松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

命の問題だとは私は思っていない

http://d.hatena.ne.jp/jinjinjin5/20041030 はてなダイアリー - フラグ、大地に起つ!
上記の日記では[雑記]人質事件 〜撤退派の主張に対する違和感〜 が述べられている。

それはテロリストの要求によって国策を変更するということの意味を理解している人がどれくらいいるのかということだ。

「テロリストの要求によって」ではない。「テロリストの要求を契機にして」もう一度国策を考え直せ!と言っているのだ。

一部が形骸化する傾向にあるとはいえ仮にも国民の総意であり、それは民主主義国家にとって最も護るべき理念であることに変わりはない。

イラク派兵は国民の総意に基づく」
という建前を大事にすべきだ、というのは正論ですね。であれば、小泉氏は「憲法9条、大東亜戦戦争*1の総括の問題からくるイラク戦への疑問」の問題、「大量破壊兵器がなかった」問題、「駐留地が非戦闘地域でなくなったら直ちに軍を返すという覚悟」の問題などをきちんと国民に説明する義務があるがそれは果たされていない。
 香田証生氏の死を見過ごしても次には、自衛隊員の死が待っているだけだ。したがってここは民主主義の大義に目覚め、国民投票(首相へのメール)直接行動(街頭宣伝)などで、「基づかなければならない国民の総意」の再審をしようと呼び掛けているのだ。

『大国への点数稼ぎの為に哀れな若者が見捨てられた』という扱いに終始しており、現在の自分たちを支える民主主義という理念に対する言及は一言も無い。『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という彼らの主張の傲慢さに私は怒りを覚えざるをえない。

後半の部分は重要であり当たっている部分がある。*2
ただ、野原は香田証生氏=「哀れな若者」の命が大事とは言っていない。命自体についてはイラク人やパレスチナ人の命も大事だろう。問題は命への回路である。
「フラグ、大地に起つ!」さんにもお聞きしたいが、あなたは、自衛隊イラク派遣の現在に正義があると思うのですか? 

*1:「大東亜の大義」(反帝国主義)にはいくぶんかの理があったと考えるべきではないか、であればブッシュ主義とは絶対相容れないはずだ。

*2:上記に書いたとうり戦後60年間の政権の傲慢がむしろ原因だと思う。だが思想はそんな言い訳をせずに答えるべきであろう。

「米軍の力を借りた人質救出」路線反対(8時16分一部訂正)

http://d.hatena.ne.jp/jinjinjin5/20041029 はてなダイアリー - フラグ、大地に起つ! で引用されていた、「mU8r3v D4 0i+cuD3R」様の日記から一部孫引きさせていただきます。
http://d.hatena.ne.jp/homoinsipiens/20041029#1099030289 はてなダイアリー - mU8r3v D4 0i+cuD3R
(最初書いた時点では、mU8r3v D4 0i+cuD3Rさんのサイトは見ずに書きました。失礼しました。)

「無能な政府が手をこまねいている間に、市民NGOの活躍と交渉で人質は救われた」「政府が余計なことをしたおかげで日本のイメージは悪くなったけど日本市民はイラクの味方のイイヒトだから助けてくれた」エトセトラ、セトモノヤ。それはいくらなんでも自分たちの力を買いかぶりすぎだし、政府の努力を過小評価しすぎだ。

上記の二つは私も信じています。したがって「人質救出に政府は努力せよ」とは主張しません。
今回でも(潜在的)論点になっているのは、
「米軍の力を借りた人質救出」路線に対する親族側の激しい危惧感です。ニュートラルに言って、万一成功しない場合は、人質の死の可能性を数倍化させる路線ですからね。前回の人質の親族は、その路線を拒否しようと、必死で、しました。それが叩かれた。路線の問題は議論に上がらなかった。今回も私は「米軍の力を借りた人質救出」路線には反対だ。

政府なんてなくてもいい、あるいはないほうがいいなんて考え方は、彼ら市民運動家たちが実は経済的に恵まれている…*2からこそじゃないのか。

そのとおりですね。ただまあ原則的には最低生活ギリギリで暮らしている人は政府批判活動をする余裕もないし、最初から批判能力を獲得する余裕もない。批判が必要なら(経済的に恵まれてい)ないこともない批判者も必要でしょう。

日本国家と自らを同一視する以外に確固たるアイデンティティを持てない人を精神的貧困と笑い飛ばし*4、

だってそれ悲惨でしょ。

フィクションとしての聖人

吉田公平『日本における陽明学isbn:4831509213 によれば、中国思想において必須とされた概念は「修己」と「治人」という二つであった。*1
修己とは何か?

修己説の中核を構成するのは、本来成仏・本来聖人・本来完全などといわれるように、いわゆる人間の本来性を完全なものと理解する人間観である。この本来の完全性を、近世の思想家たちは、孟子の言葉をかりて「性は善なり」と表現した。このことを全面に押し出して主張したのが程朱学派である。
それに対する修正意見として、胡五峰、王陽明などの無善無悪説があるが、これは、性善説の持つ本来の活力を根本的に強化するために主張されたもので広い意味では性善説の範囲内である。
いずれにしても「人間は本来完全である」。
それは現実の人間がいかに背理の可能性に満ちて、現にどれほど非本来的姿をあらわしていようとも、それがあくまでも非本来的な姿であるからには人間はその本来性を回復できること、それも他者の力に依存せずに、自らの努力で回復可能であることを意味する。(略)
「復初」「復性」とはこのことをいう。つまり自力による自己救済を意味する。(p109-110)
*2

で、それがどうした、というわけですが、上のアーティクルのように民主主義を真正面から論じるためには、前提がいるわけです。
「本来聖人に至りうる自己」という説、そしてそれの拡大版である「世界*3に正義をもたらしうる」とする平天下の確信。現在のわれわれは儒教をそのまま採用することはできないでしょうが、上記の<二つの思想に近い物>は、民主主義を成立させるためには、必要である*4。といえると思う。
それなしに、民主主義という言葉を使っても単に、国家の行為は正しいというトートロジーを主張しているだけで、言説はいくらでも回転しますが根本的にはむなしいだけだ。
(わたしはたまたま今、中江藤樹などの本を読んでいて、儒教は現実から遠いと思われているのでむりやりひきつけてみました。jinjinjin5さんとの応答と直接の関わりはありません。)

*1:原文の記述は「である」と現在形になっていたが

*2:以上、野原による一部要約は黒字部分

*3:断じて一つや幾つかの国家ではなく天下つまり世界全体

*4:仮にそれがフィクションであるとしても