字は公路。後漢末期(広義の三国時代)の群雄。 袁紹の従弟(弟だったという説もある)。 反董卓連合軍では袁紹と共に挙兵したが、後に対立し覇をかけて争った。その後皇帝を僭称した(国号は仲家)が、奢侈放蕩な生活を好み重税を課した為人心を失う。後に曹操に攻められ逃亡の途上寿春付近で病没した。息子の袁燿はその後呉に仕官している。
【袁術詳細解説】皇帝を僭称した野心家の末路 はじめに 袁術(えんじゅつ)は、東漢末期の群雄の一人であり、袁紹の異母弟として知られています。彼は自身の家系を誇り、漢王朝の正統な後継者としての自負を持っていましたが、その野心は時期尚早でした。特に、漢の皇帝を名乗ったことが周囲の反感を買い、最終的に孤立し滅亡へと向かいました。本記事では、袁術の生い立ち、権力掌握の過程、皇帝僭称、そしてその最期までを詳しく解説します。 1. 生い立ちと背景 名門袁氏の血筋袁術は、後漢時代の名門・汝南袁氏に生まれました。彼の家系は四代にわたり高官を輩出し、東漢の政治の中枢に関わってきたため、袁術も幼いころから権力の中で…
Wikipedia の三国志関連の記事を読んで英語・英単語の勉強をしていきます。前回の公孫瓚に引き続き第20回は「孫策」です。 en.wikipedia.org 孫策(Sun Ce,孫伯符,Sun Bofu,175年-200年5月5日) Born in 175, Sun Ce was the eldest son of Sun Jian... In 190, a year after Emperor Ling died, the warlord Dong Zhuo usurped power, placing in the throne the puppet Emperor Xian. Reg…
Wikipedia の三国志関連の記事を読んで英語・英単語の勉強をしていきます。第15回に引き続き第16回は「呂布」中です。呂布が劉備のいる徐州に逃げ込んでからの話です。 en.wikipedia.org Lü Bu treated Liu Bei very respectfully when he first met him, and he said, "You and I are both from the northern borders. When I saw the Guandong Coalition rising up against Dong Zhuo, I already w…
真・三國無双8の呂布(cv稲田徹) Wikipedia の三国志関連の記事を読んで英語・英単語の勉強をしていきます。「陶謙」に続き第15回は「呂布」です。 en.wikipedia.org 呂布(Lü Bu,呂奉先,Lü Fengxian,?年-199年2月7日) No descriptions of Lü Bu's physical appearance exist in historical records. It was noted that he specialized in archery and horse-riding, and possessed great physical …
私は袁術のファンということではないのだがここのところ袁術絡みの記事を多く書いた。袁術自体は記述が少なくその謎が多いながらも、袁術の周縁(曹操、劉備、孫策、呂布)には考察の情報が豊富であるということも理由だろう。 190年代の袁紹陣営など公孫瓚や黒山賊、張楊から考察しなければいけない。それに比べればずっと楽だ。 それでも敢えて避けているテーマはある。袁術の揚州入り前の揚州刺史を巡る疑問、揚州入りの際の戦闘、孫賁の豫州刺史任命の問題など、書こうかと思いつつも放置している。 だが、ここのところの袁術絡みの記事のついでに頭の中で膨らんできた想像についてはメモをまとめておきたい。それは袁術の衰亡に関して…
前回、二張(張昭、張紘)の孫策への仕官時期を考えた。似たところで気になるのは魯粛である。魯粛は孫策に仕えたのか、そもそも出会ったことがあるのか、ということがよく分からなくなる(私が)。また、その頃の魯粛を考えようとした時、整理しなくてはならないのは劉曄、鄭宝のことである。 まず魯粛伝を見ていく。魯粛は「臨淮東城人」と書かれる。これは後代の区分であり、後漢末においては下邳國の東城県の人、となるはずだ。ここには少し問題が残る。というのも、もともと下邳國の地は徐州臨淮郡であり、永平十五年(西暦72年)に改称され、明帝の子の劉衍が下邳王となった。79年に下邳國は拡大する。原文はこうである。>臨淮郡及九…
孫策と丹陽郡の関連性を整理しておきたい。この際、「丹陽西部」についても注目が必要となる。 特に調べ直さず、丹陽に関する自分の認識を書いていくがまず地図を置いておこう。 丹陽は、丹楊とも書かれることが多い。レアケースでは、丹揚と書かれていることもある。いろいろ調べては見たが、どうやら「正しくは丹陽」とのことらしい。しかし丹楊と書かれることが多いのは何か理由があるのか、単なる転写ミスなのか史家の言及を確認するまでには至らなかった。 なお、三国志関連では「もうひとつの丹陽」が存在する。晋の益州方面軍(王濬、唐彬)が呉に侵攻するとき、最初に攻略したのが「丹楊城」であり、呉陣営の「丹楊監」の盛紀という人…
華歆について考えたいことは2つある。1つ目は、華歆の人物評価である。魏朝の初代三公となった華歆をどう評価したらよいのか。私の中では結論が出ている。しかしいつ書くかは未定。結論が出ているものについてはむしろ書くことが億劫になってしまっている。 2つ目は、華歆の豫章太守就任に関する疑問である。その就任がいつなのか、任命したのは誰なのか、それを今回考えていく。 (華歆伝の前半要約)華歆は青州平原郡高唐県の人で早くから名が知られた。孝廉に推挙され、郎中に任命されたが病を理由に職を去った。霊帝崩御後、何進に召されて尚書郎となった。董卓による長安への西遷に従うが、藍田を経て南陽へと逃走し、袁術に合流した。…
前回、196年頃の陳珪について考えた。それに引き続いて、翌年の徐州の情勢を整理しておく。自分の分かっていること、分かっていないことの整理である。 武帝紀はこのあたりの情報が少ないため、通鑑をもとに見ていく。通鑑での時系列(記載順)は下記である。 196年:・袁術が徐州に侵攻し、劉備が防戦する。・呂布が下邳を奪い、劉備は袁術に敗北する・劉備が呂布に降伏する。・呂布は袁術が約束の軍糧を提供しない事に怒る・呂布が劉備を豫州刺史とし、小沛に駐屯させる・呂布配下の郝萌が反乱する・曹操が天子を許都に迎える・曹操に敗北した楊奉(と韓暹)が袁術のもとへ走る。・袁術は呂布を恐れ、婚姻を申し出る。呂布は承諾する。…
三国志を読んでいて、さっぱり分からない記述にはよく出会う。その場合はそれをノイズとしていったん無視してしまうか、あるいは誤謬の混入を疑い考察するか。私にとって、「袁術が陳珪の子を人質にした」という記述も、またそのうちのひとつであった。 それは三国志の袁術伝に出てくる。記述の順番としては以下の通りである。 ・袁術が刺史を殺害して揚州を乗っ取る・長安の李傕政権により左將軍に任命される・長安からの使者であった太傅の馬日磾を拘留する・沛相の陳珪に協力を要請する・袁術が陳珪の子(陳應)を人質にする・陳珪が拒絶する・195年冬、天子が東遷の道中で敗北する・袁術が皇帝即位の是非を部下に問う この袁術と陳珪の…