ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

nsw20722007-02-25

【写真:待乳山聖天さん境内に建っている「トーキー渡来碑」なるものでこんなことが書いてある。
「リー・デ・フォーレスト博士は明治6年米國アイオワ州に生まれ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラヂオの父と仰がる、大正十二年更にトーキーを発明、紐育市に於いて上決世人を驚かせたり。大正十三年故高峰譲吉博士令息エヴェン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰國、大正十四年七月九日宮中に於いて天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮殿下のご覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーのわが國に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我國におけるトーキーの製作を企図し日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正十五年大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我國におけるトーキー製作の濫觴なり。爾来トーキーは日進月歩、昭和三年の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。今やトーキー我國に渡来してより三十年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各國に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我國テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和二十三年、フォーレスト博士は極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設を慫慂(しょうよう)したり。余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙(つと)にテレビジョンの創設に意あり、フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し遂に昭和二十七年テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。良く二十八年八月三十日日本における最初の電波を出せり。これ偏(ひとえ)に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基づくものと云うべく吾人の感謝措く能わざるところなり。今日トーキーの普及発達は実に目覚ましく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン創成の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。昭和三十一年五月吉日 建碑者 皆川芳造」
 デジカメで撮ってきた碑文をテキストにおこしたものだけれども、時間をかけて起こしてみたものの、なんちゅうか、単なるこの皆川おっさんの自慢話でなんだよ!てなものだったが、この中にある映画「黎明」の「音的効果・和田精」は和田誠のお父さんなんだとこちらに書いてある。
 確かに日本テレビ放送網が日本の第一号テレビ電波許可を受けたのに、放送を開始したのは1953年2月にNHKが最初であり、日本テレビが放送開始したのは半年後の8月になってからである。以前に聞いた話では日本テレビ放送網は米国から機材を輸入することになっていたのだけれども、それが間に合わなかったと聞いたことがある。NHKは国産機材だったという。その当時から米国メーカーの納期ってのはそんなのが当たり前だったのか、それとも不慮の出来事によるものだったのかは知らない。あぁ、疲れた。】

外食

 初めて外食をしたのは一体いつのことか全く記憶にはないが、あまり大したものではないはず。実家のそばの駅近くにあった東映封切館にオヤジに連れられて見にいくチャンバラ映画が撥ねた帰りにそのそばにあった日進なんとかという食堂でハヤシライスなるものを食べた記憶がある。今から考えるとろくすっぽ肉なんてものは入っていなくて、語源だというハッシュト・ビーフからはほど遠い。だから私の年代は「ハヤシライスの語源はなんでしょう?」というクイズを出されても納得できなかったのではないだろうか。上になぜかグリーン・ピースがパラぱらっと乗っているというものであった。
 鮨はなぜか近所の「おかめ寿司」というのがあって、今でも何かというと実家に集まると出前して貰ったりする。今はもういない実家の両親の金婚式記念食事会はあそこの二階で、姉がカラオケまで用意してくれた。今と違って、私たちの世代だと家族でカラオケをやるなんて見せない手の内をさらけ出すようでイヤだった。それでもエルビスの大ファンだった姉と私はそれぞれ何かを唄ったと思うが、ほとんど盛り上がらなかった。昔はおふくろが良くひとりで喋りながら唄っていた。あの人は本当に唄が好きだったんだろう。何かにつけて唄った。オヤジは唄は好きだったが、下手だった。なにしろ不器用だったからだ。身体がでかいくせに、イヤでかかったからか、ゴルフも下手だったし、野球も下手だった。そのくせ下手の横好きだった。そんなところが私はそっくりだ。好きだけれども下手だ。
 ナイターを見にいこうとなった日にはこの鮨屋助六の折にしてもらってそれを抱えて川崎球場に行った。そばの類は「藪そば」から出前して貰ったり、散歩代わりに歩いていって食べた。地元はコミュニティができあがっていてたまに行くと心地よいが、ずっと同じところに住んでいたら、私はきっと息苦しくなったかも知れない。しかし、それがあったからこそ後ろ指を指されるようなことをするわけにはいかなくて、自制が働いていたのかも知れないと思う。今や、いつどこへ出かけようと帰ってこようと誰にも見られるわけでもないし、誰もそれを見ているわけではない。

