ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

高校同窓会紙

 今日、高校の同窓会紙が届いた。へぇ〜、随分見なかったなぁと思ったらこの頃は2年に一回になったのだそうで、道理で見ていなかったわけだ。9月に同窓会総会という奴があるんだそうだ。これまで一度もでたことがない。なにしろ戦後になってようやく男女共学になった元高等女学校である。でてもおばあさんばかりだと聞いていたからである。こっちもそろそろおじいさんになってきたから、そろそろでても良い頃かも知れないけれど、それでも最年少かも知れないぞ。
 読み進むうちに一年生の時の担任の数学の先生が亡くなったらしいことが、かつての教え子だった人の追悼文でわかった。わかったけれど、その人は昭和38年卒だというのだから私よりも先輩だ。その人は先生が代数の教師だったと書いている。私の頃には高校の教程では代数、幾何という分類はすでになくなっていて、数II-Bで両方を含んでいた。淡路島出身のその先生はいつも苦虫をかみつぶしたような表情で、唇の端でにやっと笑うという先生だった。当時担任は毎年代わった。しかし、二年生の時の体育の学校を卒業したばかりと覚しき先生と、三年生の時の世の中をシニカルに見続けていたような英語の先生とは随分丁々発止、いろいろとあったのだけれど、この数学の教師とだけは殆ど親しく会話をした記憶がない。なんでだったのだろう。今から考えると不思議でしょうがない。

預貯金元本課税

 今朝のテレビ朝日の「スーパーモーニング」で、消費税の前に考えなきゃならないのがあって、税増収を考えるために預貯金元本に対して課税する、という考えをどなたかがしていた。
 そうすればそういう不要不急の資産が株式市場や、外貨購入へ向けられて産業進行の大きな引き金になるだろうし、さもなければ消費に向けられることを期待もできるだろうというのである。
 この場合もそうなのだけれど、高齢者の資産というエポックが語られる時に、多くの場合、不当にも高齢者が多くの資産を抱え込んでいる、という扱いから語られることが多い。それについては私もかつて富の偏在を再分配する術を考えるべきだと思っていた。
 しかし、その前にするべきことがある。
 かつて名古屋のふたご高齢者でテレビに良く出ておられた金さん・銀さんが自治体からお祝い金をいただいた時に「どう使いますか」と聞かれて「老後に貯蓄します」と答えた話を何度も書いた。
 つまり、この国の高齢者たちは最後にどうしても他人に介護をして貰うしかなくなるまでにどれくらいの生活資金が必要で、いざそんな状況になった時に、どれほどの費用がかかるのかがわからないという状況に暮らしているのだ。だから、どんなに抱え込んでも足りないかも知れないという恐怖感に駆られている。
 これまで何度も書いているように、もし、この国の高齢者介護システムが、最後には持っている資産をある絶対額を残してすべてを国庫に入れるものとして、その代わりにどんなことがあっても(認知症に陥ろうとも)国家の社会保障システムでカバーされるとしたらそんな活用されない資産なるものはどんどん支出されていくだろう。
 そうした保証、システムを作ることをせずに、闇雲に資産を取り上げる、あるいは資産に課税していくというのは憲法に保障された私有財産保全を犯すことになる。
 今や、特別養護老人ホームに入所を希望している人の待機数は全国で42万人に達していると云われている。特養に入ることのできない人のためには有料老人ホームがあり、それだけの資産を抱えている人たちはこっちに入ればよい、ということになる。ところがこうした施設は、必ず契約を全うできるだけの経営力が継続しているのか、契約が必ず正当に遂行されているのか、認知症となってからでも生活をしていくことが受けられているのか、といった重要な問題点を抱えている。
 例えば、契約に謳われているだけのレベルの食事、施設稼働、人材の確保、育成、運営が本当にできるのか、やっているのかという点である。ある意味、この点について云えば今の厚労行政は野放しに近い。
 どうも、官と民の間には胡散臭さが漂う。それを払拭するのは業界の力であり、それがこの種の分野を司る経営の矜持だろうと思う。

同窓生

 twitterのTLをつらつらと眺めていたら、昔ホンの一年間だけ在籍したことのある学校の元の教師を引用している人がいて、あれれ、と思っていたら、あの学校の2年上の人だった。あんなに学生数の少ない学校の関係者にこんなところで遭遇するとは思わなかった。世の中は油断しちゃダメなんだよね。

