字は公路。後漢末期(広義の三国時代)の群雄。 袁紹の従弟(弟だったという説もある)。 反董卓連合軍では袁紹と共に挙兵したが、後に対立し覇をかけて争った。その後皇帝を僭称した(国号は仲家)が、奢侈放蕩な生活を好み重税を課した為人心を失う。後に曹操に攻められ逃亡の途上寿春付近で病没した。息子の袁燿はその後呉に仕官している。
私は袁術のファンということではないのだがここのところ袁術絡みの記事を多く書いた。袁術自体は記述が少なくその謎が多いながらも、袁術の周縁(曹操、劉備、孫策、呂布)には考察の情報が豊富であるということも理由だろう。 190年代の袁紹陣営など公孫瓚や黒山賊、張楊から考察しなければいけない。それに比べればずっと楽だ。 それでも敢えて避けているテーマはある。袁術の揚州入り前の揚州刺史を巡る疑問、揚州入りの際の戦闘、孫賁の豫州刺史任命の問題など、書こうかと思いつつも放置している。 だが、ここのところの袁術絡みの記事のついでに頭の中で膨らんできた想像についてはメモをまとめておきたい。それは袁術の衰亡に関して…
前回、二張(張昭、張紘)の孫策への仕官時期を考えた。似たところで気になるのは魯粛である。魯粛は孫策に仕えたのか、そもそも出会ったことがあるのか、ということがよく分からなくなる(私が)。また、その頃の魯粛を考えようとした時、整理しなくてはならないのは劉曄、鄭宝のことである。 まず魯粛伝を見ていく。魯粛は「臨淮東城人」と書かれる。これは後代の区分であり、後漢末においては下邳國の東城県の人、となるはずだ。ここには少し問題が残る。というのも、もともと下邳國の地は徐州臨淮郡であり、永平十五年(西暦72年)に改称され、明帝の子の劉衍が下邳王となった。79年に下邳國は拡大する。原文はこうである。>臨淮郡及九…
孫策と丹陽郡の関連性を整理しておきたい。この際、「丹陽西部」についても注目が必要となる。 特に調べ直さず、丹陽に関する自分の認識を書いていくがまず地図を置いておこう。 丹陽は、丹楊とも書かれることが多い。レアケースでは、丹揚と書かれていることもある。いろいろ調べては見たが、どうやら「正しくは丹陽」とのことらしい。しかし丹楊と書かれることが多いのは何か理由があるのか、単なる転写ミスなのか史家の言及を確認するまでには至らなかった。 なお、三国志関連では「もうひとつの丹陽」が存在する。晋の益州方面軍(王濬、唐彬)が呉に侵攻するとき、最初に攻略したのが「丹楊城」であり、呉陣営の「丹楊監」の盛紀という人…
華歆について考えたいことは2つある。1つ目は、華歆の人物評価である。魏朝の初代三公となった華歆をどう評価したらよいのか。私の中では結論が出ている。しかしいつ書くかは未定。結論が出ているものについてはむしろ書くことが億劫になってしまっている。 2つ目は、華歆の豫章太守就任に関する疑問である。その就任がいつなのか、任命したのは誰なのか、それを今回考えていく。 (華歆伝の前半要約)華歆は青州平原郡高唐県の人で早くから名が知られた。孝廉に推挙され、郎中に任命されたが病を理由に職を去った。霊帝崩御後、何進に召されて尚書郎となった。董卓による長安への西遷に従うが、藍田を経て南陽へと逃走し、袁術に合流した。…
前回、196年頃の陳珪について考えた。それに引き続いて、翌年の徐州の情勢を整理しておく。自分の分かっていること、分かっていないことの整理である。 武帝紀はこのあたりの情報が少ないため、通鑑をもとに見ていく。通鑑での時系列(記載順)は下記である。 196年:・袁術が徐州に侵攻し、劉備が防戦する。・呂布が下邳を奪い、劉備は袁術に敗北する・劉備が呂布に降伏する。・呂布は袁術が約束の軍糧を提供しない事に怒る・呂布が劉備を豫州刺史とし、小沛に駐屯させる・呂布配下の郝萌が反乱する・曹操が天子を許都に迎える・曹操に敗北した楊奉(と韓暹)が袁術のもとへ走る。・袁術は呂布を恐れ、婚姻を申し出る。呂布は承諾する。…