朝からでかける

 久しぶりに日曜日の恒例の場所に出かける。以前はちゃんと毎週いっていたのに、最近はほとんど月一か二ヶ月に一回だったりする。今朝は寒くて日だまりを選んで歩く。風も冷たく、なんだかかつてのスキー場での風を思い出した。そうした寒さの中に行かなくなって久しい。前回行ったときも感じたのだけれど、新しい歌集が重たい。
 帰りはぽつぽつと歩きながら駅三つ分くらいを歩く。すると横丁から20-30人くらいのおじさん、おばさんの集団が現れ、いわゆる「看板建築」のお店の前で誰かが説明をするとみんなで一斉にその方向を見て、それぞれがカメラを構えてパチパチっと撮る。すると即座にそこから角を曲がって路地の中に入り、その先の昭和初期の建築とおぼしき古い家の前でみんなで固まっている。なるほど、やっぱり古い家を見て歩くというレクチャーのようなことをやっておられる方がいるものと見える。私もその手のものが嫌いではない、というよりは好きだけれども、あぁしてゾロゾロやられるとちょっと引いてしまうものがある。思わず通りの反対側にわたる。
 朝きちんと起きだして昼飯時にちょこちょこ歩き、250円の弁当とサラダを買ってきて食べ、やれやれと机の前に座ったらすっかり眠くなってしまって、頑張っていたんだけれど、ついに1時間ちょっといぎたなく昼寝をしてしまう。これじゃただただひたすら寿命を縮める努力をしているだけのような気がしてきた。

「アメリカ在住日系人強制収容の悲劇」

アメリカ在住日系人強制収容の悲劇 (世界人権問題叢書)

アメリカ在住日系人強制収容の悲劇 (世界人権問題叢書)

 明石書店 1997 大谷康夫著になるこの本はタイトルから見るとこれまでに何冊も出版されているであろう、いわゆる第二次世界大戦中に行われた米国西海岸地域での日本人・日系人強制収容(米国ではrelocation=転住とされていた)についての著作のひとつと理解されやすい。私もそうした一冊だと思っていた。この分野については私は20-30年ほど前から何冊かを読んでいたのでほぼ理解しているつもりであったけれど、出版社が明石書店であること、そして私が日本を留守にしていた時期に出版されていること、つまり店頭でも見たことがなかったので、地元の図書館の蔵書中に発見してすぐに借り出してみた。すると、著者は中国人労働者から始まった米国での黄禍差別に晒された日本人労働者、移民の苦しみから始め、日米開戦に伴う米国の対日本人の扱いを行政、司法、立法の面から分析していて、国家反逆罪に問われた二人の日系人についてその疑惑のきっかけ、その法解釈、その後の扱われ方について触れた、私が知る限りでの4人目の著者といって良い。しかし、この著者がこうした米国における日系人への戦中の扱い、そしてそれへの解決の方法を提示することによって浮き彫りにしたいと願っていることは、他ならぬ私たち日本人がこれまであの大戦以降に扉を閉ざし続けてきた当時日本人として扱われていた、現外国人の人たちのことであることを知った。タイトルからだけではその趣旨は窺い知ることができなかった。
少年犯罪の深層―家裁調査官の視点から (ちくま新書)

少年犯罪の深層―家裁調査官の視点から (ちくま新書)

 同じような意味で、まだ読みかけ中だけれども「少年犯罪の深層ー家裁調査官の視点から」(藤川洋子著 2005 ちくま新書)もタイトルからだけでは窺い知ることのできなかった内容に踏み込んでいて興味深い。少年犯罪と自閉症スペクトラム障害との関係を語ろうとしている著書は他にもあるのだろうか。私はこの分野にこれまでほとんど踏み込むことをせずに来た。しかし、これは看過できない問題だ。親の教育方針の問題であるとして観察してきた事象はそうした障害を検討する必要があるかも知れないということと、親の側にそうした障害を疑う必要があるかも知れないという二つの意味での観点を持つ必要があるということに気がつかされる。

