ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

いや、別に反応する気はないのだけれど

 何がきっかけで見付けたのかはとうの昔に忘れてしまったんだが、ある方のブログに、あの大学の先生でありながら、次から次に新書や文庫を書きまくっている斉藤孝の言葉が紹介されていて(第一次資料にあたっていないところがちょと心配であるが引用してしまう)こんなことをいっている。

声に出してなんとかシリーズの 齋藤孝は、NHKのニュースのコメントでこのこと*1について、中高年と言ってもビートルズ世代だから必ずしも日本語に強いわけではないというようなことを言っていました。

 う〜んと、中高年をひっくるめてビートルズ世代だといってしまうのも凄いけれど、ビートルズ世代だから日本語に強いって訳でもない、って論理も相当に凄い。斉藤孝の本は実は一冊も手にしたことがないので、どんなニュアンスでものをいう人なのかわからないけれど、凄いコメントだと思ってしまった。まぁ12日未明のNHKラジオ深夜便ビートルズの初期の曲が13曲かかったくらいだから、確かに今の中高年(随分幅が広いが)がビートルズサブカルチャーとして育ってきた人は多いだろう。
 あ、やっぱり気になるけれど、中高年って誰だ?「ビートルズ世代=中高年」とするといわゆる65歳以上の社会福祉学的な定義での高齢者を含んでいないのではないかと思うけれど、どうだろうか。そうだとすると65歳未満で、まぁ、45歳以上を中年の範疇に入れるとすると(私も全然根拠のない話をしているが)、45-65歳までとでもいうことになるだろうか。上は1942年生まれの戦中生まれから下は1962年生まれまでで、なるほど若い人でも3-4歳の時にビートルズが日本に来ている。なるほどと納得するとでは65歳以上をどうするのか、ということと同時に、何故ビートルズ世代が必ずしも日本語に強いわけではないという表現が採用されるのかが理解できない。
 ま、自分がまったくその中に位置しているからちょっと気になっただけだ。確かに自分も日本語にあんまり長けているわけでもない。挙げ句の果てにその他の言語にも長けてはいないんだけれどね。

*1:「慣用句の意味について、中高年のほうが若者世代よりも間違える傾向があるものもあった」ということ。

毎年この日は

 【写真左:1956-7年頃の宗谷。写真右:1998年3月シドニーでのレセプション当日の「しらせ」】南極観測支援艦「しらせ」が晴海を出航する日である。1982年に完成した「しらせ」は1983年の初めての南極への航海以来毎年この日に晴海を出航してきた。今年の航海は大きな意味を持っていて、これが南極への最終航海になる。もう既に竣工以来25年が経つ。
 私は小学校の時に南極観測が始まって宗谷が海鷹丸に伴われて南極へ行ったことをかすかに覚えている。1956年のことで私は当時の宗谷のモノクロの絵はがきを持っていた(写真)。その上、ソ連のオビ号に助けられたり、船の能力と天候状況のゆえに樺太犬を南極に置き去りにし、翌年行ってみると「タロー」と「ジロー」が生き残っていた話は今でも涙なしでは語れない。宗谷は帰ってくるごとにボロボロにダメージを受けていたそうだ。毎年何かしらを取り付けては1962年に新造艦「ふじ」に代わるまで南極に行った。その後は本来の海上保安庁の船として北の警戒に当たり、1978年に退役。そこから今に至るまで有明船の科学館に係留展示されている。今行ってみると、本当に驚く。良くもまぁ、こんな小さな船で南極まで行ったものだと。「ふじ」は21年間南極に行き、退役。名古屋でやはり係留展示されている。しかし、今の「しらせ」は保存されることなくスクラップ化されることが決まったのだという。次の船は2009年にならないと竣工しないそうだけれど、その船もまた「しらせ」という名前になるのだそうだ。私はちょっとそれはないだろうという意見だ。このあと「しらせ」といった時にそれはどっちの「しらせ」を指すのかということになって混乱の元になる。そんなことをするのなら「しらせ-II」とでもして欲しい。
 来年の春、3月末に晴海に帰港するとそれが最後になるということだ。1982年10月の雨の日に初めて乗ったことを今でも思い出すことができる。あれからもう四半世紀が経ったということだ。あの頃は本当に今とは比べようのない程の景気だった。

