日曜日。昧爽起床。五時でもう明るい。
曇。しばらくして、強い雨降り出す。
 
(精神的に)しんどかったので、部屋を暗くして寝ころがっていたら、そのまま眠ってしまう。
スーパー。雨上がり、晴れる。
 
昼。
寝ころがって iPad miniシューマンの「子供の情景」を聴く(ピアノはトーニャ・レモー、NML)。トーニャ・レモーはオーストラリア/シエラレオネのピアニストなんだって。
 トーニャ・レモーのピアノで、レイモンド・ハンソン(1913-1976)のピアノ曲を聴く(NML)。レイモンド・ハンソンはオーストラリアの音楽教師で、世界的にほとんど知られていない。検索しても日本語ではほぼ何も出てこない。英語の Wikipedia の項目はかなり充実している。このアルバムは二枚組ピアノ曲全集だが、その一枚目をすべて聴いた。清潔実直な、なかなか聴き応えのある音楽だし、レモーの演奏もよい。

Complete Piano Works

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モーツァルトのミサ・プレヴィス ニ長調 K.194 を聴く(NML)。
 
NML で音楽を聴く。■細川俊夫のトランペット協奏曲「霧のなかで」、ヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」、「渦」で、指揮は準・メルクル、ハーグ・レジデンティ管弦楽団NML)。ブラームスの三つの間奏曲 op.117 で、ピアノはペーター・レーゼルNML)。やわらかい間奏曲、じつに立派な演奏で、びっくりした。ペーター・レーゼル(1945-)は全然知らなかったが、ドイツの有名なピアニストということである。現在79歳。

こともなし

晴なれど雲多し。
 
部屋を暗くしてずっとごろごろぼーっとしている。たまたま聞こえるのは、主要幹線道路の車の音と、つけっぱなしにしている PC の冷却ファンの音と、ヒバリの鳴き声だ。
 
長時間、昼寝。
雨樋の不具合を見る。詰まってはいなかったので、位置を調整する。
 

クチナシ(梔子)の花。昼咲くらしい。

アジサイ
 
オカタケさんの『ふくらむ読書』(2024)落掌、読み始める。瀟洒な装丁。冒頭の『折々のうた』についての文章を読んでいて、大岡信さんが引いているほぼ無名の江戸俳句たちに感動する。岩波新書の『折々のうた』全十九巻、買おうかな。大岡さんは近ごろあまり話題にならないような気がするが、わたしはいろいろ文庫化するといいのに、とずっと思っている。
 と思って古書を検索してみたら、全十九巻+総索引、まとめて揃っているのはなく、全体的に古書価が高い。どうしようか。
 
池内紀『山の本棚』(2023)を読み始める。
 
夜。
マルタ・アルゲリッチさん広島で演奏(総集編)| 中国新聞社 | YouTube
被爆したアップライト・ピアノで弾いている。最初はシューマンの「子供の情景」で、突然ラヴェルの「水の戯れ」に。
 
