徐州史

ちょっと徐州の動向について下邳陳氏を中心に推測と捏造を交えておさらいしてみる。



まず、袁術伝によると、陳珪と袁術は家族ぐるみで交流する間柄。袁術とはもちろん、袁紹曹操とも親交があったと思われる。そうした縁から、袁術は陳氏本家の陳瑀を揚州刺史に推挙する。陳珪が沛相になった時期は分からないが、おそらく同時期、袁術の推挙によるものなんじゃないかという気がする。


ところが、どうしたわけか陳瑀は袁術に反旗をひるがえし、けっきょく袁術に敗れて揚州をさり、故郷の下邳に帰っている。袁術が陳珪の息子を人質にとり、かれを味方に引きいれようとしたのもこのころだろう。しかし陳珪は「曹操こそが真の英雄だから」と断っている。とすると、陳瑀のとつぜんの裏切りも、曹操陣営への鞍替えを意識していたと見るべきだろう。そもそも袁術が揚州へ流れてきたのも、曹操に敗れたからであった。

陳珪の息子は、袁術の人質にとられたとき下邳にいた。このことは当時、袁術が下邳に影響力を持っていたことを示している。徐州牧の陶謙袁術に協力していたのだろう。この事件により陶謙と、徐州の有力者である下邳陳氏との関係が決裂する。


そこへ曹操の徐州侵攻である。曹操が沛国を侵攻ルートに選んだのは、陳珪の手引きによるものだろう。陶謙は辛うじて曹操の侵入を防ぎきったものの、すでに徐州豪族の支持を失っており、政権としては死に体であった。徐州豪族たちはそこで陶謙を脅迫し、その地位を劉備に譲らせた。陳登はこのとき袁術の傲慢さをののしり、徐州の主が代替わりしたことを袁紹に報告している。

劉備はもともと袁術系の公孫瓚の部将で、陶謙に救援を請われて予州刺史に収まり、小沛に駐留することになった。沛相の陳珪が陶謙のもとを去ったので、西の備えが必要になったからである。しかし徐州本国で政変が起きると、その新君主として劉備に白羽の矢がたった。のちに曹操の推挙により鎮東将軍に昇進し、以来、劉備袁紹系の群雄として行動することになる。


この徐州事件に危機感を覚えたのが、もちろん袁術である。劉備は徐州牧の地位についてまだ日が浅く、陳登らをのぞけば、まだ充分な支持をえていない。袁術はさっそく劉備追討の軍を起こした。袁術がまず目を付けたのが、当時、劉備の客将となっていた呂布であった。ただちに呂布を買収し、劉備の本拠地である下邳を占拠させた。このとき陶謙遺臣の曹豹が呂布に呼応したのは当然のことであった。劉備広陵郡の海西に逃れたのは、その地域に影響力をもつ陳登の庇護を受けるためだろう。ここは陳氏の淮浦、麋氏の胊の中間地点である。

呂布は新たな徐州刺史に就任したものの、いざその地位についてみると、非常に困ったことに、徐州豪族の協力を抜きにしては州政をまったく実行することができないことに気付いた。そこで呂布劉備や陳登と和解し、かれらの協力のもと徐州を経営することにした。つまり呂布袁術系の群雄としてその地位をつかみながら、実際には袁紹系の豪族とも妥協せざるをえなかったのである。

呂布のこうした姿勢に不満を覚えたのが、熱烈な反曹操派の部将、陳宮であった。かれはただちに袁術と連絡をとり、同僚の郝萌とともに呂布暗殺の計画を練った。しかしこの企みは失敗におわり、首謀者として郝萌だけが処刑された。呂布軍の主力を陳宮一派が構成しており、かれを失うわけにいかなかったからである。

袁術は、呂布が派閥争いにより政権運営に苦しんでいることを知り、そこで劉備を小沛に出していることに目を付け、紀霊に劉備を攻撃させた。劉備さえ葬れば、徐州内部の袁紹派の勢いを削ぐことができる、呂布も陣営内の意思統一を望んでいるだろう、と考えた。しかし袁術の観測に反し、呂布は双方に対して曖昧な態度をとりつづけ、決着をうやむやにしてしまった。


袁術は帝位僭称を企てており、それを呂布に告げて味方に引きいれようとした。ところが呂布は陳珪の薦めにしたがい、袁術の使者を曹操のもとに送りとばした。袁術は帝位についたあと、呂布の裏切りに激怒して張勲、韓暹、楊奉らに呂布を討たせた。呂布は陳珪の計略を採用し、韓暹と楊奉を買収して張勲を大破した。韓暹と楊奉は、略奪を働いたかどで劉備に殺された。

袁術の反逆が明らかとなり、呂布、陳瑀、孫策らに詔勅がくだされ、ともに協力して袁術を討つことになった。ところが、陳瑀が孫策の後方を攪乱しようとしたため、孫策は、部下の呂範に命じて広陵郡の海西まで進軍させ、陳瑀を撃破した。陳瑀は以後、歴史の表舞台から姿を消してしまう。そのころ、呂布は左将軍、陳登は広陵太守に任命されている。


呂布が河内の馬を買おうとしたとき、劉備がそれを横取りした。呂布がそこで高順、張遼らに命じて劉備を討伐させると、劉備は逃走して曹操に身をよせた。曹操劉備のほうに味方し、呂布を討伐すべく遠征軍を起こした。陳登も呂布包囲網に参加した。呂布は陳登の弟を人質にとったが、部下の張弘がそれを連れさってしまう。呂布の処刑後、劉備はその功績により呂布の官職をついで左将軍となり、陳登は伏波将軍となった。

劉備袁術を滅ぼすと、曹操を裏切って徐州を占拠した。そして自分は予州牧として小沛に駐屯し、関羽を徐州刺史として下邳を守らせた。しかし、劉備曹操に敗れて徐州を立ちさり、もう二度とこの地を踏むことはなかった。この間、劉備と陳登との関係はよく分からない。

広陵郡はもともと袁術の影響が及んでいたが、袁術系の部将として頭角を現していた孫策が、袁術に代わって侵蝕しはじめていた。陳登は匡琦城に立てこもり、孫策軍の侵攻を防いだ。陳登はその功績が認められて東城太守に昇進するが、ほどなく病死したため、東城太守としての業績は記録が残されていない。



ポイント

  1. 徐州の歴史は下邳陳氏の動向を抜きには語れない。徐州史≒陳氏史。
  2. 呂布袁術曹操のあいだで揺れ動いたのは、部下の派閥争いを反映している。
  3. 呂布が死んだあと主要な顔ぶれがあらかた退場してしまい、とっても寂しげな感じになる。