が決まるとそこに一番合う音色であったり、タイミングであったり和声感だったりを管楽器や打楽器の方々が瞬時にして彼らのパレットの中から新たなものを提案して音にする事だ。それを体感した弦楽器の奏者達が各々のパレットからその管楽器や打楽器から生まれた響きに対して音の質を決める事も素晴らしい。

1つの提案に対してただそれだけが行われるのではなく、乾燥ワカメが水分を得るととんでもなく大きくなる様にアイディアが膨張して試行されていく所が凄い。

例えばジュピターの1楽章で矢部君が「ここでファーストバイオリンとファゴットがラのフラットを弾くから聴いて欲しい」と言うとみんなが音量を下げるのではなく、どうしたらそこのラのフラットの音が特徴的な音として浮き上がるか、その前からの音楽の持って行き方、そのラのフラットが鳴っている時の音色から音のスピード感、などが一瞬にして作られ試される。何度かそこをやるとほとんどの人が納得する形にまで作られてしまう。

このオケのメンバーの頭の中には完全にジュピターのスコアが入っていないと出来ない。

何故なら、自分の弾いている音が、和音のどの位置にあるかを知っていないとそれは出来ないからだ。


個人的な事を書きたいと思う。

第1回目の演奏会、及びトリトンでのコンサートではなかったけれど9月にベートーヴェンのピアノ協奏曲の全曲演奏会をこのオケで演奏した時のコントラバスは池松くんだった。

今回は吉田秀さん。

彼は二人とも素晴らしいコントラバス弾きであると言う事は僕が言うまでもなく、素晴らしい低音を作れる日本でもトップクラスの演奏家だ。

そして同じ低音を弾く僕にとってもいつも刺激になるし心の栄養を与えてくれる2人だ。

実を言うと、池松くんが弾く時と吉田秀さんが弾く時では僕は弾き方を完全に変えている。というより変えなきゃいけない。発音のさせ方も変えるし、音程感も変える。

具体的にどう変えるかは書かないし、それがどれだけお客様の耳に違って聴こえるかも定かではない。

でもそれがオーケストラ、特に室内オーケストラでは絶対にやらなければいけない事なんだと信じてる。

実はその二人の違いを矢部君も当然捉えていて、前回とはいろんな事を変えている事が凄く良くわかる。

その変え方が自分と全く一致していれば何も言う事はないし、多少違う事があればそれはそれで話し合う。

音楽は国境のない言語である、とどなたかがおっしゃったけれど、本当にモーツアルトの言語を目指し、そしてその言語の話し方をお互いのパレットから知恵を出し合い何も話さなくてもそのシェイプが出来上がって行く、僕にとっては理想的な事。

そして、本番では「みなさん、現地で会いましょう」と言ってステージに上がる。

現地と言うのは曲の最後の音だ。


このトリトンの演奏会、トリトンのスタッフの方々の本当にきめ細かい音楽と演奏家に最大の愛情を注いで下さる姿になんとかして応えたいとみんなが思っている。

演奏会は、スタッフ、演奏家、そしてお客様の3つが信頼し合うかどうかで結果が決まって行く。

全てのお客様が満足する演奏会などある訳はないけれど、スタッフと演奏家がこれだけ信頼し合えている現場なのだから、あとはお客様からの信用を増やしていく努力を続ける事かなと思う。


こんな演奏会に参加出来て、なんて幸せなんだろうと思う。

2016-10-18 様々な想い

シベリウス作曲のフィンランディア、交響曲1番と7番というプログラムの定期演奏会が終わって、余韻と言うのか様々な事に想いを馳せている。

実は1番も7番も演奏するのはもう20年近く前だと思う。

その時の7番の印象は「なるほどね、うーん」みたいな感じでしかなかったけど、今回演奏してなんとも胸に染み入ると言うか、今の自分の心に深く押し寄せる何かがあった。


それは年齢のせいなのか、世の中の出来事も含めた様々な事に翻弄されている最近の僕のうろたえた気持ちのせいなのかはわからないけれど、年齢のせいであるなら歳を重ねる事も悪くないなと思う。悪くないどころか、いいもんだなと。