凪のあすから』第11話まで観る。本当はもっと観たいけれど、泪をのんで(?)中断する。まとめて観すぎだけれど、つい。傑作すぎて、先を観るのがこわいくらいだ。

モレラ岐阜で映画「関心領域」を観る

曇のち雨。
 
朝いちばんで、本巣市の TOHOシネマズ モレラ岐阜へ映画『関心領域』を観に行ってきた。NHK の「キャッチ!世界のトップニュース」には月に一回、藤原帰一さんの「映画で見つめる世界のいま」というコーナーがあるが、それで知った映画である。
 映画は、アウシュヴィッツ強制収容所の所長であるルドルフ・ヘスの一家の、裕福で凡庸な、いわば幸福な生活を描いている。家の敷地は強制収容所の隣であり、妻が丹精込めて作り上げた庭は、彼女の自慢だ。ヘスはまあよい夫といってよく、子供たちにはよき父親であろうとし、アウシュヴィッツからの転属を嫌った妻を受け入れて、単身赴任すらする。ヘスの仕事ぶりはまるで優秀なサラリーマンで、仕事熱心であり、周りからの評価も高い。
 そんな様子が淡々と描写され、映画はほとんど退屈ですらある。画面の向こうからは強制収容所からの様々な声や音が響いてくるが、一家はそれに気を留めることすらない。ドイツ人の女性たちは、ユダヤ人たちが身につけていた品物を手に入れる話を、平然と日常会話としてしている。つまりは、ユダヤ人たちの虐殺をよく知っているのに、それは自分たちの「関心領域」に入らないのだ。ドラマらしいドラマもほぼなく、そのまま映画は奇妙なラストを迎える。正直いってわたしにはよくわからなかったのだが、現代のアウシュヴィッツ記念館(?)だろうか、ユダヤ人たちが身に着けていたものなどが大量に展示された清潔な建物の中で、軍服を着たヘス(だろうと思う)が何度か嘔吐する。そのシーンで映画は終わる。
 映画は、簡単にわかることだが、現在の我々のことを描いたとも解釈できる。例えば、現在においても、ガザでジェノサイドが行われている。もちろん現代日本人の我々はルドルフ・ヘスではないが、ガザのジェノサイドが我々の「関心領域」の外にあるという点では、まったくヘス、ヘスの妻と同じであるともいえる。ガザから送られてくる動画を見れば、ふつうの感覚で許容限度を越えた現実がそこに映っているが、不思議なことに、我々はそれを「関心領域」の外へ追い出して日々平然としている。
 が、である。またわたしは思う、いったい、我々はどこまでを「関心領域」に入れたらよいのか、とも。我々もまた、平凡な日常を生きねばならない。あらゆることに関心を向けるなど、不可能だ。仕事から疲れて帰ってきたあと、誰がガザのジェノサイドの動画など観たいと思うだろうか、というのもわからないことはない。正直いって、わたしはそこらあたりのことは、きっぱりと判断できない。ただ、ガザのジェノサイドは、ちょっと無視するにはひどすぎるんじゃないかと、素直に思うのもまた事実だ。
 以上のことは、じつは映画を観る前からだいたい予想していた。実際に観て、それほど意外だったことはない。ただひとつ、映画は予想以上に、ルドルフ・ヘスを、人生をいきいきと生きている人間として描いていた。動物たちと深く触れ合い、その気持ちがわかる。自然を楽しみ、家族を愛している。ただ、殺されるユダヤ人に対する、惻隠の情だけがない。これは感覚ではなく「思想」の問題であり、我々が「思想」を無視できないことを端的にいっているのではないかと思われた。ここが、映画を実際に観て、わたしが意味があったと思うところである。
 
 
帰りに CoCo壱番屋岐阜北方店にて昼食。いつものソーセージ+きのこ1106円。
肉屋へ寄る。いろいろ広告の品で安かった。雨が少し強くなってくる。
 
第678回:「つばさの党」から3人の逮捕者、に思うこと。の巻(雨宮処凛) | マガジン9
「つばさの党」についてはほとんど何も知らない。また、下らん連中が出てきたな、くらいの愚かな感想しかなかったし、そう思ったことすら忘れていたが、いや、これをマネする奴らが増えるだろうという認識はまったくなかった。雨宮さんの予感が当たるのかはわからないが、仰っていることは驚きだった、というか、納得しまくった。
『なぜなら今の社会、知名度さえあればネット関連の収益で食べていく道はいくつもあるからだ。食えるとなれば善悪など関係ないという判断をする人も出てくるだろう。私たちはとっくに、知名度やアクセス、ビュー、インプレッションといったものがすべての世界に生きている。』
 ほんとに、わたしたちはこういう世界に生きている。わたしは X (Twitter)をまったく見なくなってしまったが、YouTube はまだ見るので、リコメンドに上がってくる動画を観察していると情弱でもある程度のことはわかる。そして、もっと情弱でいいとすら、思い始めている。YouTube ひとつ見るだけで、(大袈裟にいうと)世界に絶望したくなるからだ。わたしは、下らないアニメ関連動画が見たいだけである。でも、アニメ YouTuber ですら、なんだかなあと思わせられるのが増えた。また、わたしは BBC Japan を見るせいか政治動画や日本スゴイ動画がどうしてもリコメンドに上がってくるけれど、サムネイルとヘッドラインだけで中身がわかり、もうウンザリする。そして、それらの視聴回数の多さに呆れざるを得ないのだ。玄侑さんの公式動画なんて、4桁いっていないのがほとんどなのに!

