よくある相談787・:・・(重症)筋無力症

murakoujin2008-12-09

午前三時


まっくらやみ 風も無い


音の無いシンフォニー


生命の織り成す気配


太陽は今日も元気良く


昇るだろう


太陽が落ちてきたら


仲良くしよう


肉体が木っ端微塵になったら


別の世界で友達を作ろう


変化が常


しかし永遠のイノチ


アーオーウーエーイー

(重症)筋無力症について

●眼の回りの筋肉
まぶたが落ちてくる、ものが二重に見える、斜視シャンプーが目にしみる、目が疲れる。
●口の周りの筋肉
ものがかみにくい、のみこみにくい、つばがあふれる、食べたり飲んだりするとむせる、しゃべりにくい、鼻声になる。
●顔の筋肉
表情がうまくつくれない、笑おうとしても怒ったような顔になる。
●手足の筋肉
持ったものを落す、字が書けない、立てない、歩けない、階段が昇れない、洗濯ものがほせない、おふろで頭が洗えない。
●呼吸筋
息がしにくい。

心臓や腸の筋肉は侵されません。・・・・・・・・・心筋はダメ

重症筋無力症の人の筋肉が弱くなるのは、体の中に抗アセチルコリンリセプターという抗体ができ、これが筋肉の膜のアセチルコリンリセプターに結合するためです。

アセチルコリンリセプターは、神経からの刺激を筋肉の細胞に伝える役割をしているので、重症筋無力症の人は神経からの刺激が伝わりにくくなっているのです。

我々の体は何百万もの抗体を作る能力があり、たとえばカゼをひいたときには、ウイルスにたいする抗体を作ってカゼをなおすのに使っています。

重症筋無力症の場合は、なぜかわからないけれども自分の体の一部であるアセチルコリンリセプターに対する抗体ができ、これが病気を起こしているのです。つまり、自分で自分を病気にしているわけです。

この、自分の体にたいする抗体による病気を自己免疫疾患といい、重症筋無力症もそのひとつです。

アセチルコリンリセプター抗体陰性の重症筋無力症もある。

たとえばプレドニンを10錠飲んで症状が全くないとします。

しかしこの状態だと症状をコントロールするのに必要なプレドニンの最低量より多く飲んでいる可能性があります。
それは薬を減らしてみて、症状がでるとか、抗アセチルコリン受容体抗体が上昇するかどうかで分かるわけです。

症状は変遷するので、いま10錠必要でも、半年後には6錠で十分かもしれません。
必要最低限のプレドニンを投与するためには、常に薬を増やしたり減らしたりしなくてはなりません。

それが難しい場合は必要以上の薬を飲むことになり、その副作用で苦しむ場合が出てきます。

胸腺腫について

胸腺腫はリンパ球を作っている胸腺の腫瘍です。

胸腺には他の腫瘍も発生しますが、胸腺腫はリンパ球の生成に重要な役割をしている胸腺上皮細胞の腫瘍で、胸腺腫のなかにはたくさんのリンパ球があるのが特徴です。
下の写真は胸腺腫の顕微鏡写真で黒く丸く見えているのがリンパ球です。

このリンパ球は腫瘍ではなく正常のリンパ球です。
リンパ球のまわりに腫瘍化した胸腺上皮細胞があります。

そもそもなぜ重症筋無力症になるのか

胸腺腫のある重症筋無力症の患者さんは胸腺腫でのT細胞分化が正常胸腺とは異なるため、自己抗原に反応するT細胞が成熟してしまうので、いろいろな抗原に対する抗体を作ってしまい、その一部として抗アセチルコリン受容体抗体が産生されるため重症筋無力症になると考えられます。

ウイルス等が感染し、それに対する免疫反応が起き、それがたまたまアセチルコリン受容体に反応することで重症筋無力症が起きるという説が根強くあります。

もしそうだとすると、特定のウイルスとの関連があるべきですし、免疫学的に考えると特定のHLAとの関連があるはずです。
また大きなアセチルコリン受容体分子のなかでも特定の部位に対する抗体が多くみられるはずです。
これらのことはいずれも実際の患者さんではみられませんので、ウイルス等による交叉抗原による発症は免疫学的にみて考えにくいと思います。

☆HTLV−Iウイルスが問題です。

重症筋無力症の原因

神経末端部のしくみについて(はじめに)