中学・その三

 中学二年の時はそれでも今から考えると結構ゆっくり楽しんでいたんじゃないかと思う。ほぼ毎週だったと思うのだけれども土曜日は午前中で授業が終わるとそそくさと菓子パンなんか買いにいっちゃたりしてなんだかんだと時間を潰し、午後には校庭でフォークダンスに熱中していた。オクラホマミキサーだとか、コロブチカ、マイムマイムなんて曲を何回も何回もかけてはぐるぐる回って踊っていた。仄かにドキドキしたりなんかしながら。
 国語の授業だったのか、社会科の授業だったのか知らないが、新聞を作るということになった。多分グループになってそれぞれが手書きの新聞を作ったんじゃないかと思う。その頃バレーボールのクラス対抗が何週にもわたって放課後に試合があった。
 当時は勿論9人制で、学校で教えるバレーボールが6人制が主流になったのは東京オリンピックの女子バレーボールが優勝した頃じゃないのだろうか。ちょっとググって見ると今でも国体では9人制が行われているけれど、2010年を最後に国体でも廃止されるんじゃないかといわれているらしい。
 二回戦くらいだったかでわが2年N組(最後のクラスはP組である)はひっくり返されて負けた。なにしろ報知新聞を読んでいた私だから、「惜敗」と見出しに持ってきて先生に誉められた。なぁに、単なるパクリだ。それで気をよくした私はクラスの新聞をガリ版で出すことになった。そこからだ、私が書く字がガリ版の升目を埋めるために四角くなった。物事はちょっとしたことで転がり出す。おかげで今でも私の手書きの文字はひと頃よくいわれた「丸文字」風である。35歳くらいの時に職場の上司に良くからかわれた。「うちの娘が笑っていたぞ」と。すんまへん。
 私はそれから学校の新聞委員会のメンバーになった。学校が出す、ちゃんとした活版印刷の新聞の編集、発行に加わる。といっても編集委員会とか、会議とかそんなものがあったような記憶がないのだ。やったんだろうか。その作業に加わって最も覚えているのは印刷屋さんに原稿の類を届けに行ったりしたことだ。多分、編集は先生方がやっていて、その小間使い、まぁいってみればむかしの新聞社でいう「給仕」だったのではないだろうか。
 その印刷屋は都心、それも築地にあった。そういえば長ずるに及んで会社のCI担当をやった時にマニュアルの印刷をやって貰う清澄通り沿いの印刷屋さんに行って色チェックに立ち会ったけれど、まさにあの辺だった。印刷屋さんが多い界隈だ。当時は有楽町まで京浜東北線で行き、数寄屋橋から都電で築地方面に行った。往復乗車券を買って帰りもまた数寄屋橋に戻ってきた。多分ひとりで数寄屋橋・銀座あたりに出かけた人生最初の日のことだろうと思う。それまでは何度かこの界隈に行った記憶があるのだけれど、それはひとりではなかったはずだ。まさか3年後にこの辺をごろごろしていたりするとはとても思えなかった。
 【写真:中三の春。女22名、男33名、合計55名】中学三年の春になって、幼なじみ同年齢の「ようちゃん」、そして彼の二つ年下の弟「こうちゃん」なんかと英語の塾に行くことになっていた。中学の選択もそうだが、私は自分で決めたことは何もない。多分これまでの人生のポイントで、自分で物事を決めるようになったのは45歳を超えてからだろう。結婚を除いて。
 その塾に初めて行ってみるとそのシステムは目を見張るものだった。2時間を週に二回、一回は日曜、もう一回は平日の夜である。およそ百人ほどの生徒がひとりの先生のまわりに椅子をぐるんと並べ、膝の上に当時はやった扁平なバッグを置いて、その上で本を拡げる。
 今でいえばどちらかというとコミュニカティブな部分に重きがあって、それまで学校で徹底的にやったことのない発音記号を口に出して覚え、重要なことは口に出して何度でも先生の音頭に合わせて復唱して頭の中にたたき込む。2時間の中で出てくる文章をすべて暗記して次回の授業に臨む。しかも、出てくる文章の数が半端じゃないから油断ができない。閑さえあればその文章を見ては口をもごもごさせて暗記する。当時私は越境して通っていたくらいだから通学中の電車の中の時間をすべてこのために費やしていた。それでも、ちょっとさぼると暗記しきれず塾に行ってからももぞもぞ暗唱している。油断がならないのが、先生がとんでもない時に指で差して順番を外して復唱しろと指名することだった。立ち往生したことは何度もある。前の方には進学校に行っている優秀な生徒が座っていて、私達は少しでも先生の目につくまいと後ろの方で背中を丸め、先生から見えないようにして暗唱していたりすると、余計目立つのか、あてられてしまうのである。
 本当はこの塾は中学一年からクラスがある。私は中学三年の時に入ったのだから、みんなに比べると2年遅れている。どうするのかと思ったら、なんと中一、中二、中三のクラスに全部出るのである。どういうことになるのかというと、日曜日は朝から三クラスに出席する。平日は6日間の内で3回はその塾に行くのだ。だから、一週間に覚える文章としてはとんでもない数になる。これは辛いだろう。そりゃ辛いだろう。それにしてもあの先生は本当にタフだった。あの頃お幾つだったのか知らないが、全部にでているのだから。たった一人で中一から高三までのクラスをこなしていたのだ。

忘れていた本

 例の日米交換船に乗っていた天野芳太郎の「わが囚われの記」(中公文庫 1983)をひょんなことから書棚に発見。やっぱりきちんとした蔵書リストを作っておかないとまずいなぁ。この本は巻末の解説に書かれているように1943年6月に出版されたものだそうで、序は昭和十八年三月十五日付で元米国議会図書館東洋部長たる坂西志保が書いている。私はてっきり戦後に書かれた本なんだとばかり思っていた。ところで一体この本をどこの古本やで入手したのだろうかとためつすがめつしてみると、なんと1983年11月6日の銀座・福武書店のレシートが出てきた。つまり自分で買ったということだった。