とはいえ、昨日は僕の友達的お弟子さんが30代前半で亡くなって丁度1年になる。

そんな彼を思うと「年齢を重ねるのも良いものだ」なんて言えない。

昨年の彼が亡くなった日から、実はまだ全然立ち直れていない。

人生は長い短いではなく、どう生きたかだと思っていても、未だに悔しいし、悲しい。

彼が亡くなる直前にくれたメールを未だに読み直す。

それで励まされている。


彼を慕う高校の時のオケ仲間、中央大学のオケ仲間、そして務めていたキリンのオケ仲間が亡くなって1年が経ち、彼を忘れない為のオーケストラのコンサートを11月19日に板橋で行う。

そんな奴いないぜ。全く。

彼が中央大学のオーケストラ時代にドボルザークのチェロ協奏曲をやっているのだけれど、何故か僕がソロを弾いた。池袋の芸術劇場だった。

そんな事もあり、今回の1年のメモリアルでもドボルザークの協奏曲を弾く事になっている。


彼は去年再入院する直前に僕の家にレッスンに来ている。

「先生、新しい楽器を買ったら別人の様に上手に弾ける様になりましたからレッスンして下さい」

と電話がかかって来て。

全く上手になってもいなかったけど、ああいう気持ちが気持ちよかったし、それで来てくれる事が嬉しかった。

その後、ゆっくり経堂のイタリアンでご飯を食べていろんな話しをしたけど、本当にユーモア溢れる男だった。

「僕、発表会でソッリマのラメンタチオを弾きましたが、先生のラメンタチオより多分お客さんには印象に残る演奏だったと思います」と笑いながらその時も言ってたな。

ドボルザークの協奏曲で多少、いや、そこそこ大きなミスをしないと

「先生、いつも僕の事を『本当に下手だな』とおっしゃいますけれど、先生も口ほどにないですね」

という一言が聞けないな、と思ったりもする。

まあ、そんな事を調節出来る程の力もないから、いつも通り僕は弾くんだろうけど、それでも彼は

「先生も10年前から正直そんなに成長してないみたいですけど、大丈夫ですか?」

と言うだろうな。

そんな友達的なお弟子さんという関係はずっと僕がいなくなるまで続くと思っていたよ。


今年、君がいなくなったキリンビール本社のビール工場見学に行ったよ。

そして今度、いつもこれを聴いて手術に向かったというブラームスの1番を友人達が弾くから。

君が大笑いできるように僕も適度なドボコン弾くから。

2016-10-11 オーケストラ・アンサンブル金沢

アンサンブル金沢には学生時代苦楽を共にしたチェロの親友、早川がいる。

僕たちがまだ25、6の頃、彼はアンサンブル金沢に入団した。

その時は

「僕も金沢に遊びに行くし、また東京にも遊びに来いよ」

と言いながら寂しいと言うより、僕たちの未来が眩しかった様に思う。

その数年後、彼が地元の甲府で結婚式を挙げた時に、彼がもう金沢で生きて行く事を決意したんだと、そのときは本当に寂しく思ったし、結婚式なのに抱き合ってお互い泣いた。

でも彼とは忘れた頃に会ったり、ご飯を食べたりはしていたし、僕が金沢市に行ったときはもちろんの事、近隣の松任市や野々市に行った時は必ず会ってご飯を食べた。


今回はかなり間が空いて再会する事になった。

しかも今まで仕事でというより、久しぶりにご飯をと言う事がほとんどだったけど、幸運な事に今回アンサンブル金沢に参加する機会を得て、しかも彼と隣で弾く事になった。


僕達は学生時代本当にお金もなく、食べる物にも困った。

早川の実家からお米が届いたと言うと、僕が桃屋の「江戸むらさき」や「メンマ」を持ってそれをおかずに米をひたすら食べたり、素麺を段ボール一箱友達から貰ったときは二人でもう素麺は勘弁してくれと言うぐらい毎日素麺を食べて暮らしていた。アパートも歩いて5分程で行き来出来る距離だったし。