 神経末端部では、神経と筋肉はつながっているのではなく、隙間があります。脳からの命令はこの隙間を橋渡しされます。大脳から送られた運動伝達物質(アセチルコリン)は神経から放出され、それを筋肉側にあるアセチルコリン受容体(アセチルコリンレセプター)が受け取ります。すると筋肉が収縮します。

 筋肉が縮んだままではこまりますので、これを元に戻す働きがあります。この隙間にはコリンエステラーゼという酵素があり、アセチルコリンを壊します。すると脳からの命令が消えて、筋肉の収縮が元に戻ります。こうして私たちはなめらかに筋肉を動かしています。

筋無力症は自己免疫性疾患

 私たちの体には、ウイルスなどが入って来た時に抗体を作ってそれをやっつける免疫という能力があります。例えばインフルエンザにかかった時にはインフルエンザウイルスに抵抗する抗体を作ってインフルエンザを治します。

 重症筋無力症では、この免疫の働きが何かの原因で故障し、間違った抗体を作る命令を出します。その命令によりリンパ節で抗体を作ります。この抗体が自分の体の一部(アセチルコリン受容体)を攻撃し、病気を起こしています。

 この「間違った抗体を作る命令を出す」のは胸線の中で起きていると考えられていますが、詳しいことは明らかになっていません。

原因は間違った抗体

 重症筋無力疾患者では、間違って出された命令によってリンパ節で作られた抗体(抗アセチルコリン受容体抗体)が、アセチルコリン受容体についてしまいます。体の中にはこの抗体を壊すものはないので、自然に壊れるまでついたままです。すると次の現象が起きます。

アセチルコリン受容体に抗体がついているために、アセチルコリンを受け取ることができない。(脳からの運動の命令が届かない)
抗体がついていると、アセチルコリンで受容体が壊れてしまう。(脳からの命令を受け取るものがなくなる)

従って体験的にカルテは

1、全身の神経筋肉接合部のアセチルコリン受容体にEg入れ、そこから抗アセチルコリンリセプター抗体をぬく。及び抗核抗体をぬく。
2、胸腺之 腫瘍のEgぬく。
    及び両方からHTLV_Iウイルスぬく。
3、縦隔・心筋之抗核抗体ウイルス等ぬく。

変化無常の奥に常恒不滅の本体がある

 変化する「現象の自分」の奥に変化せざる「実相の自分」があるのである。この「実相の自分」を“I am”(私は)と言うのである。

 その変化しない「私は」なるものが「内在の神」または「内在の仏性」なのである。そしてその内在無尽蔵の本体が、想念によって「私は何々である」と想うことによって、其の「私が」「何々」であると云うその姿をあらわすのである。

真の自己は仏身でありキリストである

 「真の自分」(実相の自己)と云うものきは「神の子」であり,キリストが宿っているのである。「最早、われ生くるに非ず、キリスト我にあって生くるなり」とパウロが言ったのはそれである。

弘法大師が「即身成仏」と言ったのもそれである。「即身」すなわち「このままの身」とは「実相身」の事である。肉体は単なる心の“影”であり、非実在であるから、存在しないものを「即身」と捉える事はないのである。「真の自己」即ち「実相の自分」は、既に「成れる仏」であり、キリストであり、実相世界に厳然(しっかりとした有様)として存在したまうのである。霊の眼を開いて見れば、それがわかるのであるが、五官の眼には「実相身」を見る事が出来ない。

では五官の眼で見た姿は、その人自身の姿でないかと言えば、その人の姿でもある。しかし舎監の肖像みたいな影であって、本人にはちがいないが、余程、実物より劣ったようにあらわれているのである。

実相を観ずれば諸々の悪は消える 神のみが実在であり、神は善であり、愛であり、智慧であり、生命であり、無限の豊かさであり、無限の調和であり平和であるから、不調和とか争うとか謂うものは、実在の世界には存在しないのである。換言すれば不調和とか闘争とか謂うものはアルかのように見えても、実際は存在しないのである。

而も、その存在しない不調和や争闘が実在するが如くあらわれて見えるのは、「神のみが実在である」と云う真理を知ろうとしないからであり、「人間はお互いに神の子であり、兄弟姉妹である」と云う真理を悟らないからである。「真理」を悟ると云うことは別に難しいことではないのである。

「あるがまま」の事実を知ると云うことである。五官と云う眼鏡は外して、心を素通しにして、素直に存在の実の相を見ることである。五官の眼を瞑じ、心を澄まして実相を観よ!

