Re: 「たのみこむ」の話
2章の「たのみこむ」初期のビジネスモデルの話が目からうろこだった。いままですっかりだまされていた。
昼ご飯
食パンがキムチの匂いを吸っている…
昨日か一昨日のa+b*sqrt(5)+sqrt(c+d*sqrt(5))の話、軽く実装してみてテストしてみて結果があわないなーと思ったらそりゃそうだ、sqrt(x)とsqrt(y)を足してもsqrt(x+y)にはならない。ぼけぼけだ。a+b*sqrt(5)だけのコードはきちんと動いた。これはsqrtの中に複雑な構造がないから。
過剰な一般化で堅い道を踏み外し、道の脇の沼に落ちる。
本来の目的はsqrt(10-2*sqrt(5))に対して黄金比を掛けたり割ったり、掛けたものを足したり引いたり、という計算を誤差無しに行いたいというものだった。sqrt(10-2*sqrt(5))同士の掛け算なんてのは出現しない。なのでこの二重根号は一塊とみなしてa+b*sqrt(5)+c*Rってしてもよかったんだ。Rの次数は増えない。さらに言えば今回の計算対象はスタートの時点でみんなRを含んでいるのでRの次数は常に1。Rのことは忘れて計算して最後にRを書ければいいだけだ。
長期的には真実が最善の施策である
長期的には真実が最善の施策である --- チェ=ゲバラ
解雇されたので起業します | Kousyoublog via @takano32
解雇された、というのは一般的にはネガティブ情報と捉えられるのでオープンにしないという選択肢も考えたのですが、(中略)書くことにしました。
読んでもらえるかどうかは別にして、これまでの僕自身のことを極力さらけ出してしまえという趣旨で書いたのがここ数日のエントリー
どれだけのことを僕が提供できるか、提供し続けている様子を見てもらえるかにかかっているので、WEB上に僕ができるすべてのことを出し続けていきたいと思います。
ゲバラの思想が極東の島国でも通用するのかどうかとても興味深い。これがうまく行ってくれるとブログを書くことのメリットをもっと説明しやすくなるんだよな。「自分がなにを提供できるかを発信し続けることで予期しない解雇からのセーフティネットを作る」とか。
ポートフォリオを作った
「今まで何を作ってきたか」をA4のブックレットにまとめたものをアート業界では「ポートフォリオ」と呼ぶらしい。で、土日の展覧会に参加するのにポートフォリオがあった方がいいようなのでとりあえず作ってみた。
どちらが上だか、どちらが表だかさっぱりわまりません(苦笑) 本人が間違えて、裏の端に継ぎ目を持ってくるつもりが表の端に来てしまった。このままじゃ不親切なのでどっちが表かわかるようにしよう。
お、なんかおしゃれだ(笑)
ちなみに中身は100円ショップで買ってきた10ポケットのファイルだったりする。名刺が1枚30円で、表と裏のこのA3プリントが20円。しめて175円かー。中身をネットプリントでカラー印刷したら1枚60円かかったのでそれが1200円。カラープリントは単価が高いなー。紙が紙だからたいしてクオリティ高くないし。作品の部分だけ写真用のプリントをしてそれを貼るかなぁ。
グループ展ってのは初めてなのでいまいちどういう環境なのか想像がつかない。
前回の写真?をみると上の写真では机とマイクを持ってしゃべっている人がいるように見える反面、下の写真では作品が壁に所狭しと掛けられているだけで前に立ってしゃべるスペースすらないように見える。この作ったポートフォリオはいったいどこに置かれることになるんだろうなぁ。作者の僕はどこに立つことになるんだろう。っていうかもしかして立たないんだろうか。作品の横に立って質問に答えつつ席を外しているときにはポートフォリオが代わりに解説、ってのを想像していたけど作品のそばにポートフォリオ置く場所がなさそうだなぁ。
まあ、離れて置かれても大丈夫なように、作品と同じパターンでポートフォリオを埋め尽くしたわけだけど。僕自身が作品から離れるのであれば同一の理由から僕自身を同じパターンで包むべきだなぁ。うーむ。
Re: 「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点
合理的ADHDという人々 - ゆらのはてな日記経由で「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 - ミームの死骸を待ちながら
うーん。写真で例えるなら、撮影対象はとても面白いのに構図がダメな感じだ。いまいち関係のないものが入り込んでしまっている。目的が曖昧だと作業がはかどらないのは誰だって同じなんだから、ADHDの移り気と過集中について描きたいんであればフレームに入れるべきではなかっただろう。それから構図という意味では立ち位置の曖昧さもよくない。非ADHDの人にADHDの特徴を知ってもらうことが目的なのか、ADHDであることを自覚していない人に気づかせるのが目的か。前者なんだと思うんだけど、それであればADHDを美化し過ぎだな。「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる」はとても肯定的な表現だが「努力を積み重ねて成果を上げることができない」とよりあわせた縄のように表裏一体であって、本人もそれを自覚しているからこそ「いつまで経っても精神的な充足を得ることが出来ない」わけじゃない?
まあ、でも面白い文章ではあった。
そうか、なにに不快感を覚えたのかわかった。「短時間でそこそこ成果をあげられる」なんて思ったら腐敗が始まる。常に「ああ、もうちょっと早く着手していればあれもこれもできたのに」と精神的な充足が得られないまま走り続けなければいけない呪い。死ぬまで走り続け「ああ、もっと早く着手していればあれもこれもできたのにな」と後悔しながら死んでいく存在だということが全然伝わらないんだ。