三国志を読んでいて、さっぱり分からない記述にはよく出会う。その場合はそれをノイズとしていったん無視してしまうか、あるいは誤謬の混入を疑い考察するか。私にとって、「袁術が陳珪の子を人質にした」という記述も、またそのうちのひとつであった。 それは三国志の袁術伝に出てくる。記述の順番としては以下の通りである。 ・袁術が刺史を殺害して揚州を乗っ取る・長安の李傕政権により左將軍に任命される・長安からの使者であった太傅の馬日磾を拘留する・沛相の陳珪に協力を要請する・袁術が陳珪の子(陳應)を人質にする・陳珪が拒絶する・195年冬、天子が東遷の道中で敗北する・袁術が皇帝即位の是非を部下に問う この袁術と陳珪の…
195年、呂布を破り兗州を平定した曹操は年末に豫州の陳国へと転進。袁術が置いた陳相の袁嗣を降伏させた(196年1月)。 195年の時点で陳王国は滅んでいた(197年ではなく)、というのが前回の記事での推測である。 このあとの曹操の動向である。 三国志魏書武帝紀:建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,眾各數萬,初應袁術,又附孫堅。二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其眾皆降。天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。秋七月,楊奉、韓暹以天子…
後漢末の豫州情勢は何かと不明点が多いが、気になるのは陳国王の劉寵のことである。 陳国の始祖は後漢の第二代皇帝の明帝の子の劉羨である。劉寵は第11代の桓帝(132-168)と同じ世代にあたる。曾祖父同士が兄弟である。第12代の霊帝(156-189)からは親の世代にあたる。 劉寵の即位年は不明だが、173年に謀反の疑いを掛けられている。それ以前の即位ということになる。劉寵は弓の名手として有名で、強弩数千張を有しており、黄巾の乱の際も陳国人は敢えて反乱しようとしなかった。董卓が専横し、義兵が起こると、劉寵は陽夏県に駐屯し、輔漢大將軍を自称した。国相の駱俊の政治は威恩があり、鄰郡の人々も多くこれに帰伏…
許褚は譙県の人である。※譙県は後漢の頃は沛國に所属している。後漢末、許褚は若者と一族数千家を集め、壁(=砦)を築いて賊を防いだ。汝南葛陂賊萬餘人が砦を攻めると許褚の軍勢は少なかったが力の限り防戦した。軍糧が不足したため、偽って賊と講和し、その際に許褚が怪力を見せつけると、賊は逃走した。淮、汝、陳、梁の間の一帯で許褚の武名が轟いた。曹操が淮、汝の一帯を巡行した際、これに帰伏した。 ここで考えたいのは、許褚の砦はいつ、どこにあったか、という点だ。 私はそれこそ、反董卓の義兵が挙がった頃に世の乱れるのを警戒した許褚のような者たちが各地に砦を立てて自存自衛を目指したのだと長いこと考えていた。 たとえば…
袁術は南陽を捨てて兗州に侵入したが曹操に敗北すると逃走に逃走を重ねて淮南まで逃げてそこに落ち着いた。 敗北後に淮南を目指した決断こそ考察すべき対象なのだろうが今日はその前段、なぜ南陽を捨てたのか、ということを考える。 もちろん「実は南陽を捨ててはいなかった」という可能性もないではないがそれは今回はいったん無視する。いずれ考えてみたい。 まず、地図(193年1月頃)を置いておく。 武帝紀:四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘。 劉表に「糧道を断たれた」ために、袁術は陳留に侵入したというのである。 一方、袁術伝では侵攻の理由は書かれない。ただし、南陽郡の袁術の政治が、欲望をほし…
かっこいい表紙。張飛はすっごく絵になるんよな。 ネタバレしますのでご注意を。 この巻は比較的ほっこり巻。曹操の配下である二将軍がオマヌケで笑って読んでいられるのである。ひきかえ関羽がめちゃくちゃ二枚目に描かれている。横山先生、関羽をどうしてここまで美形にしたんだろうか。(わけのわからない疑問) 曹操は死んだ袁術の供が持っていた玉璽を手に入れて大いに喜ぶ。が、一方突然脅威を感じ出した玄徳に貸した五万の兵がそのまま徐州に残されているという報告を受けて慌てだす。 この上は徐州城の留守番をさせていた車胄に玄徳討伐を命じるしかない。 車胄はその玄徳討伐を(こともあろうに)陳登に命じた。 陳父子は今も玄徳…