既に調和している実相と歪んでいる現象との関係
 本当の調和と云うものは、単に事物の配列が正しいと云うような外面的な簡単なものではないのである。調和と云うものは「実相世界」の秩序と云うものが現象世界にあらわれて来ると云うことである。それは凡ゆる事物の存在を支えているところの普遍的原理である。

「実相の世界」の秩序とは、神の智慧と愛とが事物のあり方の上に実現したものである。だから智慧と愛とは調和を得るための車の両輪の如きものである。智慧ばかりでは冷酷(つめたくきびしい)すぎて調和しないし、愛ばかりでは、溺愛(おぼれる愛。

愛しすぎて却って相手をダラクさせるような愛)に陥って調和が得られないのである。あらゆる事物は、神の創造活動(つくりの御わざ)の表現でありながら、それは、既に吹き込まれたる放送番組のように、既に完全でありながら、私達の肉眼に触れ、肉耳に触れる姿は、テレビ・セットにあらわれる映像のように、或る時は其の姿がくだけたり歪んだりして見えるのである。

実相無限の恵みを受け取るには

 「実相」に於いては、人間には如何なる欠乏も存在しない、凡ゆる必需品は既に与えられているのである。その「実相」の無限の宝庫を開く鍵は、自己の内に宿る「実相」―即ち「仏性」(神性)である。

「実相」のみ「実相」を開くことができるのである。「唯仏与仏乃能究尽」と法華経にあるのはそれである。「実相」は普遍的存在であり、無限の宝庫である。そしてその「実相」は自分の内に宿っており、「自己に宿る実相」を通して、「普遍の実相」と脈々相通ずることができるのである。

先ず「自己に宿る神性」を発見し、その「内在の神性」を鍵として「普遍の実相」から無限の恵みの放送を感受してその恵みを具体化することが出来るのである。

我々に「内在する神性」はラジオの真空管内に動く自由電子のようなもので、それを媒介として宇宙普遍の電波の流れを受取るごとく、我らは「内在の神性」の自覚を媒介として宇宙普遍の神の恵みを受取るのである。

病気の時には先ず「心」を点検(ひとつひとつよくしらべる)せよ
 私たちの多くは肉体の何処かに苦痛があらわれると、それを病気と考え、その病気の原因は何だろうと思い、その病気を治すにはどんな物質を如何に用いたら好いだろうかと考え勝ちであるけれども、病気と云うのは「気を病や」と云う文字の如く、心の中に何か不調和なものがあるのが病気である。そして其の不調和が形にあらわれ、知覚にあらわれ、我々自身に警鐘を打って、「何か不調和があるぞ」と知らせていて下さるのが症状である。

だから肉体に不調和があらわれたとき、先ず吾々はその“痛み”が「よくぞ警告を与えて下さった」とその“痛み”に感謝し、其の発病の当時、叉は稍々以前に、自分の心の中に如何なる蟠りがあったか、憤りがあったか、不平があったか、悲しみがあったかを反省し、それらの心の中のストレスを綺麗さっぱり自分の心から放ち棄てるようにすれば病気は消えてしまうのである。

自己否定を通しての“神の子”の肯定

 イエスも、“肉体の人間”の面をより強く自覚したときには「われみずからにては何事も成し得ず」と言って、有限の自分の無力さを痛感(つよく感じる)したのであります。

そこに深い反省と、反省による自己否定(現在叉は現在までの自分を本物でないと捨て去ること)と、懺悔とがあります。この深い自己否定と懺悔とを通して、そこに其の奥に宿「人間・神の子」が生きて来るのであります。

この自己否定を通さずして安価に(高き値段を払わずに努力少なくして)「人間・神の子」だなどと言っていたのでは「肉体の自分」(有限の自分)をもって、「無限力の自分」だと錯覚(まちがえて感じる)しているに過ぎないことになります。

私たちは兎もすれば「われみずからにして成し得た」と云う増上慢(まんしんすること)に陥りやすいのであります。「われみずから」を否定することによってのみ「本当の自分」即ち「天の父」が自分に宿る“自分”(即ち“神の子”)を肯定する(正しくあると決定する)ことができるのです。

