書名と外観(新書)に騙されてはいけない。本書は入門書・啓蒙書の枠に収まりきらない。一人の在日思想家が自身の世界観を真摯に綴った思想書として読まれるべきである。「人間には言葉を通して他者との共通の理解や共感を見出したいという本源的欲望が備わっている」という著者の人間観が、プラトン思想に仮託して論じられているのだ。
プラトンの中心思想はイデア説であるが、それは「絶対的な正しさ」ではなく「普遍性」を確保するための思想である、とされる。現代思想における反=プラトニズムの流れは、プラトンのイデア説のなかにヨーロッパ的知の絶対化の源泉を見ているが、それは「普遍性」の誤解の上に成立した通俗的で陳腐なプラトン像にすぎない。
・・・繰り返していうが、知の普遍性とは、あらかじめ何らかの絶対的真実を設定し、一切の考えをここに帰着させるというようなことではない。それは、各人のさまざまな「思わく」(各人の準則)における食いちがいから出発して、そこに新しい共通了解を見出そうとする言葉の努力それ自体だが(じっさい言葉なしにこのことは不可能である)、この努力の根本動機となるのは、すでに何らかの「正しい知」をもっていること、ではない。それは、人間間の確執や矛盾に際して、これを調停し争いを宥め解決を見出そうとする心意、つまりより「善きこと」を求めようとする魂の欲望以外にはありえない。だからこそ「善のイデア」は、諸事物の「真理性」の根拠であると同時に、その「認識」(より普遍的な知を導くこと)の根拠でもあるとされるのである。
知や認識や真理は、決してそれ自体として存在根拠をもっているわけではない。それは根源的に、何か「善きもの」へ向かおうとする人間の魂の本性と相関的にのみ、存在根拠をもつ。プラトン思想においてその最高の準則が「真のイデア」ではなく「善のイデア」である理由はここにある。(p.199)
ソクラテス=プラトンには、人間の欲望の自然性を全面的に否定しているかのようなイメージがあるが、それは正しくない。より善いもの、より美しいものへの欲望(=エロス的欲望)こそが、「多様で分離された生を生きる人間が〝普遍性〟というつながりの糸をもちうることの根拠」(p.233)なのだ。
彼の「イデア論」の基本構造は、あらかじめ世界への全摂理とそれについての全知が想定されているというものではなく、はじめに世界への〝欲望とエロス〟が存在し、これと相関的に世界が分節されているという欲望論的構造を示しているのである。(p.201)
以上のような大胆なプラトン理解には、著者自身もさりげなく言及しているが(p.313)、彼のエスニックな出自が大きく影響しているように思う。なかなか共通了解を作り出せない東アジアの現状への悲嘆、「それでも共通了解は作り出せるはずだ」という信念と希望が、行間から滲み出ている。著者はプラトンを平和の哲学者として読み解こうとしている。
竹田さんの著作との出会いは古い。僕が高校を卒業して大学に入学する頃(1987-8年)は、知の大衆化が本格化し始めた時代だった。竹田さんはそんな時代の旗手の一人として――『現代思想の冒険』(1987年4月刊)および『現象学入門』(1989年6月刊)の著者として――、まだ10代だった僕の目の前に颯爽と登場した。浪人中に『冒険』を読んで大学で学ぶことへの期待を膨らませた。今となっては懐かしい思い出だ。それ以来、すぐれた啓蒙家(悪く言えば「教科書作家」「レジュメ屋さん」)としての著者イメージが僕には強かった。しかし本書を読んで旧来のイメージは大きく覆された。著者は真摯に考え抜いている。自分の思想を生み出そうと苦闘している。その意味で、お手軽にプラトンに関する知見を手に入れたい人には、本書は薦められない。自分の頭で考えようとしない人には、本書は読み通せないように書かれている。決してすらすらと読み通せる代物ではないが、著者の知的格闘に共感しながら一歩一歩読む進めることができれば、読後感はきっと爽快なはずだ。
20ページ以下しばらく「哲学は普遍的な言語ゲーム」云々の記述が続くが、言語ゲームそれ自体に関しては説明らしい説明がない。*1初学者は混乱するだろう。「入門」を標榜するのなら、こうした細かい点への配慮も必要はなず。だから星一つマイナス。
- 作者: 竹田青嗣
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/03
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