そんな日々も今となっては本当に楽しい時間だったと思う。

夜の22時まで学校で練習したら彼の家に米を食べに行き、その頃ブームになったファミコンの野球ゲームをしたりした。彼に結局一度も勝てなかったな。


そんな日々を一緒にオーケストラを弾きながら思い出していたな。


アンサンブル金沢は外国のメンバーが多い。

だからと言う訳ではないけれど、ヨーロッパを感じる語法をハーモニーの進行や響きから感じる事が多かった。そんな中でいつもニコニコして日本人からも外国のメンバーからも慕われている早川を見て、嬉しかったし、誇りに思ったよ。

学生時代は夢を語ると言うより、目の前にある課題や苦労を乗り越える事で必死だった。

お互い音楽家になれるのかもわからず、ひたすら練習していた時代は今から思えばかけがえもない毎日だった。

それがお互い違うオーケストラだけど音楽をしていて、話すと「そういえば学生時代はこんな事を言ってたよな」と逆に思い出し、一応夢は持っていたんだなと思い出す。


ブルガリア人のコントラバスの首席女史に「あなたの首席としての仕事は私を幸せにしてくれた。コントラバスをいつも意識してくれるあなたの仕事に感謝する」と言われたけど、お世辞だとしても嬉しい。

これは僕が最近ようやく行き着いたコントラバスとの融合する方法を彼女が感じてくれたからだ。

それが正しいのかどうかはわからない。だから音楽は深い。



僕にとっては幸せな金沢への旅だった。早川はもちろんの事、日本センチュリーから金沢に移ったスタッフのTさんや一緒に仕事ができた皆さんにも感謝したい。

仕事とは関係ないけれど、金沢の食文化の次元の高さは素晴らしかった。

2016-10-06 セントラル愛知交響楽団

今年はある意味オーケストラの旅が続いている。

6月に名古屋フィルと合同演奏会があったり、夏のサイトウキネンから京響の創立60周年記念ツアー、神奈川フィル、晴れた海のオーケストラ、そしてこの一週間はセントラル愛知のドボルザークのスターバト・マーテルの定期演奏会から仙台でのセントラル愛知とバンコク交響楽団の合同演奏と昨夜のセントラル愛知の単独の東京公演まで、本当にあらゆる音楽仲間、オーケストラ仲間と話したし多くの事を教えられている。



明日からはアンサンブル金沢。



セントラル愛知には年間そんなに沢山お手伝いに行っている訳ではないけれど、生まれ故郷のオーケストラで、僕の高校が創立10周年の時に高校に呼ばれてドボルザークのコンチェルトの1楽章を生徒さんの前で弾いた時にセントラル愛知と共演したのが最初の出会い。当時は確か「名古屋シティフィル」と言ってたと思うけれど、どれくらい前かな?名称を変更した。



僕と同年代の友人であった女性がコンサートマスターの一人としていたのですが、本当に若くしてこの世を去った事は本当に辛い事だった。

僕はどこのオーケストラに行っても「このオケはこうだから」と言って自分の仕事やスタイルは一切変えない。

でも、いつでも、どんな演奏会の後でも

(僕は何か1つでも役に立っているのかな?)

と思いながらホールを後にする。

昨日だってそう。

自分のあの時に出来る事は最大限やったつもりでいても、その判断が正しかったのか間違っていたのか、ずっと考え込んでしまう。

お酒を飲まないと言う事も大きいと思うけれど、コンサート後は実に沈んだ気分になって寝る事になるから身体に良くないな。そして大体眠れなくて大変な事になる。

このオーケストラの旅は身体に相当な負担がかかると言う事がわかった。



でもどこのオーケストラも必死なんだよね。

オーケストラを取り巻く環境は決して良い方向には向かっていない気がする。

でも、オーケストラが100年後にはこの世から消えるのでは?とヨーロッパですら言われている中で、なんとか後世に伝える仕事として頑張りたいな。


生まれ故郷にいくつもオーケストラはあるけど、その1つに参加して故郷に何か貢献出来たらとはいつも思う。

だけど、役に立っているのか?との問いの繰り返し。

でもどこのオケにも有り難い素晴らしき仲間がいるから。