各人は「一つの神」が各々の「場」に於いての顕現である

 「唯一人なる父」がすべての人類の「内在の神」(即ち各人の“本当の自分”)として宿っているのだと云うことであります。そこに於いて、個別的なる(ひとりひとり別々の)肉体と云う現象を見ないで、「内在の神性」だけを見るならばすべての人間は、「一つの神」の「個」としての自己顕現だと云うことが分るのであります。

人類的「迷い」の念に同調してはならない

 自分の肉体におこる凡ての状態及び身辺に起る一切の出来事は、自己の心に責任があるのである。

「起る」と言うけれども、それは「真に起る」のではなくて、「自分の心」があらわすのである。若し不調和な状態があらわれたならば、それは、自己の心が不調なのである。尤も、その不調和な状態は、それが客観的にあらわれている限りに於いて、「あなたの心」だけが責任者ではないのである。

「人類全体の想念」叉はその地方に於ける大多数の人間の想念の合作としての作品が「客観的出来事」としてあらわれているのであるが、少なくとも自分の心は共同製作者として、叉はそれを引寄せる心の態勢を整えていたと云う点に於いて責任があるのである。

自己の心に全然、波長の合わない現象は自分の身辺にも、自分の肉体にも起りようがないのである。今の運命があなたにとって好ましくないならば自己の心を変えましょう。

我に宿る神を呼び出すこと


 「我に宿る神」を呼び出すのが、解脱(迷いからぬけ出すこと。自己解放)の道である。「我に宿る神」とは自分の“実相”であり“実相”に於いて吾々は既に“神”なのである。肉体の自分を“神”だと思ってはならない。

肉体を無と否定して、然る後、“われ神なり”と自覚するとき、はじめて即身(そのままの身。何らの工夫を要しないでこの身このまま)成仏(普通には「仏に成る」と云う意味にとるが、ここでは現成せる仏である)、即身即神(そのまま神)となるのである。

“内在の神”は“肉体我”の否定の後でないと完全にあらわれないのである。即ち「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして御業を成さしめ給うのである」と云う自己否定の後に得られる肯定でなければならないのである。

「内在の神は、わが智慧でありたまう、わが内在の神に問う、この問題を如何に処置すべきかを教えたまえ。」と繰返し念じて、あとを自然の動きにまかすとき、その問題が自他の自然の動きによって解決されるのである。その解決の過程について疑ってはならないのである。

実相のき完全さを現実化するには

 私たちの内部に宿っている“神”を通してその凡ゆる善きものを現象界に顕現せしめようと思ったならば、私たちの“人間心”を出来るだけ静かにし、凡ゆる疑いの心や、恐怖の心や憎しみの心や恨みの心を捨てるようにし、つまり雑音を少なくして、ただひたすら神の御声を聴こうと心を澄まして、一心に神にうちまかせる気持になることが必要である。

その場合一心に自分の欲する事物が既に成就したことを心に描いて心でそれう凝視る気持になるのです。しかしその心に描くことによって自分の心が「心の力」によってその事物をつくり出すのだと思ってはならない。

「我れみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにしまして御業を成さしめたまうのである」と云う謙遜(へりくだり。高慢でないこと)の心がなければならない。すべての善き物は神によって既に与えられているのである。唯、吾々はそれを見ればよいのである。

「今」既に完全なる実相を観よ

 「今」が時である。「今」すでに実相(ほんとうのすがた。現象としてあらわれて見えるのは、コップに水を入れて箸をさしこむと、そのハシが折れて見えるように本当のすがたではない。病気はウソのすがたである。

ないものを有ると見ているのである)があるのである。「今」あなたは健康なのである。今のほかに時はない。神があなたを既に健康に創ったのである。今健康なのである。肉体を見るな。肉体は過去のあなたの念の産物でしかないのである。

あなたの真物を見よ。今ある実相を観よ。既に健康なる実相を観よ。断じて「今」あると念ずるものは既に其処にあるのである。まだまだ現象にその完全さがあらわれないからとて悲観したり絶望してはならない。

現象はただ過去の想念の影である。それは過去の心のロケーションが今映写されているに過ぎない。
しかし銀幕上に映写された光景は必ず過ぎ行き、必ず去るのである。映画に「終」(ジ・エンド)のないものはない。一切の悪は必ず終りを告げる時が来るのである。