サイト消した

実は、ここともうひとつの他に秘密サイトを持ってました。年内までやるつもりだったんだけど、どうせアクセス数も少ないし、カッコいい幕切れの文章も思いつかないで今日消した。

(あ、http://picnic.to/~funuke/は残ってますよ。)


まあ秘密つっても、たいしたこと書いてないんで。


何を書いてたかというとオタク論ですね。ちょっとめんどくさそうな。複数のサイトを持つというのはいい経験でしたよ。どうもサイトを気軽に立ち上げたり潰したりができない性分だったんだけど、自分の人格イコールひとつのサイト、と考えなくてよい気分はなかなかいいものでした。


で、「何のことやら」と思うかもしれないけど、やってて感じたのは「自分と大衆との距離」ということですね。オタク論ってそれが裏テーマ。
ハロプロもそうなんだけども、広義のサブカルチャーっていうのは一般大衆を相手にしているわけです。ところが、マニアってのはそこから逸脱している。


あるいは、いわゆるインテリの人っているでしょう。だれでもいいよ。宮台でもだれでも。
社会学系のインテリとか学者というのも、「大衆」との距離を問題にしています。いや、そういうのとはまったく関係ない仕事をしている人もいて、それも重要なんだろうけど、少なくともマスコミによく出る学者というのは「大衆」を意識しているからこそ出ていると思う。


じゃあ「大衆」って何だ? ってことを、もう10年くらい考えていたんですよ。


「大衆」という言葉について考える際、まず全共闘世代より下の世代は、「救わなきゃいけない」とか「啓蒙しなきゃいけない」という呪縛を受けます。
あるいは「大衆の嗜好こそが正しい」という呪縛も受けます。


この辺はいろんな人の文章を読むとわかりますが、お酒みたいにそのトーンに強弱はあるけど、たいてい裏テーマになってます。
たとえば「このCDをぜひ聞いて欲しい!」っていう思いと、それにしたがってネットに何か書くというのは、小さな小さな啓蒙の行為だったりします。


しかし本当にそうなんだろうか? と、2、3日前に思ったんですね。
「救わなきゃいけない」問題については、かなり一般的に解決しています。
まず全共闘世代の「自分たちは大衆を導けるのか、ムリだったんじゃないのか」という反省がありました。
評論家の呉智英が「自分は村のはずれの水車小屋に住んでいる狂人のような立場でいたい」というようなことを言っていましたが、これは「先導する」という上からの立場ではなく、トリックスターでいようという表明ですね。
「もうインテリは大衆の上に立てないんじゃないか」という議論が、たぶんあったと思います。


で、そこら辺のごちゃごちゃはいいです。何となく納得しました(第一、私はインテリでも何でもない)。


もうひとつ、「大衆の嗜好こそが正しい」というのがなかなか面倒です。
なぜなら、ほとんどの人間が商売に従事していて、それは「大衆に支持される=商品が売れる」ということでもあるし、民主主義の多数決精神も何となく連想させるからです。


サラリーマンでも何でも、「売れるモノ」を考えている人は無意識に大衆(たとえば商品の性質上、それが限定されたものであっても)について考えているものであり、無意識にソレに合わせているんですよね。


よく、広義のサブカルチャーにおいて「評論家には黙殺されたが、この作品を大衆は支持し続けた」とか「庶民に愛された」とか言ったような物言いにものすごく「正しさ」を感じるのは、そこら辺のことをみんな無意識に考えているからだと思います。


でも、もうそろそろ次の段階に行かなきゃいけないと思います。
たとえば、最近「マツケンサンバ」が好調の松平健は「暴れん坊将軍」という長寿時代劇をやっていました。
暴れん坊将軍は、大衆に支持され続けた。」という表現は正しい。
しかし、「じゃあそれが何だ?」と問われるとなかなかむずかしいんですよ。
水戸黄門とかもそうだけど。


映画の時代とかも似たような傾向があって、似たような内容の映画を年2本くらいずつ、シリーズで十数本公開されて、それが映画会社の安定収入につながっていたことはあったらしい。
寅さんもそうですが。
で、また評論家の人が言うわけです。「○○は、大衆に支持され続けた」と。
でもですよ、寅さんなら長くても50本くらいだから1本1本論評できるから、そういうことが言えたということはあると思う。


暴れん坊将軍水戸黄門のテレビシリーズがいったい何本あるか。
渡る世間は鬼ばかり」とかもそうかな。


ウルトラマン」も「ゴジラ」も「仮面ライダー」も、こういう「子供向け」、「大衆向け」として論評の対象にならなかった作品が論じられるようになったとき、「論」としては「○○は、評論家には無視されてきたが、大衆には支持され続けた」的論調で語られてきましたが、ここで「渡る世間は鬼ばかり」などとは決定的な違いが出てきます。


やっぱり語られる作品というのは、「記憶に残るキモになる話」とかがちゃんとあるんですね。
「必殺」とかもそうですが。


んだから「大衆に支持されてきた」という意見は正しいけど、でも論者は作品評価としてはやっぱり何らかの「いい、悪い」という基準を導入して論じているのではないか、では「大衆に支持されている」ということと作品評価とは、重なる部分もあるが必ずしも一致しないのではないか、ということになります。


それをどう説明するのか?


ここを突き詰めると、飛躍してしまいますが「大衆、カンケイない」というところに行かざるを得ないと思います。


芸術と大衆との関係というのもメンドクサイものがありますが、何となく高尚だと思われている芸術ジャンルは、いったんは「大衆」をブッちぎっています。
まあそこら辺は複雑なんだろうけど、あえて単純に言うとブッちぎっている。「いちげんさんお断り」みたいな。


そこに「大衆の志向」を導入していこうというのが、トレンドとしてはずーっとあるんですが、でも突き詰めていくと一回転して「高尚な芸術」のスタンスに戻っちゃうんじゃないかと。


まあ「それも悪くないんじゃないか」というのが、今の気分なんですけどね。


ハロプロに立ち戻って考えてみると、別にヲタ向けオンリーで作品をリリースしているわけではないだろうから、送り手と受け手と、その受け手の中でもヲタと薄い層とが完全に違う方向を向いていることだってありうるわけです。


そこで自分が何かを語ろうとしたら、最終的には「おれがいいと思ってるから、いいんだ」というふうにならざるを得ない。


いや、当たり前のことだと思われるかもしれないけど、ハロプロテキストサイトでたまに起こる「ファン以外の外部に届く楽曲かどうか」という議論は、まさにここら辺の大衆論と関わってくると思います。


なんかね、そういうところに到達しそうなんですよね最近。っていうか、ここ2、3日。