深刻さのずれ

 先の大戦(いつまでこうした表現で通用するのか確信がないけれど)で、日本は多くの捕虜を抱えた。しかし、「捕虜」という存在を全く否定的に捉えていたし(闘い尽くして命まで故国に捧げずに、軟弱にも敵に白旗を掲げて命乞いをした卑怯者)、そんな奴らはこき使うのが当たり前であり、彼等は必ずや嘘をついてサボろうとするものであるとケツをひっぱたいた。その挙げ句に大量な犠牲者を生んだのは事実である。 
 この「虐待」という行為に関して私たちはその発生についても、その後の影響についても真剣に取り合って来なかった。
 例えば、戦時中、特に後半、泰緬鉄道建設工事に見るような後年映画にまでなって残されたものについては私たち日本人も知っている。けれど、各産業の生産現場で多くの捕虜、あるいは結果的にいやいやながら就業してしまうことになった植民地からの労働力が相当数働いていたことは、かつてはみんなが認識していたけれど、口を閉ざしていたことで、今の世代には認識として引き継がれてはいないように見える。
 基幹産業としての鉱山、製鉄業、造船業、航空機産業、自動車産業といった直接軍需に繋がる生産現場には服役囚とともに、多くの捕虜が就業していた。
 しかし、戦後、これら元捕虜の人たちが、当時の恨みを晴らそうというわけでもなく、自分の人生に最も大きな影を落としたあの生活地域をもう一度この目で見て見たいといって尋ねてきた人たちに対しても、殆どが「そんな記録は残っていない」として門前払いをしてきた経過をひと頃良く耳にした。
 こうした扱い、姿勢というものが、彼等に対して真摯な取り組みもせず、口を拭えばすべてをなかったことにすることができるととぼけてきたことによってごまかしがきくのか、といったら、多分そうではなかったのだろう。
 自虐史観という表現で自らの反省に背を向けて、「いつまで謝り続ければ済むというのか」という前日本経済新聞シドニー特派員のような捨てセリフを吐いたところで、こうした積み重ねが信頼感の構築を阻害してきたことは間違いがない。
 こうして考えると、非人間的な行動を肯定する態度はやはりいつまで経っても人間的な成熟を実現することができないのだと考えるべきなのかも知れない。

 それにしても、捕虜に対して無茶なことをしても問題にならないという思想が、今日の外国人の研修生・実習生に対する扱いのむちゃくちゃ加減に生き写しに見えてしまうのはなぜだろうか。
 金を稼ぎたくて来ている人に仕事を与えているんだから、もうけても良いんだろう、という論理は法令を遵守して、初めていえる話だし、こうなることがわかっていてこのシステムを作り、維持し、混乱を無視して儲けを弾き出している状況を改善しようとしないで来た政権は、新政権に対してなにかを云う立場にはいない。

悪いクセ

 私は昔からホンの些細なことなのに、自分の感性の中で許容できない人に出会うと、途端にその集団全体を忌避してしまうという傾向があって、多くの友達を自分から失ってきたなぁと思う。
 かつて豪州に暮らしていた時にニフティに繋いで、瞬時にその中で知り合った人たちと何人もお知り合いになった。とはいえ、その時点ではあったことがない人たちばかりだった。そのうちに狭い範囲の人たちなので、どんどん深い付き合いが生じてきて、私自身は様々に関わっていったことを覚えている。しかし、なにしろ初めがネットの上でしか知らなかったわけだから、中には私の理解を大きく超える人というのも存在するわけで、ちょっと違っちゃっているなぁという人にも接することになる。それならそれで、距離をとってお付き合いしていればいいのだけれど、そうも行かないお相手という人もいて、無闇矢鱈と新しく入ってくる人たちに先輩ヅラする人に我慢ができなくなって、ひと言苦言を呈したら、それからその人が人前でも私たちに言いたい放題をするようになったので、仕方なく、その集団から私は離れることになった。
 他にはとてもわかりやすい人たちもいたのに、そのすべてを私は失うことになった。そういう局面を看過して適当に付き合うと云うことができない。そういう性格はその後も続いていて、構築してきた付き合いを一気に失うということが良くある。滅私ということができないので、去私と云う手段を執るということになる。多分最後は一人になるんだろう。