ほぼ足りてまだ欲 その先

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国家反逆罪

 日本には国家反逆罪という罪はない。この国に国家反逆罪を作っちゃ大変だろうと思う。なにしろ「非国民」を簡単に振り回してきてしまったという経歴がある。今だって何かというと簡単に「非国民」と冗談交じりにも、冗談交じらずにも口にしちゃうし、聞く。米国には国家反逆罪がある。先日、アル・クァイダのメンバーといわれる米国籍の男性に国家反逆罪を適用、と報じられた。その際に久しぶりに名前を目にしたのは1952年に国家反逆罪を適用されたのが川北友彌であり、彼以降米国では国家反逆罪は適用されていなかったというのが私の理解である。しかし、川北は開戦前に日本に来た時は日米の二重国籍だった。それを明治大学を卒業して日本冶金に就職する時に米国籍を捨てて日本国籍になったはずである。つまり、これ以降彼は米国人ではなくなった。にもかかわらず戦後、それをなかったことにして米国への帰国を申請して、懐かしいカリフォルニアに帰国したことがそもそもの大失敗だった。彼は収監されたが、ケネディ大統領の恩赦で釈放、国外追放となって日本に帰った。つまり、彼の心の中では本来のふるさとであった米国から追放された。
 多分米国における国家反逆罪適用第2号だったのではなかったかというのが、先日亡くなったアイバ・戸栗だろう。彼女もほぼ川北と似ている。彼女は開戦前にUCLAを卒業して日本にいるおばさんのところにやってきた。彼女の場合は純粋に米国籍だったはずだ。戦争中に軍が実施していた対連合国軍宣撫放送に従事。戦後日本に入ってきた米国マスコミに「東京ローズか?」と聞かれて「そうだ」と答えた所から晴れて戦後の故郷での生活を楽しむということからほど遠い生活を送る羽目となる。
 戦時中にこの種の放送に従事していた「敵国人」の中には捕虜もいた。それも米国人だけではなくて、豪州人もいたのである。チャールズ・カズンズはシドニーに今でもある放送局2GBのよく知られたパーソナリティだった。彼もまた戦後豪州で国家反逆罪に問われたが、適用を免れている。
 彼ら三人に異なる点は一体どこか。北朝鮮から帰還した元脱走兵は国家反逆罪に問われたとは聞いていない。その違いは一体なんだろうか。

