旅をする木

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

“英語で “it made my day”という言い方がある。つまり、そのわずかなことで気持ちが膨らみ、一日が満たされてしまう。人間の心とはそういうものかもしれない。遠い昔に会った誰かが、自分を満たされてしまう”(本書 ビーバーの民より)

4年前にカナディアンロッキーを旅したときに読んだ本を、この夏休みに再び旅行する機会があり、読み返しました。
忘れていた時間がまたもどってきた気分です。再度、このブログにアップしますね

“無窮の彼方へ流れゆくときを、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、何と粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか。その回数をかぞえるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません”(本書 赤い絶壁の入り江より)
蒼い水の中を「およぐシカ」の表紙が極北のイメージをふくらませてくれる本書は、アラスカに永住して美しくも厳しい自然と動物たちの生き様を写真に取り続けた星野道夫さんのエッセイ集です。
皆さんのなかにも星野さんの写真集をみた方も多いと思います。15年前にカムチャッカで熊に襲われて急逝されたニュースを聞いたときに、写真のことばかり報道されて、星野さんが静かでかつ味わい深い言葉でつづったエッセイのことを私は知らずにいました。
桜が咲いたのにみぞれ混じりの雪の降るような、寒暖差の大きい今年の4月に友人から本書を贈ってもらい、アラスカの厳しい自然の中から紡ぎだされたような文章に魅かれました。
“頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。アラスカに暮らし始めて15年がたちましたが、ぼくはページをめくるようにはっきりと変化してゆくこの土地の季節感が好きです。(中略)
人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そしてふしぎなほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう”(本書 新しい旅から)
四季の移ろいがゆるやかな日本に暮らしていると、つい忘れてしまうような自然への鋭い感性が星野さんのバックボーンになっていると思います。詩人のような簡潔で的確なことばを読んでいると、いままでもこの欄で何回か紹介した詩人・長田弘さんの詩集を私は思い出しました。
“本のもつ魅惑は、本のもつ「今」という時間の魅惑です。一人のわたしがそこにいると、はっきり感じられるような時間です。本を読むというのは、そのような「今」を、じぶんのもついま、ここにみちびくこと、そして、その「今」を酵母にして、一人のわたしの経験を、いま、ここに醸すことです”(長田弘著 『すべてきみに宛てた手紙』 より)
1978年から永住した星野さんが、アラスカで出会った先住民族の人々や、開拓時代にやってきた白人の歴史を織り込みながら、きっと満天の星空のもとで静かにつづった言葉の根底には、強い輝きを感じることができます。そして本書を読み終えてから星野さんのサイト(http://www.michio-hoshino.com/)で極北の写真を見直すと、一枚一枚の写真にこめた星野さんの想いをはっきりと読み取れるようです。本書の題名の「旅をする木」が、なにを意味するのかは読んでのお楽しみにとっておきますね。

“一枚岩のような花崗岩の岩壁、氷河が切れ落ちた断面の深い青さ、巨大なクレパスの造形、生き物がいるわけでもなく、花が咲いているわけでもない、ここに入ってくるものを拒絶するようなただ無機質な風景なのに、人間の気持ちを高みへと昇華させてゆくような不思議な力をもった世界です。
毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい”(本書 もうひとつの時間より)