加藤周一問題とは何か

晴。
 
昨日のエントリを書いてからも、加藤周一さんについては随分考えた。わたしの考えるところでは、加藤周一というのは人間の営為すべてを「戦争反対」の相から眺めるというものである。戦争は(人間の作った)社会システムが人為的に作り出すものであり、まちがっても天災などではない。そのような社会システムは人工的に構築されたものであるから、決して戦争が起きないように、人為的に再構築が可能である。それに向かって、我々はたゆみない努力を続けねばならない。
 こう考えると、別に何も問題があるようには思えない。当たり前のふつうの「正しい」考えにも思える。しかし、どうしてわたしは加藤周一に、飲み込みがたさを感じてしまうのか。というか、何かの「転倒」を感じてしまう、のか。
 加藤周一さんは、戦争が避けられるなら、何でもよい。資本主義でも社会主義でもよい。東洋でも西洋でもいい。東洋にだってすばらしいところ、偉大なところはたくさんある。しかし、東洋は実質的に非論理的社会であり、野蛮である。戦争の回避には、西欧的な科学的ロジックの思考が必要だから、東洋的な非合理性は、現実的には、捨てられなければならない。抽象的論理化という意味での世界の「西洋化」は避けられないものである。
 加藤さんは「分析哲学」に多大な影響を受けたと、かつて読んだ覚えがある。これはいま流行っているところの分析哲学というよりは、いわゆる前期ウィトゲンシュタインを指すものであろう。前期ウィトゲンシュタインは、わたしのいい加減な理解では、世界をモノの集積と見るのではなく、論理命題の集積と見るものである。これはまさに西洋哲学のある意味究極であり、そしてわたしが「世界の(精神的)貧困化」をもたらす、最たる思想と考えているものだ。
 わたしは20世紀の大きな戦争をもたらしたものが、東洋的非合理性であったか、疑問に思わないでもない。日本が非合理的な野蛮にまどろんでいたとされる徳川時代、日本は300年間の平和を享受していた。日本は明治になって否応なく文明化させられ、西洋の植民地主義を中途半端に学んで、それを愚かにも実践し、アジアに迷惑をかけた上で西洋文明に敗北し、アメリカの属国となった。そして現代においてもっとも合理的な民主国家であるアメリカが、もっとも戦争を気軽にやっている国であるのは、誰の目にも明らかである。
 

いたいた。老母が教えてくれた。さて、ヌマガエルなのか、ツチガエルなのかがわからない。背中の突起が小さいようだから、ヌマガエルっぽい。ひさしぶりにカエル、見たぞ。
 
スーパー。
 
いまだに「加藤周一問題」のまわりをぐるぐる廻ってつらつらと考え続けている。結局、あの日本の愚かな戦争には、「未開社会」が西洋的な合理社会と出会い、崩壊していく際の矛盾が典型的な形で出ている、ということだ。そこで加藤周一は、「未開社会」ではなく、きっぱりと西洋的な合理社会を選択した。そういうことなのだと思う。
 日本の体験は、いま他のアジア諸国や中東、アフリカ諸国で繰り返されている。ロシアや中国といった大国だって、そこから逃れられてはいない。いずれも、伝統的な「未開社会」は崩壊させられ、そこに否も応もなく矛盾的な暴力が噴出している。いずれ世界は、現在日本が経験しているように、すべてが合理化する方向へ進むだろう。つまり、加藤周一は「正しかった」。わたしのようなどうでもいい人間は、合理性に反対するよくあるロマン的な非合理主義者、あるいは反知性主義者と見做されてゴミ箱に捨てられるだけのことであろう。陳腐なルソー主義者といっても、いいかも知れない。
 一種の非合理主義を担っていた西洋の「芸術」も、もはやその役割を終えて「無害なアート化」した。非合理主義や反知性主義では、ダメなのだ。
 おもしろいのは、アメリカのような合理社会の頂点に、非合理的な暴力が噴出し始めていることだ。かしこい人たちは、ポストモダン思想が悪かったなどといっている。世界を真理命題で埋め尽くせば、何もかもがうまくいく、と。
 
はー。わたしは自分ごときがムダに考えたって仕方ないという真実から目をそらすことができるようになってきたんだけど、それでもこんなことを考えていると徒労感ハンパないな。自分のやっていることなど、どうせ何の価値もないんだから、誰からも相手にされないってのは当たり前だよね、って思わないとやっていられない。何の価値も意味もないし、もちろん後世に残ることもない。それで別にいいんだ。ただ、ほんの少しの人がここを偶然見てくれるときもあるから、そのときだけ、それのみのコミュニケーションが成立したような、そんな無意味な錯覚を楽しんだりしている。
 


