ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

帰京

とりあえず東京着。
 今朝はまず第一番に手回し発電ラジオ付き懐中電灯を探す、という行為から着手。もう一つは壊滅したといわれているわが書棚の改善策のための金具の入手。そして乾電池の入手。最後は食料系の入手。
 東京の息子と連絡を取るうちに、明らかに入手の難しいものはどうやらパンだけのようで、ほかはわが家の食料庫によってほぼ賄うことができそうだという。
 狙い目は個人商店だということで、昨日通りかかりに見つけた出町柳駅近くの金物店をまず探す。これがなんと一発で見つけ出し、私の記憶力もたいしたものだと我ながら感心だ。単二乾電池4本パックの最後の在庫を発見。旦那と奥さんに事情を説明。家具固定金物と、それに見合うネジをもらう。すると単三乾電池三本で点灯するLED懐中電灯の最後の一本があったので、これもいただく。一昨日からホームセンターでも入手できなかったといって探しに来ていた人がいたくらいだから、手回し発電ラジオ付き懐中電灯はもうこの界隈では無理だ、という。しかし、それにしてもたったこれだけの仕込みなのに、荷物は重い。
 ここまで入手できたことで安心し、しばし、見物。食料品を入手のために四条高倉まで出てきて、まず第一に向かったのは冨美家で、鍋焼きうどんである。錦で鯖寿司、鰻寿司を一切れずつ、そこから大丸地下に行ってパン、漬け物、わらび餅その他。
 上りののぞみはほぼがらがらで、家について2時間ほどすると今度は静岡を震源地とする比較的大きな地震がある。入り口の扉を開けて収まるのを待っていると、反対側の部屋の扉も開き、そこのお宅の方がのぞくので、思わず互いに会釈。
 家に帰って発見した私の机。もろもろの書籍やら、コルクボードやらの上に、棚から落ちた BOSEのスピーカー。もうひとつはずれることもなくそのまま棚に載っている。モニターは無傷。その下にある外付けHDDも無傷。本棚一本崩れてしまい、様子を見に来てくれた息子がその崩れた本棚を分解してくれてあった。それでも、机に手をつけるためには書棚一本分の書籍をほじって大きさ別に積み上げなくてはならず、そこまで行くのに、数時間かかった。

