松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

世界のじくじくした縁(へり)

「世界のじくじくした縁(へり)」という題の文を書きたいと思っている。


 私と世界は自明のものとして私に与えられている。私が健康である限り世界も健康である。語りうるものだけが世界である。あるいは語りえないものはしかるべき祭壇におさまっている。ものはあるかないかのどちらかであり、あるともないとも決められないものはない。
 そのような世界像が果たして正しいのかどうか、を問いたいのだ。そうではなく、世界の縁(へり)はつねに揺らいでおりじくじくと滲んでいるのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050212#p1 で「素顔は差延する」という奇妙なタイトルで、あるところである人が死んだ話を書いた(コピペした)。ある人とは誰か。ある若い妊婦と書いてあったがいまは名前は思い出さない。
「わたしは彼女を思い出さない。」この文章はパラドックス(成立しえない文)である。対象が特定できたとすればそれは思い出したということであり、「思い出さない」は虚偽になる。彼女という言葉が発せられた以上それはなにものかを指しているわけですから、「対象が特定できなかった」場合はありえない。忘れたものはその対象を名指しえない。
 ある若い妊婦の話は、もちろん私に何の具体的関わりもない。あるメルマガで流れていたものをたまたま引用したのだ。それを引用した動機は二つ在る。一つはインドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人、そのことにわたしたちは関心を持つべきだという社会派としての関心。もう一つは、ある女性の死(殺されたこと)が私に関係あるのかどうか、という哲学的問いの素材としての関心。前者を否定できない以上、後者を取り上げるのは不謹慎だ。だがわたしの問題意識は2/12の段階でも後者に比重があった。
「ある人の死(殺されたこと)」とは私にとって何だろう。いまこのブログは二人の死者の名前をヘッダに掲げている。死者の名前を何に利用しようとしているのだろう。死者は決して語り得ない。したがって死者の名前に言及することは彼女のものであった何かをわたしが横領することであり暴力的である。だがヘッダの二人の名前は私によって選ばれある効果のためにそこに置かれている。わたしは幾ばくかの関係を彼女たちの名前との間に結んでいるのだ。また、id:noharra:11001201に、トマサ・サリノグ、朴永心という二人の女性の名前が証言と共に載っている。名前ではなく「従軍慰安婦」というおかしな普通名詞で呼ばれるだろう彼女たち。国際法廷とは普通名詞ではなく固有名としての彼女を奪還する闘いでもあった。この4人に対しては「あなたを忘れない」との思いを肯定する多少の人々の集まり(それぞれ別の)があるだろう。だが東アチェ郡の彼女について、「あなたを忘れない」と思っている人はほとんどいない。わたしにしてもそれほどの思いはない。そうした状況は是正されるべきだ。インドネシアにおける国家犯罪に対し、日本国家と国民はイスラエルのそれに対するよりずっと大きな責任を持っている。そのことは事実であり、皆がそれを自覚すべきなのだろう。
 一瞬通り過ぎたがそれきり私とは何の関係もないあるニュース。わたしが私である限り、知っているものだけでわたしは構成されている。というのは嘘である。世界の果てには幅広いじくじくした領域があり、そこではたくさんの殺人やレイプがある。そうであるのにわたしたちはそれを深くは気にせず生きている。2/12に書いた死者とわたしとの間には関係は成立していない。いや正確には「成立している」と記述する必要はない、とわたしは思う。
 わたしは奇妙なことを言おうとしているのだ。なんども書くが、「インドネシアの東アチェ県で続いている人権侵害の極限としての殺人」としての彼女についてはわたしたちは関心を持つべきだ。だがそのようにその彼女をわたしたちの価値の内側に引き入れたとき、その外側にじくじくした領域は残る。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)
南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。

そこにいる/そこにいない慰安婦

 「重大事件の犠牲者が目の前にいるときには、人は犯罪者の側ではなく、まずその被害者の立場からその行為の意味を語るべきである。」嶋津格氏は、「慰安婦問題の周辺」という論文でこう書いた。皇軍の立場=文書証拠がない云々を批判する文章なのだと推測する。岡野八代はこの「重大事件の犠牲者が目の前にいるときには、」という条件節を検討し批判する。

