『ホロコースト』 ディスク1 ウィーン、プラーター公園、1938年

 
ホロコースト』ディスク1の残りです。ストーリーの流れと時代背景はこちらの記事。引き続き1938年のベルリン、ドルフ家のアパートメントのシーンから。

子供たちが寝に行った後、ワイス医師が息子カールを助けてほしいと訪ねてくる。エリックは「何もできない」と断るが、少し気遅れしている様子。そこへ廊下の奥からマルタが「エリック?どなたなの?」と呼びかける。ワイス医師は口添えを期待するが、彼女の方が「断りなさい。昇進を無駄にする気?」とエリックを押しやる。エリックは医師を押し出してドアに錠をかける。


カトリック教会にて。夕べの祈りに来ているインガと両親。司祭が「アブラハムの子孫のため、苦難にあえぐ無実の人々のために祈りましょう」という。会衆はとまどい、多くは出ていく。トレンチコート姿のエリック・ドルフが壁際で目を光らせている。

(この司祭は実在の人物、ベルンハルト・リヒテンバーグ神父のようです。このようにユダヤ人迫害への抗議を公衆に呼びかけたほか、精神病者の「安楽死」への抗議行動を主催したりした。1943年に捕えられてダッハウ収容所へ送られる途中で亡くなり、のちに殉教者として列福されています。)

祈りの後、司祭室にドルフが入ってきて、「神父様はお優しい方だが間違った情報を得ておられる」と告げる。どちらも声を荒げたりはしませんが、緊迫した場面です。

神父  私は何もしていないユダヤ人が殴られ刑務所に送られるのを見てきた。(後ろを向き、ストラを外して仕舞おうとする)
ドルフ (追いかけるように)彼らは帝国の敵であり、我々は戦争中なのですぞ。
神父  (向き直って二、三歩踏み出す) その戦争相手とは武装した敵か、それとも丸腰のユダヤ人かな?
ドルフ (やや気圧されて)神父様、お言葉を少し和らげていただけないかと (かすかに微笑む)
神父  私は良心に従うのみだ。
ドルフ それで誤った方へ導かれませんよう。今や教会の指導者たちも我々を支持しています (今度は優位を見せて微笑む)
神父  なら私は、神の教えと、教えを歪め背く者たちの言うことをはっきり区別せねばならぬ。

ドルフはもはや反応を示さずに、黙って背を向け去っていく。ドアを通る時に壁の磔刑像を見上げるが、ポケットに手をつっこんだまま十字も切らないし敬意も示さない。神父は助祭にむかって嘆きます。

Such an intelligent young man..... our gift to the new era. あれほど頭のいい若者が・・・・・次代への贈り物だというのに。


ウィーンの遊園地のシーン。ドルフ一家がアドルフ・アイヒマンと会っています。ハイドリヒに奨められ、休暇をかねてやってきたらしい。

アイヒマンがエリックに、党員たちの「ファイル」の話を始めます。君の家族背景も全部判っているし、ハイドリヒの家系にはユダヤ人がいる。ヒムラーゲーリングゲッベルス・・・・・総統自身の情報だってある。 エリックは礼儀正しくそんな話をするアイヒマンにおぞ気をふるった様子で、子供たちを回転木馬に乗せる口実でその場を離れます。

入れ違いに残ったマルタと話をするアイヒマン。マルタは夫と違ってアイヒマンの引き立てにすっかり感激している。アイヒマンは、我々のすべて、とくに子供たちに乾杯、という。回転木馬の上から、マルタに手を振る子供たちとエリックの笑顔・・・・・ 



上のシーンで出てきたような党員の「情報ファイル」は、ハイドリヒが作っていたことが有名です。また、「ハイドリヒの家系にユダヤ人がいる」という噂はどこへ行ってもついて回り、このドラマでも公然の秘密のようになっています。

エリック・ドルフがアイヒマンの話に嫌悪を示した理由はいくつか考えられます。まだ若くて、組織内政治を嫌っていること。ただし第2部ではファイルの内容をもとに他の高官を脅していますから、そうした潔癖さはすぐに実務上の必要性に取って代わられるわけです。それからハイドリヒへの忠誠、これはずっと変わらない。そして彼の父親が自殺した後、母親が再婚した相手が半ユダヤ人であったこと(後のエピソードでそう語られる)。この場合エリック自身の血統には問題がないわけですが、この事実もファイルによって把握されていれば弱みとなるかもしれない。実はハイドリヒのユダヤ系説がそもそも同じような経緯で生まれたものらしいです。

アイヒマンについて少し。エリック・ドルフのモデルとなった実在人物の一人です。やはり生活のためにSSに入隊し、ハイドリヒの配下でユダヤ人問題の専門家となった。上記のシーン、1938年当時はウィーンの移住本部にいて、ユダヤ人の国外移住をコーディネイトしていました。大量殺戮はまだ始まっておらず、ユダヤ人を帝国内からパレスチナなどへ移動させていただけ。ハイドリヒから能力を認められ、チェコでさらに活躍できる見込みもあり、彼としては幸せな時代であったといいます。

ヴァンゼー会議では書記を担当。収容所での殺戮が始まると、アイヒマンは「移住」ではなく絶滅収容所への「移送」の責任者となりました。戦後アルゼンチンに逃亡して暮らしていたが1960年に捕えられ、その後イスラエルで裁判を受け死刑となった。

もう一人、アイヒマン関係で名前が出てくるエリッヒ・ラヤコビッチという人物がいます。アイヒマン特務班の一人で法律家であり、「ユダヤ人移住基金」を発案するなど有能だったらしい。この人も多少ドルフに反映されているような気がします。