宮内庁

 こんな時に、こんなことを書くのは不謹慎きわまりないという話だけれど、今回この地震の最中に京都に来ている。最中といっても到着したら地震が起きてしまい、あれよあれよとテレビを見ているうちに津波の生中継をテレビの前に座って口を開けたまま、見入ってしまった。なにもできない。ぼぉ〜っとして、そのあまりにも現実感のない景色をただただ見つめるばかりだった。これはいつだったかに見たような状況だと思ったら、それは1995年1月の阪神淡路大地震の時のことだった。
 あのときは岡山にいて明け方の地震でがばと飛び起きたものの、すぐさまつけたテレビは大したこともなさそうだったのに、テレビの前に座り続けている間にどんどんひどくなって、気がついたときにはモクモクとあちこちからあがる黒い煙が神戸の街を覆い尽くしている場面だった。あれと同じように全く現実感のない景色をテレビで見てしまった。
 自宅にようやくつながった電話で、書棚の本がすべてぶちまけられていて、どうしようもない状態になっており、ダイニングテーブルの下に寝ているという娘の報告だった。猫も無事、息子もどうやら無事、ということで、さてどうしようかという話になったのは翌日の朝。とりあえずその朝のアポイントを取ってある桂離宮まで行ってみようとたどり着くと、申込者のうち当日やってきたのは半分近くの約20名。全く現実から乖離した状況の庭をみて歩く。
 とりあえず今すべてをキャンセルして帰宅しても状態はほとんど変わりないから、とりあえず予定を消化してこいという結論にいたり、昨日はやはりアポイントをネットで取得した仙洞御所を見に出かけたというノー天気ぶりである。
 一昨年訪問した京都御所に加えて、今回二カ所を訪ねたので、宮内庁が下々にいやいやながらお見せくださる庭園は後一カ所を残すのみとなったという次第。
 もう一昨年のことなんかは忘れてしまったのだけれど、あの時はずいぶんたくさんの人たちがぞろぞろとガイドのお姉さんのご案内で和気藹々と見て歩いた記憶だ。
 今回の二カ所はいずれも案内はじいさんガイドである。この「じいさんガイド」がくせ者で、いずれもあたかも自分がここに参集した下々にこの庭園を見ることを許可した、とでもいいそうな勢いなのである。彼らはガイドであるという意識を忘れてしまっていて、自分のリサイタル、あるいは自分が支配者、であるという思いに駆られてしまっているのではないかと思える。それでいながら、たまたま得たこの千載一遇のチャンスを楽しみにやってきた「下々」にいかに正しく、わかりやすく伝えるかという技術を学ぶ機会を過去に持つことがなかったかのように見える。つまり、公正な意味でいうと「ガイド」ではないのだ。この施設に詳しいうちの近所の爺さんが、中を見せて貰えるウラのルートがあるからと連れてきて貰った、とでもいうような案配だといえば最もふさわしいかも知れない。
 こうした施設には全国津々浦々から見物人がやってくる。必ずしも地元の人間ばかりではない。だから、これくらいは知っていて当たり前だろう、という思い込みは単にガイドの傲慢さの表れだといっても良いだろう。
 仙洞御所のガイドに至っては語尾がはっきりしない喋り方に加え、首からぶら下げている拡声器を誰も人のいない前方に向けて話をするから後ろにつながる聴衆には聞こえにくい。だからと本人の前に出ると、彼はなんと「あぁ、行きたけりゃ自分勝手に行かれればよいでしょう!」と毒づいたのである。彼がいう「団体行動」というのは自分の後ろに金魚の糞のように連なって歩き、彼のつまらない冗談に「ははは」と乾いた笑い声を上げるということのようだ。
 挙げ句の果てにはさしかかった橋について訪ねた連れあいの質問を彼は完全に聞こえていながら無視をした。何故そんな行動に出るのかと思ったら、自分がこれからしゃべろうとしたことを聞かれたからなのだ、と後から知れた。根性の小さな実に不愉快きわまりない人間なのだ。「この辺の苔がはがれているのはなぜか分かりますか?」と聞くのだ。なぜか。烏が食い散らかすからなのだ。私はこんなことはどうでも良いから、歴史的意味合いについて聞きたい。翌日お尋ねした金戒光明寺の明らかにボランティアと覚しき案内者の男性のご案内に実に頭が下がる思いがしたものだ。
 仙洞御所の見物(あえて見物という)コースでは東の側に行かない一角がある。反対側から見た方が景色として良い、ということでこういうコースになっていくのかと思っていたのだけれど、彼の話で、その一角が小堀遠州によるオリジナル部分部分であることが判明。しかも、その一角から見る夕景は実に見事だという。しかし、夕景が見られる時間帯は「一般」(有り体に申し上げれば「下々」である)には公開されておらず、彼がいうには「国賓」や「皇族」なぞのごく限られた人々がお楽しみになるのだそうだ。その上、この男はなんと「あなた方では孫の代になってもなかなか難しいでしょう」と付け加えたのだ。なんという選民意識なんであろうかとあきれ果てて腹が立った。ここまでくると、差別発言だといっても良いくらいだ。
 何故このようなことが起こるのかといえば、たぶん誰一人として彼のこのような行動を誰にも伝えることがないからであるし、そうした参加者の反響を宮内庁がとるつもりもないからでもあるだろう。
 私は京都という街がただただ古いものを抱えているだけではなくて、様々なアイディアを駆使して意外な状況を見せる街として、かなり気に入っているのだけれど、今度のこの二つの代表的な庭園の見物がたった一つの共通項である「じいさんガイド」によってぶちこわされてしまったのが返す返すも残念で仕方がない。

2011年03月14日のツイート