シンガポール通信ー買い物で思うシンガポールと日本

さて、前回述べたように、朝食は自宅でパン、昼食・夕食は学食でトいう生活を1年ほど続けたのであるが、だんだんと朝食のパンに飽きて来た。バターや蜂蜜を塗った食パンにミルクとジュースの食事も毎日続くと飽きてくるものである。

そこで一念発起をして、朝食は自分で作るつまり自炊することとした。私の住んでいるのはNUSの教師用のアパートなので(アパートと言ってもベッドルームが2つあるし、さらにはメイド用の部屋まである)、基本的な電化製品は用意してあるが、さすがに炊飯器はない。また、なべやフライパン、食器なども用意する必要がある。

といっても、これまでずっと外食で済ませて来たので、これらの品物をどこで買っていいのかわからない。しかもここはシンガポールである。幸い、私の研究所にも2名日本人の研究者がいるので、彼等に聞いて高島屋明治屋で買うこととした。

高島屋はオーチャード通りに面しており、かたや明治屋はクラークキーの近くである。高島屋に週末に出かけると大変な人手である。家族連れが多い。日本のデパートは売り上げ減少に苦しんでいるとのことであるが、シンガポールでは全くそのような気配は感じられない。

もう少しよく観察してみると、家族連れやカップルがデパートに来ることそのことをエンタテインメントとして考えていることがわかる。ショーウィンドウや陳列してある品物を眺めたり、レストランで食事をしたりしながら、1日を過ごしている人たちも多いのだろう。

かっての日本もそうであった。デパートに並ぶ多くの高価な品物は庶民にとっては今は手が届かなくてもそのうちに買いたいと思っている、いわば夢がつまった場所だったのである。人々は家族連れやカップルで1日を過ごすためデパートを訪れたのである。屋上にあった遊園地も、子供にとっては夢のような場所であった。

しかし今の日本のデパートにとって、そのような役目は終わってしまっている。エンタテインメントの手段は他にもいくらでもある。子供達は携帯電話や携帯ゲーム機があれば十分であろう。日本のデパートで見かける家族連れも子供達は買い物よりも携帯ゲーム機でのゲームの方に夢中になっている場合が多い。

昨日、西武百貨店が有楽町から撤退するとのニュースがあった。西武百貨店西武グループの代表として日本のデパート業界を牽引して来た存在である。かたや有楽町は、かってフランク永井の「有楽町であいましょう」に代表されるように、東京を代表する街であり、東京以外に住む日本人にとってあこがれの街であった。

西武百貨店が有楽町から撤退することは、デパートという流通形態が衰退しつつあること、そして有楽町が既に東京と代表する盛り場ではなくなっていることを示している。時代は変わるのである。

しかし、ここシンガポールでは、まだまだかっての日本においてそうであったような、デパートという商業形態は健在である。見方を変えると、30年もしくはそれ以上前の日本の状態がまだシンガポールでは見られるということである。

シンガポールはアジアの中では近代化が進んだ都市であるが、いまだにトラックの荷台に労働者を乗せて走っているのをみかける。かっての日本でもごく当たり前の風景であったが、法律で禁止されたこともあって見かけなくなった。トラックの荷台に人を乗せて走っているトラックを見るとなんだかデジャブの感覚を持つ。

これはシンガポールに限らず、急激に欧米の都市文明を導入しつつあるアジアの他の都市でも見かけられる現象である。日本では明治以来100年をかけて西欧文明を導入してきており、日本固有の文化との融合を図って来たといって良い。終戦後は米国文明の導入が急激に起こったが、それでもすでに60年以上の歴史がある。

それをきわめて短い時間に行おうとしているのであるから、古いものと新しいものとの混在が生じるのは避けられないのだろう。シンガポールはむしろアジアのなかでは近代化に関しては長い歴史を有している方であり、新しいものと古いものの混在や統合に関してはある程度落ち着いていると思われるが、それでも上に述べたように、日本人から見ると違和感を感じる風景を見かける。

さて、再び買い物の話題に戻ろう。スーパーの明治屋はキークラークの近くにある。キークラークは盛り場として有名で夜ともなると大変な人出である。タクシーを捕まえるのも大変なことは前にも書いた。

しかし盛り場は昼間見ると何となく裏寂れた感じがして物悲しいものである。クラークキーもその例に漏れず、昼間は人出もオーチャード通りに比較するとずっと少ない。客待ちのタクシーも何台も並んでおり運転手も人待ち顔である。

しかし、明治屋の中は結構な人出である。もちろん日本人が多い。多分企業の現地駐在の人たちが多いのだろう。夫婦や家族連れで来ている人たちも多いが、その中に混じって単身赴任と思われる中年の男性がカートを押して買い物をしている。
中年以上の男性が一人でスーパーで買い物、しかもカートを押して買い物をしているというのは、何となく人生を感じさせてしまう。しかも中年の一人で買い物をしている同じ会社の男性達が偶然出会い、挨拶や仕事の話をスーパーでしているのは物悲しさを感じさせてしまう。私もその一員として見られているのかもしれない。

かってはこのような人たちは、企業戦士(この言葉ももう古くなった)として、日本企業の海外進出の先頭を切って働いていたのだろう。そして日本がまだ経済成長途上にあったときは、皆それなりの意気込みを持っていたのであろうが、今の日本の現地駐在の人たちからはそのような気迫は感じられない。

シンガポールは日本に比較するとまだまだ遅れている面を多々持っている。しかしシンガポールには、今の日本がすでに失ってしまったダイナミズムが存在している。政府の統制の強い国であるが、人々は将来に希望を持って生活しているというのが実感として感じられる。

ひるがえって、日本の今後はどうなるのだろうという考えが頭をよぎる。同時に「故郷は遠くにありて思うもの」という 室生犀星の詩が頭に浮かんでくる。異国の地にあってこそ日本的な感覚、考え方を意識するのかもしれない。



シンガポール国立大の私のオフィスです。