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[音楽]

 図書館で借りた『音楽の正体』をパラパラと読む。サブドミナントドミナントをそれぞれ愛人と妻に喩えるのは、以前立ち読みしたクイック・ジャパン岸田繁さんがゆっていた気がして、それを読んだとき僕は「おお、岸田さんすげー」と思ったものだったが、あれってこれの紹介だったのか。そのクイックジャパンの記事には図まで入っていて、その多くが愛人と妻に喩えられた音楽理論の話だったので、そう考えるとちょっと謎なのだが、ちゃんと参照してるわけじゃないから結局謎なままだ。

[文学]

 図書館で借りた、先月号の『新潮』を結構ガッツリ読む。今月号には岡田さんのノベライズが入っているので購入したいと思っているが、この先月分11月号も凄い面白い。新潮という会社には、実は作家の佐藤亜紀さんの件(すごい酷い話。だけど佐藤さん発の記事しか読んでいないのであくまで主観だが)があって印象がずっと悪かったのだが、でもこの文芸誌『新潮』はしばらく前からどうも好きで、さらにどうもここ最近その感覚が増している。
 11月号の目玉は何と言っても新人賞の発表で、今回の小説部門受賞は田中慎弥さんの「冷たい水の羊」だが、僕はこれがかなり好きだ。実はこれを読む以前に僕はこの人を知って、何でかっていうと、受賞してすぐくらいにもう新聞の文芸欄で採り上げられてしまっていたからだ。それも、何歳で受賞とかいったセンセーショナルな社会的意義としてではなくて、内容が良いからという採り上げられ方で、こういうのって珍しい気がする。実は最近の『新潮』がどうも好き、というトピックの中には、この新人賞の受賞作家が好みに合っている、ということもあるかもしれなくて、要するにこの号に受賞第一作を発表している佐藤弘さんの受賞作「真空が流れる」も何となく、というか随分好きで、その好きの「質」というものがどこか、僕が村上春樹を好きなその「質」に近い気がしていて、そういう好きになり方はこれまで瀬尾まいこ長嶋有川上弘美の『神様』ぐらいだったことを思い出すと、これは間違いないのかもしれない相性として、思わざるを得なかったりもする。で、その受賞第一作であるところの「拍手と手拍子」が僕はやはりというか、かなり好きな感じだった。というのは、ストーリーや会話の雰囲気が、ということでは実はなくて、ここにあるトーンというか、その空気の流れ方、留まり方、温度、匂い、そういったものがどうにも好きなのだ。この人の作品を読んでいると僕は、自分が過ごしたかもしれない、でも100%断絶した、こことは別の現実世界に思いを馳せざるを得なくなってそれが虚しくて心地良い。いつだったか僕のアンテナにも入っておりますid:kataru2000さんが、村上春樹の小説を指して「ぶっちゃけ男のためのラブコメ、ロマコメだと思う」と書かれていて(http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20050621#p1)、まったくその通りだ!と思ったことがあったので(一般論としてではなくて僕の受容の仕方が)、こんな風にとうとうと書いていると自分の性癖を披瀝しているようで恥ずかしいのだが、でも佐藤さんイイよ!と思っていることは一応エントリーしておこうと思って書きました。*1
 それにしても以前ナオコーラさんの新人賞受賞作のことを書いたときも結構長めに書いたのだけど、ナオコーラさんの空気感と佐藤さんのそれは僕にとって非常に似ていながら(気温は近い)質感が微妙にしかし厳然と異なるのでそれも個人的に不思議だ。
 同誌では見沢知廉さんの遺作「愛情省」も読んで、とても良かった。僕は彼の作品を初めて読んだのだが、他の作品も読みたいなと思った。かつての作品であってもそれらは皆僕にとっては新作で、ああそう考えたらドストエフスキーの「カラマーゾフ」やバルザックの「ゴリオ爺さん」だって新作なのだが。

*1:ところで、ここでかたるさんが書かれている「何故か女性にもウケてるのが不思議」というのは興味深いテーマで、そこら辺は女子のハルキストにアンケートを取ったら話は早いと思うのだが、軽く想像してみるとやはり主人公の中性性が女子的にもリンクしやすいからとかなんじゃないかと思わないでもない。後は「死」というのが導入アイテムとして効果的にはたらいている気もする。

[岡田利規]