BS特集「日本と戦った日系人〜GHQ通訳・苦悩の歳月〜」後編

 やはり昨日の前編で聞いたMIS(陸軍特別情報部隊)における日系人はどうやらやはり6000人いたようである。当時の記録は1990年代から公文書館で情報公開されてきたのだそうだ。ハリー・フクハラがその三期生であったMilitary Intelligence Service Language Schoolの一期生であったトム・サカモトは1945年8月30日に日本にGHQの広報班の一員として上陸。日本軍捕虜に「貴様!それでも日本人か!?」と怒鳴られた(と彼は日本語でいった)。
 サカモトは9月9日、つまり原爆投下の一ヶ月後に広島に行っている。「A-Bombはwhole cityのairを吸い取ったようで、silent movieの様だった」とコメントをしているが、周りの日本人が「He looks like a Japanese」といっていたことを覚えているという(彼は英語で言った)。「赤十字病院でのことを思い出すと今でも息が詰まる」と彼は辛そうに云う。新聞記者たちにとっては特ダネだと云うことになるが、そこは死体だらけの病院だったのである。「No combat soldiers, only women, oldmen・・・、たった1ヶ月後なのだから惨憺たる有様であった。帰り道には新聞記者も含めて、みんな静かになってしまったのだ。Korean War, Vietnam Warでも従軍したが、あれが一番ひどかった。It’s difficult to explain how we feel」二世が占領軍に勤めながら日本を助けていきたいと思っていた。日本の破壊に加わった罪の意識があったのだと思っているという。
 一方、ハリー・フクハラは1945年10月になって広島に行き、家族を捜した。神戸から広島へジープで行く。爆心地から4km離れた実家へ行くと家そのものは残っていた。ノックしても返事がなく、家の周囲を歩いてみるとガラスというガラスは全部壊れていた。すると女性が二人入り口に立った。母の姉と、自分の母であった。おびえて佇んでいた。伯母が「ハリー!」といった。母は信じられずに私を見つめていた。原爆が落ちた時に外にいたので放射線を浴びていたのだけれども生きていた。兄の克己は二階に寝ていた。兄は死にかけていたのである。「原爆のradiationで彼の背中は・・・・」ハリーはそれ以上話すことができなかった。兄の背中の皮は全てなくなっていたのだ。ハリーは兄を神戸に連れて行き治療を受けさせたが結局半年後に死亡し、母は癌になった。
 朝鮮戦争が始まった翌月マッカーサーは吉田首相に7.5万人の警察予備隊の組織を命ずる。MISの一期生であったジーン・ウラツはG-2歴史課に所属し、旧日本軍将校12人の世話をする。米軍高級将校と同様に遇せよと命じられる。その中には河辺虎四郎、服部卓四郎といった本来公職追放されるべき立場にいた人たちが含まれている。C.A.ウィロビーは「指揮官候補は力不足」として旧日本軍人を使うことを提案した。
 レイモンド・アカは予備隊設立に尽力。アカは沖縄出身で米軍軍事顧問団の一員となる。警察予備隊についての米軍と吉田首相との間の通訳となる。2000年のアカへのインタビューで、「国内の治安を守るためにできた、米軍が朝鮮半島に出兵したあとを埋めるという役割でできた。G-3が警察予備隊を担当した」と証言する。2006年春に公開されたバージニア州国立公文書館の資料に、GHQ内部で警察予備隊についての異論が噴出していたことが判明する。軍事能力を速やかに高める、米軍の作戦に含めるという意見の一方、国内治安に務める、戦争とは切り離すべきだという意見が出る。ハリー・フクハラはこれまでアカと何度も会っていたが予備隊については話してはいなかった。
 内海倫(ひとし)元防衛事務次官は証言する。1950年7月、マッカーサーから吉田茂は予備隊創設を要請された。旧日本軍人抜きで構成しようとした。「スタッフ、参謀は旧軍人であるべき。200名に限って追放の対象からreleaseするとしたのはG-3であった。」元中佐以下を採用することを認められた。警察予備隊といいながら、旧陸軍のorganization、人材が復活してきた。ホイットニーの後任は軍国主義の復活を許さないとしていたが、実際には米国が要請してきたのはどう考えても軍隊だった。
 トム・サカモトは米軍統治下の沖縄で高等弁務官の補佐兼通訳として赴任。高等弁務官は本土復帰運動の中での日本からの教職員組合への資金のもとを絶とうとしたが、その時サカモトはやらない方がよいと進言した。
 ハリー・フクハラの二人の弟は戦後日本の大学を卒業して日本に暮らしてきた。同じ二世だけれども暮らした所が違うからそれぞれは違うと弟二人は云う。彼らは二人とも九州にいて本土決戦に備えていた。上陸するであろう米軍を阻止すべく命令されていた。戦後、兄、ハリーに神戸の司令部に連れて行かれた時に番兵が兄、ハリーに敬礼をしたのでびっくりした。その場で紙にタイプをしてパスを出してくれた。「衣服を支給し、食事をサービスせよ」というものだった。
 ハリーは云う。「兄弟四人が全員それぞれの軍に所属していて死んだのはたったひとり。私たちは運が良かった。兄が可哀想だった。戦争とはこんなモンだろうけれど、それは世界中の全ての兄弟が戦争をしているようなものだ。日系二世は日本に対する忠誠というものはない。それでも米軍の中でもいじめられたけれども、欠点の多い米国が自分の国なのだ。」