中国後漢の人物(生没年不詳)。常山郡真定県の人。子に張方。孫に張融。曾孫に張林。『三国志』に伝がある。
元々の姓は褚であった。
黄巾の乱に乗じて盗賊団を結成し、各地で略奪を繰り返すうちに軍勢は1万人以上となった。同じく挙兵した博陵の張牛角の軍団と合流し、張牛角を首領に押し立てた。張牛角が致命傷を受けて臨終のときに張燕が後継者として指名された。
張燕は武勇に優れており、飛燕と渾名されるほどであった。首領の座を引き継ぐと活動範囲を広げ、軍勢は10万人規模となり、黒山賊と号した。後漢の霊帝は張燕らを討伐することができず、被害は河北一帯に広がった。
後に張燕は漢王朝に降伏し、平南中郎将に任命されたが、独自勢力を保った。
董卓の手により漢王朝の都が洛陽から長安に移されると、各地の諸侯が義兵を上げ、張燕も各地の豪傑と手を結ぶようになった。
袁紹と公孫瓚が争うと公孫瓚に味方して袁紹と戦ったが敗れ、勢力は弱体化した。
曹操が袁紹を破って河北に進出すると曹操に降伏し、平南将軍に任命され、後に軍勢を解散して出頭し、列侯に封じられた。