『三国志』このあたりからやっと劉備玄徳が本格的に活躍し始める、と言っていいのではないか。 通常のマンガの構成としてはとんでもない。 とはいえここからの玄徳の活躍はそれを越えるとんでもなさだ。どうしてそういう構成なのかはこの巻を読めばわかるといえよう。 ネタバレしまうのでご注意を。 曹操と玄徳が馬車に隣り合って座っている貴重なショット。 ふたりは皇帝に謁見する。その際皇帝は劉備が自分の一族であると知り「玄徳よ。これからも朕の力になってくれ」と親しく話しかけられた。 曹操の側近は玄徳が力を持っていくのではないかと危ぶむが曹操は意に介さずそれよりも狩りを催して人々の心を計りたいと画策する。 狩りの中…
女子がちょっぴりだけとはいえ描かれている珍しい横山『三国志』表紙絵。 呂布とその娘だけど。呂布の危機を描いた名場面(?)とも言える。 ネタバレしますのでご注意を。 呂布軍に襲われ玄徳は逃げ延びたが行方知れず、小沛城は奪われてしまった。 ひとり逃走し彷徨う玄徳は近くの村の男から「小沛の玄徳様ではございませぬか」と問われる。男は続けて「玄徳様は民百姓にとても思いやりがございました。こんな時こそふだんの御恩返しがしたいと村の者も語っております」というのだ。 しかし玄徳は自分はそうではないと否定した。 男は自分の持つ食べ物を玄徳に渡す。玄徳はありがたく受け取り立ち去った。 それからも玄徳が行く先々に食…
『三国志』再読なんでざっとやろうと思っているのにどうしても一巻ペースになってしまうのですよ。どうしても書きたいことがあるのだな。 ネタバレしますのでご注意を。 冒頭、あの有名な曹操の「この先に梅の実があるぞ」事件が描かれる。 張繍と荊州の劉表が組んで怪しい気配があると聞き曹操は南陽へと向かう。 季節は5月から6月。最も暑い季節なのだ。 河南の伏牛山脈の道は険しく兵士たちは倒れ水を求めた。 そんな兵士たちに曹操は「皆の者、もう少しのしんぼうだ。この山を越えると梅の林がある」と呼びかける。兵士たちは「梅の実が食える」と言い合った。すっぱい梅の味を想像し口の中に唾をわかせいつしか喉の渇きを忘れたのだ…
物語が曹操パートに入る。 なにしろずーっと曹操様を観ていられるのですぞ。眼福眼福。曹操は小柄だと言う史実というか記録があるので横山先生も意識しておられるようだけど、どうしても好みのためか(氏は好きなキャラをすらりと描きがち)大きめに描かれているように思えます。とにかく際立つ美形だというのは確か。私は壮年期以降の曹操デザインもとても好きです。 ネタバレしますのでご注意を。 曹操と彼が守護する帝は許昌にいる。その許昌を李傕・郭汜の敗残兵らが狙っていると聞き曹操は討伐軍を考えたが呂布の存在が出陣を迷わせる。都を空にすれば呂布は確実に略奪に動くからだ。 そのため曹操は呂布に平東将軍の称号を与えて忠誠を…
「太史慈がかっこいい」と散々言っていたが、なぜあんなにも惹かれるのだろうか? もちろん役者さんがよかったというのもある。どの辺がいいのか。 ひっそりとたたずむ姿に、太史慈の孤独、故郷を喪失した寄る辺無さがありありと感じられたからだと思う。 冗長になるが、太史慈の略歴を追ってみよう。 身長七尺七寸(180㎝弱)髭が立派で、腕が長く弓に巧みだった。 劇中では、すらりとした姿がマッチしていた。弓属性だが、武力はあるのであの切れ味抜群な殺陣は方向性としては合っている。 青州東莱郡という北方のひとである。また学問を好んだとある。若くして郡の役人として勤めている。この郡役人のとき、21歳のころ事件は起こる…