 チェルフィッチュの新作『目的地』公演は本日でひとまず終了。岡田さん、メンバーの皆さん、おつかれさまでした!ということで、もうネタバレ関係もいいだろうと少しだけ昨日の感想書きます。
 いきなり本論から書くと、これは多分第3回だけではなくて第2回の「大谷能生フランス革命」註釈論考にも沁みてくるであろう僕の現在の通奏低音的テーマになってしまっているのだが(そしてそれは、実は先に挙げた新潮11月号における大江健三郎インタビューとも深くリンクしているのだけれど)、僕はチェルフィッチュの芝居を見ながら「人生とは?」ということを考える。それはチェル(以降チェルにする)を語る際に挙げざるを得ない「言葉と身体」の関係とか「ダンスと演劇」の関係とかいったこととおそらく同列にありながら、でも僕は芝居を作る人間じゃないから更に別の場所へ敷衍しながらそのことを考えている。
 でも最初に断っておくと、「チェルの芝居を観ながら人生について考えた」からと言って、それが今回の『目的地』において触れられていたある種のテーマ、ないしストーリーと上滑りするように繋がっているのかといったら全く違って、ここで僕の言う「人生」というのは他でもない僕の人生であって、他の誰かに演繹使用できる概念のことではない。
 思うに、岡田さんがチェルの登場人物にダンスにも似たしぐさを指示するのは(それは厳密な振り付けではないという意味では指定というより指示なのだが、しかしかといって曖昧なものを目指しているわけではない、という意味では指示というより指定に近い気もする)、それが我々人間に生の喜びをもたらす糧となる「美しさ」を現出させるためなのだが(主観)、その経緯なり結果の一つであるところの本公演を観た後で僕が思うのは、「我々はどうして生きているのか」ということで、何でそんなことを考えるのかというと、面白くて美しいものを観てしまうと僕は「どうしてそんなものがある必要があるのか」ということしか考えられなくなるからで、それは多分僕だけじゃないんじゃないだろうか。といっても、昨日の公演中に関しては僕の頭の中は空っぽ、というか真っ白、というか銀色で、目の前で展開していく光景を目や鼻なんかからズルズルと体内に入れてはどこかからろ過するように出していただけで、考えることはその後にやっている。
 話を戻すと、頭の中で「我々はどうして生きているのか」なんてことを考え始めると、ひとまずの帰結として「それしか出来ないから」というちょっと消極的風な答えを用意することしか出来ないのだが、その問いが「では、この人(たとえばチェル)はどうしてそんなことをしているのか」となると、「それは、”使い果たす”ためだ」という、若干上がり気味の答えになる。思うに、今回の『目的地』公演を進めるにあたって、チェルはその「使い果たす」をかなり実直に行ったはずで、それは「実直に行っている私」を演出する方向とは真逆にある姿勢として、注意深く、と同時に果敢に行われたのだろうと思う。ちなみにここで言う「果敢」さ、というのはこれは結構わかりやすい意味なのだがそれは革命レポートの註釈に回すとする。
ユリイカ2005年7月号 特集=この小劇場を観よ! なぜ私たちはこんなにもよい芝居をするのか で、さっきも書いたように僕は公演を観ている間は何も考えていなかったのだけど、ひとつだけ考えていたのは岡田さんが『ユリイカ』の「この小劇場を観よ!」に寄せていた論考に書いていた”イメージ”(ないし”シニフィエ”)のあり方ということで、それは「語られる言葉、目に映るしぐさの後ろには、膨大な量の”イメージ”がある」といった話なのだが(主観)、ではそのイメージはこの目の前で行われている芝居の一体どの辺に位置して、またはどのように取り巻いているのかしら?ということを考えていた。それでその結論を言ってしまうと、実は初めの内、『ユリイカ』を読んですぐの頃の僕は、それ(イメージ)を「家の土台」のような、足元のものとしてあるのではないか、と想像してみていたのだが、そしてまたその想像は、「自分を形作っているのは、過去なんだよ」という簡易に捏造したテーゼを元にしたものなのだったが、芝居を観ているうちに「いや、それはこの照明のように、雲の上からシャワーのように降っているのではないか」と考えるようになった。なったのだが、今こうして書いている内に今度はまた、「いやいや、でも家の土台っていうのもやっぱり悪くない想像じゃないかな」と思い始めていて、さらには「過去が頭の上から降ってくるって想像も悪くないような気が」とも思い始めて、結局のところそれならそれは、全方位から取り囲みまたすり抜けるような形で、あたかも宇宙に流れるニュートリノのようにして体の中外を存在しているという想像ではどうか、と思ったけど、でもそれは「ニュートリノ」という言葉を使ってみたかっただけかもしれない。

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本ブログ内関連記事→http://d.hatena.ne.jp/note103/20051117#p3