他に方法がない・・・のか。

 TBSの日曜日夕方といえば田丸美鈴の「報道特集」である。今日は前半は浦安の無認可介護施設「ぶるーくろす癒海館(ゆかいかん)」の拘束を含む虐待事件がテーマだった。全くの無認可介護施設というものが存在しえるというのが現在の日本の立法の現状だということに改めて確認をする。元もとこの事件は三ヶ月間だけこの施設で働いた経験を持つ男性職員の内部告発から始まっている。10数人の利用者に対し、厨房担当者以外には職員は4人でそのうちの3人は住み込みではあるが19時に勤務が終了して、それ以降は全く利用者に対しての介護サービスは行われないのだという。従って閉じこめ、拘束しておかないと様々なことが起きてしまうというわけである。この施設のパンフレットには「終末型有料老人ホーム」と記載してあった。入所金が30万円で月々の費用が月額15万円だという。格安である。
 「有料老人ホーム」という枠はこうした枠でもある。つまり、ピンからキリまで存在する枠である。その辺のマンションに何人か集まって暮らしているのとなんの変わりもない。だけれども家族はそれでも生活をこれまで通り続けることができるというわけである。15万円で一ヶ月間預かって貰うのは安いのか、あるいは安くないのか。市当局による立ち入り調査も事前通知付きの昼間の調査だから実態なんてわかるわけもない。それで良しとする背景にははっきり言ってこの種の施設を黙認するしか方法がないからなのではないだろうか。病院でもほぼ高齢者の収容施設ではないかと思われる病院だって存在している。
 なぜこのようなあたかも「なんでも良いから預かる」型施設が存在しえるのかというと、それだけニーズがあるからである。いくら在宅介護でできるだけそれまでの状況と変わらぬ形での生活を保っていこうとしても24時間の在宅介護を受けるには相当な費用がかかる。今の介護保険の中で賄うのは難しい。金さえあれば話は違う。しかし、今のこの状況ではそんな在宅介護を受けられる人はほんのひとつまみ程度。すると施設に入れて貰えればどうにか24時間介護を受けることができる可能性が高まる。しかし、そちらの施設にはながぁ〜〜い列がいつまでもできている。列が解消した、すっかり列はなくなっていつでもお世話になることができるようになったという話は全く聞かない。そしてこれからこの国は高齢化率がもっともっと高まってどんどん絶対数が増えることが誰も彼もがわかっている。だから、解消するはずもない。ある県の介護福祉課の担当者は実態を把握する方法がないという。そんなはずはないだろう。やる気がないだけである。地域社協もやる気になればできる。しかし、これまでこの分野の行政、そして社協はそんなことをやる立場に立ってこなかったし、行政の側は長らくこの分野を担当するのは中でも影の薄い分野だと思われてきたわけだからどうしてもポジティブに立ち向かうというベースが弱い。個人の資質に依ってしまう。組織で立ち向かうためには絶対的な基盤が必要である。そのためにはこの部分については「大きな政府」と成らなくては実際に執行できないのだ。誰かが大声で怒鳴り立てて行ってしまった「小さい政府」とはこうした部分をどんどん斬り捨てるということに他ならない。経常利益前年比100%超増なんていう利益追求法人の法人税をサービスしてやろうなんて発想を持つ政府はこれから先の社会をまともなものにする姿勢にあるとはとても思えない。
 その上、介護サービスに従事する人たちには低賃金という全く徹底的にやる気のわかない要素が張り付いて離れない。全く改善されるであろう傾向すら見られない。結婚する気持ちにも成れない状況にもかかわらず、子どもを育てようと頑張る人たちには本当に本当に頭が下がる。どこまでも前向きに頑張ろうとする若い人たちにきちんと報えるようなシステムを作り出せないことに歯ぎしりをする思いである。
 さて、話は戻って、介護の世界は一体これからどんなことになっていくのだろうか。表の状況が将来の状況を見据えた施策となっていない限り、裏の状況がどんどん予想のできない形態まで生み出して発展してくであろうことは当たり前のことである。私がいくら生きたとしてもせいぜい後20年(そればっかりいっているんだけれど)。その間にこの分野の施策が驚くほどの発展を見せて「あんな心配していたけれど杞憂に終わって良かったねぇ」なんていえる時が来るだろうか。あんまり望むべくもなさそうな気がする。ピンピンコロリを願うしかなさそうだ。さもなくば、こんな類の施設で消耗して終わるのかも知れない。そんな時、いわれるんだろうか。「おまえは昔、この種の施設をこきおろしただろ?えっ!白状しろ!これでも白状しないか!」と両手を縛られてしまうのかも知れないなぁ・・・。そして私はぽつんと言っているのかも知れない。「あぁ、おしりのあたりが気持ち悪いなぁ、だけど手が動かないや。もう、どうにでもなれ・・・」あたりはコトリとも音がしない・・・。