孫策。小覇王と呼ばれるだけあって頼もしい。周瑜との関係も描かれて居たらなあと思ったりもする。 ネタバレしますのでご注意を。 冒頭、孫策と太史慈の一騎打ちで互いに相手への敬意が生じたふたりが主従になっていくまでが描かれる。 孫策は劉繇を討たんとし太史慈は劉繇の家来ではあったがその劉繇の了見の狭さに失望してしまう。 さらに太史慈は劉繇が戦意を失って逃げ落ちてからも古城に立てこもって孫策軍と戦い続けた。孫策は太史慈を罠にはめ生け捕る。「早く首を刎ねろ」と言い続ける太史慈を説得し孫策は彼を部下とした。 太史慈は「三日の自由をくだされば優れた大将と兵を三千集めて精兵を作ってみせましょう」と言い出し孫権は…
さて、今回紹介するのは周尚じゃな。彼は周瑜の叔父とあることから、周瑜の父の弟、ということになるかのう。ちなみに周尚の世代に恐らく三公になった周忠も含まれていると思うんじゃが、周尚とどこで繋がりがあったか、詳細な関係ははっきりしないんじゃ。
張飛よ。しかしこの時が伏線ともなるのだ。 悲しいなあ。 ネタバレしますのでご注意を。 この巻もとても辛い巻だ(おおよそどれもツライ巻)が演出としてとてもうまい。 「酒を飲むんじゃないぞ」と玄徳に釘を刺されて留守番を任されたのに(しかも自分からすると言い出したヤツ)あっという間に酒を飲み始めしかも酔っ払って文官をぶん殴りそのために呂布に告げ口されて玄徳の留守に張飛達城兵が酔いつぶれているとばらされてしまう。 ここで面白いのはその呂布も「玄徳は俺を優しく迎え入れてくれた男だ」と言いながらもそれを裏切り城と領土を奪ってしまおうと決意してしまうというふたりの豪傑の心の弱さを並べて描いているところだろう…
呂布。横山三国志の中で一番女に弱い豪傑。 女に弱いと言うべきなのか、女に優しいと言うべきなのか。 女にとことん冷たい玄徳とどっちがいいのか。 ネタバレしますのでご注意を。 ほんとはこんなデザインじゃないよね???すごくかっこいい孫堅軍船 孫堅軍を待ち受けるのは荊州の(見なかったことにしておこうの)劉表。まずはその第一戦の大将江夏城の城主黄祖であった。 孫堅の軍船を発見して合図を送る。 というので気づいたけど、ここまで横山三国志で有名な「ジャーンジャーン」はあったんだっけ。(なかったような。あっても控えめだったのか) この合図を機に大将黄祖は孫堅軍船を迎え撃つ。 というので思い出したけどある頃か…
読み返していて、こんなに面白い作品を読めることが幸福だとしみじみ感慨に震えています。これを読まずに死ななくてほんとうによかった。 ネタバレしますのでご注意を。 という奇妙なる感動を覚えているけど曹操様の一大事だ。 袁紹の言葉を退け己の軍だけで董卓を追い詰め李儒の策略にはまってしまう。 曹操は何度も死の際まで行くけどこの時どうして死んでしまわなかったのか(どういう感想か)不思議なほどだ。 死の淵にまで追い詰められると誰かが助けにくる。不思議な男でもある。 「もはやこれまでか」と思い詰めると「殿!早まってはなりませぬ。ここは拙者にお任せくだされ」と家来が我が身を犠牲にする。 「殿!ご無事で」と祈っ…
長期間休止してしまい、大変申し訳ございません。 生存しています。今後少しずつ頻度を上げて参ります。 久々に投じる記事は「覚えやすい四字熟語」について。 幾つかまとめてみます。 使う機会の無い言葉なんて、覚える意味がないと言われるかもしれませんが、確かにそれはその通りかもしれません。 しかし、そのような言葉はかつて作られ、著名な書物の中で使われ、今もなお存在しています。 その事実があることを鑑みると、必ずしも現代に通じるとは言い難くも、人生をよりよく生きるためのヒントが隠されているのではないでしょうか。 完全に覚えられなくとも、「聞いた記憶がある」程度まで持っていければ充分です。 まあ見てってく…
袁術のおうちにお邪魔して、出されたミカンをこっそり袂に入れて持ち帰ろうとした陸績。別れの挨拶するときにミカンが転がり出て袁術に咎められました。母が好きなのでお土産にしようと思って、と陸績が言い訳をしたら袁術は「親孝行な子だ」と感心します。 中央の男性が袁術だと思われます。袁術の左側にももう一人誰か座っているようですね。女性かしら。 ミカンはここですね。 二十四孝諺解(1686) ARC古典籍ポータルデータベースより ミカンに彩色。