京都にて茶香服

3月3日雛祭りの日に、京都は宇治にて風流遊び、茶香服をした。誘ってくれた、ぴょこぽん氏(id:gloria-record)および、会を催してくれたTさんにまず感謝。
ことの経緯としては宇治にある茶園の御令嬢であるTさんが、何かの機会に茶香服の話をし、なんだか面白そうだ→じゃあやってみよう、という流れのよう。
今回は、Tさんのお父上の御指導の元、茶香服(ちゃかぶき、或いは、ちゃかふくとも)の入門編に挑戦した。

で、一体、茶香服とは何よ?

とは、言っても一体、茶香服とは何?となる訳で勿論、私もほぼ何も知らないまま、何となく面白そうという理由だけで参加表明をした訳ですが、どうやら簡単に言ってしまえば、茶香服というのは「ききお茶」でして、「きき酒」と同じ様に、幾種かの御茶を飲んで、それぞれの品名を当てるというような遊びのようで。(詳細に関しては次トピックに記述)

ちなみに今回の手順は、

まず、5種の御茶を用意し、それぞれに「花」「鳥」「風」「月」「客」と言うような分類記号を付けておく。今回は素人でも分かるように

  • 「花」=玉露 150g3000円(一番茶新芽が2〜3枚開き始めた頃、茶畑全体をヨシズやワラで20日間ほど覆い、日光をさえぎって育てたお茶。光を制限して新芽を育てることにより、アミノ酸からカテキンへの生成が抑えられ、渋味が少なく、うま味が豊富な味になる。)
  • 「鳥」=玉露のてん茶 150g3000円(玉露同様日光を避けて育て、蒸したのち葉脈を取り除き乾燥させたものを指す。これを石うすで挽き、粉にしたものが抹茶。)
  • 「風」=宇治産煎茶 150g1500円
  • 「月」=鹿児島産煎茶 150g1500円
  • 「客」=宇治産玄米茶 150g500円

 というような分かり易い品目で構成して頂いた。


今回使うお茶っ葉を、直径20cmくらいの盆に盛って、香りを試す。(ちなみに全然、分からなかった。玄米茶くらいか。)
各々の茶を一回づつ急須に入れ、お猪口大の椀に注ぎいれる。
一回味わったら、自分がコレだ!と思う御茶の札、例えば「月」の札を専用のボックスに入れる。(麻雀牌みたいなヤツが、札。)

この作業を全部で5回繰り返す(四枚目の札を入れる際に同時に5枚目も入れる。4種回答すれば必然的に最後も決まる)
専用ボックスを開いて、その並び順を答え合わせ。(「月」「風」「客」「鳥」「花」というような感じで。)

札は5枚しかありませんから、仮に1回目の御茶で「月」の札を使っちゃいますと、例えば3回目くらいに「月」っぽい御茶が出てきたとしても、その札はもう使っちゃってるから、他の札を入れざるを得なくなる訳です。だから一問外れると、芋づる式に2問間違わざるを得ない。
 ここがこのゲームの難しいところで、飲むごとに回答していかないといけないから、後で回答を調整したり出来ない訳で、つまり最初の間違えが後に響いてくる。
ちなみに5つ全て正解の場合は「皆点」、逆に一つも正解が無い場合は「ちょっと」という名称で呼ぶ。しかしまぁ、0点の場合に「ちょっと」ってのが、何とも面白い。
 1点くらいならまだしも、0点じゃぁ、「ちょっと」すら無ぇじゃねぇか!そういうのは「ぜんぜん」とでも言ゃあ良いのに。スキンヘッドに近いハゲ具合の紳士に「ちょっと薄いですね」って言うのと同様。「ぜんぜん」とか「いさぎよい」と言われた方がまだ嬉しい。まぁ、日本の言葉というのは、ストレートじゃないだけに、時として慎ましく、時として残酷で御座いますわな。

と、若干声を荒げましたのも、私、「ちょっと」をやっちまって、イジメラレタからでして。最終的には私は全8人中、3位くらいでした。一番最初に「ちょっと」をはじき出した(普通、玄米茶では外さない)割には健闘した筈やと思われ。

※コツ??
 今回の場合、

  • 花:茶の色が薄い。味がまろやか。苦味は少ない。清清しい香りが立ち上る。
  • 鳥:匂い、味ともに独特の風味。旨み?が強い。
  • 風:多少香ばしい。色が濃い。「月」に比べると、より苦味が強い。インパクトある味
  • 月:多少香ばしい。色が濃い。「風」に比べると苦味が弱い。
  • 客:分かりやすい。

茶香服②

村田茶園による説明書きをまとめると、

1:茶香服の歴史
 源流を辿れば、場所は中国、時代は宋時代に至るという。抹茶の産地や茶を点てるのに使った水の種類などを当てる遊び=「闘茶」を行っていたのが、日本に伝わったのだとか。
日本で初めて行われた「闘茶」は、京都の「栂尾(とがのお)」という所で採れた茶か、それ以外のところでとれた茶なのかを「本茶」か「非茶」かと飲み分けたものが最初らしい。

で、室町(南北朝)時代(1336〜1392年あたり)に隆盛を迎えたとの事ですが、当初貴族の優雅な遊びとして発展したそれは、次第に賭け事になり、1336年=室町の成立と同時に、禁令すら出るまでになったとか。
その後、千利休による「茶の湯=茶道」の創設と共に、茶事の余興として、「茶香服」としてまとめられていったとか。

2:茶道と茶香服「茶とは遊に非ず芸に非ず、
一味清浄、法喜禅悦の境地にあり」(珠光)
と、以上のように、村田茶園さんではまとめていたけれども、wikipediaによる茶道の説明によれば、茶の湯というのは、闘茶や茶寄合が東山時代に「村田珠光*1*2」という臨済宗の禅僧が始めた「わび茶」を源流とするものらしい。珠光以前のお茶会というのは、中国製の高価な陶磁器=「唐物」を用いた絢爛豪華なものであったらしいが、珠光はこれに対して、粗末な陶磁器(珠光青磁と呼ばれている)を用いた質素な茶の湯を生み出したとされる。wikipediaの記述に従えば、

「様式としてのわび茶とは、唐物を尊ぶ既成の価値感への反抗を母体として発生したと見る必要がある。

というところらしい。

茶の湯といえば千利休、と思っていたのだけれど、正確には大成者といったところらしい。実際に、利休も珠光のことを「茶の湯の開山」として評価していたそうですし。

3:茶と禅

*1:村田珠光は、最初、浄土宗の僧侶であったが、後に臨在宗大徳寺派に参禅。一休禅師(あの「一休さん」)に師事。珠光は足利義政同朋衆能阿弥を通じて「殿中の茶」を学ぶとともに,庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ,さらに一休宗純から学んだ禅の精神を加味して,精神的・芸術的内容をもつ茶道を完成。

*2:ちなみに一休禅師の周辺には禅僧の弟子のほか,一休の肖像を描いた没倫紹等(墨斎)・連歌の柴屋軒宗長・俳諧連歌山崎宗鑑能楽金春禅竹茶の湯村田珠光など文化の新展開に貢献した人物が多かった。