むしろ、ここで問われるべきことは、「重大犯罪の犠牲者」は目の前にはいないのではないか、ということなのだ。右の文章は、じつは元従軍〈慰安婦〉にされた女性について語っている論文の一部であるがゆえに、なおいっそう「目の前にいるときには」と語ってしまうことが、彼女たちの立場からはおよそほど遠いことが分かるのだ。いや、わたしはこのことばに、一種の暴力さえ感じる。なぜなら、自分たちの身に何が起こったのかについてようやく語り始めた彼女たちには、五○年近い年月が必要だった。その間、わたしたちの「目の前に」彼女たちは存在しなかったのではなかったか。さらに、何が起こったのかをまだ語ることができない女性がいることも想像に難くない。そして、元従軍〈慰安婦〉にさせられた女性たちの多くは、もうわたしたちの「目の前に」はいないのだ。(p185『法の政治学isbn:4791759699

 嶋津格は、従軍〈慰安婦〉問題に対して、「法的な祝点」を導入し、既存の犯罪類型にこの問題を当てはめようとする。しかし、現在わたしたちが「暴力」をめぐって直面している問題は、逆に既存の犯罪類型から「排除」されてしまうがゆえに、自分が被った「不正」を告発することができない、あるいは、暴力の被害に遭い、「痛み」に苦しめられているがゆえに声を発することができない人が多く存在する/してきた、という事態なのだ。つまり、わたしたちが必要としているのは、ある出来事が既存の犯罪類型に当てはまるかどうかを問う作業ではない。それは、彼女たちの個別具体的な被害に充分応えることにならない。彼女たちに何が起きたのかを、正当に検討することにはつながらない。そうではなく、わたしたちはまず、暴力を被ったひとびとは、わたしたちの目の前にはいない、見えない、彼女たちの声は聞き取れない、といった事態がなぜもたらされるのか/もたらされてきたのか、について思考を巡らせなければならないのだ。(同上)

 ある慰安婦は法の光の下に自らの声を登場させるためにわざわざ海を越えてやってきた。このブログでも二人の声の一部分は引用している。わたしたちは対自的に存在しているもののことをしか考えられないから。わたしたちは慰安婦問題がいくつもの偶然によって問題として浮上したからこそそれについて論じているに過ぎない。わたしたちがそれについて知らず(当然論じなかった)50年が存在した。その間も当然当事者たちにとってはそれは苦悩として存在し続けいたのだが。一人の慰安婦がそこに居た。彼女が沈黙で過ごした50年、そして同様の体験をしながら語ることなくすでに亡くなってしまったひとたち、また同様の体験をしながら沈黙を守り続けることを選んだ人たち、巨大な沈黙の重圧をくぐり突き破って<奇跡のように>そこにいるのだ、と理解されなければならない。
「わたしたちはまず、暴力を被ったひとびとは、わたしたちの目の前にはいない、見えない、彼女たちの声は聞き取れない、といった事態がなぜもたらされるのか/もたらされてきたのか、について思考を巡らせなければならないのだ。」そのとおりである。
 「わたしたちが必要としているのは、ある出来事が既存の犯罪類型に当てはまるかどうかを問う作業ではない。」ただ、この断言はちょっと性急ではないか。「既存の犯罪類型に当てはまる」場合は声を大にしてそれを訴えるべきだ。「犯罪類型に当てはまる」かどうかには、彼女がサバルタン(自己を表象しえない者)であるかどうかが大きく影響する。皇軍に向きあって「ジュネーブ条約」云々を口にすることができたオランダ人女性に対しては、東京裁判当時においても被害が認定されている。自己の被害を法的言説に変換しさえすれば「犯罪類型に当てはまる」と主張するのは容易だろう。あとは支援者がそれを支え、裁判官に認めさせればよいのだ。

わたしたちはは言葉を破壊する暴力を前に無力である必要はない。むしろ、わたしたちに求められていることは、沈黙を課す暴力や、<わたし>とあなた(たち)とのあいだに存在する豊かな世界を一つの物語へと切りつめてしまう暴力に抗して、いかに小さな声と沈黙であろうとも、<わたし>と他者のあいだに存在すべき豊かな文脈を紡ぎ出そうとすることばとして、それらを正当に扱うこと doing justice なのだ。(p205同書)

彼女の紡ぎだす言葉の流れは魅力的だ。だが法とは「豊かな世界を一つの物語へと切りつめてしまう暴力」に限りなく似たものではないのか。ここで取り上げた第4章にはその答えはなかった。