 
吉本隆明全集28 1994-1997』を読みながら吉本さんが超都市化する東京を、小さなカメラをもってひとり歩き廻っている姿が彷彿とされて、以前から読み返そうと思っていた『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著、2014)を再読し始める。初読時は、おそらく何もわからなかったにちがいない。なるほど、中沢さんのナビゲーションを参考にしながら、これまでとはまったくちがうパースペクティブが広がってくる。わたしは思うが、吉本さんが晩年におこなった、高度資本主義に対する考察は、いまだによく読み解かれていない。現在においても孤独に放置されている。
 
夜。
オカタケの「ふくらむ読書」【27】炭焼日記|春陽堂書店
オカタケの「ふくらむ読書」【28】炭焼日記2|春陽堂書店
オカタケさんも東京をよく歩いておられる。わたしは最近、散歩していないな。
 
「侵攻初期以来の圧力」、ロシアの越境攻撃続くハルキウ BBC国際編集長が報告(BBC) - YouTube
ラファの難民キャンプで攻撃続く、人々は行くあてもなく(BBC) - YouTube
 
『黒岩メダカに私の可愛いが通じない』を読み返す。やっぱり結構おもしろいな。展開と共に、モナちゃん性格変わりすぎだろう。相手役の黒岩メダカが中身がなくて全然魅力的でないのに対し、女の子たちは誰もいきいきと描かれているな。

加藤周一『私にとっての20世紀』

晴。気持ちのよい青空。
カーナビでどこかへたどり着こうという夢。都市の海上道路(海が青い)を進んでいるうち、工事中になってしまう。いったい、どこへ行きたかったものか、それがわからない。ヘッドアップ・ディスプレイ型の先端的なカーナビゲーション・システム。いや、網膜に直接投影されるか。
 
鵜。老父が教えてくれた。鵜は警戒心が強くてなかなか撮らせてくれないが、なぜか逃げなかったな。こちらを警戒しているのはわかる。

元の画像ははてなフォトライフのファイルサイズ制限(10MBまで)に引っかかってアップロードできなかったので、ImageMagick でリサイズした。10MB というのは微妙なところで、わたしの使っているコンデジの場合、稀に引っかかる。老母のスマホ画像だと、もっと引っかかる割合が高いようだ。15MB くらいにしてくれたらよいのに。
 
ブルーベリーの実もビワ(枇杷)の実もたくさん生っているのだが、どんどん鳥に食べられてしまっている。こりゃ、人間様の分はないかな。
プランターに入れたミニトマト、もう青い実が生ってきた。強い日光を浴びてすくすく伸び、元気がいい。
 
昼。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。30種スパイスで作ったカレーパイ+ブレンドコーヒー457円。セット価格なのでいつもより安いな。
 加藤周一『私にとっての20世紀』(2000)を読み始める。コーヒーを二度おかわりして、一気に三分の二くらい読んだ。これはおもしろい、また、とっても感心した(って上から目線でスマソ)。この人、さすがによくわかった人だなって思った(まったく何様だ)。
 加藤周一さんは論理の人と思われているような気がするが、まあそうなんだけれど、その論理はじつはそんなに複雑に入り組んでいるのではなく、常に自分の体験を重視して、それが根底にある、かなりシンプルなものだと思う。だからこそ、その論理に強い説得力があるのだ。その「根底」というのは戦争体験がいちばん大きく、だからこそ加藤さんの平和主義は盤石でゆるがない。あのような愚かしい戦争は、二度と許容できないという思いがあるからだ。
 あと、加藤周一さんは、自分が(西欧型)知識人であり、愚かな「大衆」を導く存在であることを、ほとんど無意識のように呼吸している。あまりにも自明なことだから、加藤さんの中でそれが崩れることは決してない。本書の中でも「大衆」という言葉はよく使われているが、その「大衆」の中に加藤さんはまったく入っていないのだ。かつての戦争も、それはエスタブリッシュメントの過ちであり、大衆は盲目で煽動される存在として理解されている。だからこそ、当時の指導的知識人、政治家、軍人たちに対して、怒りをもって非常にきびしく非難しているわけだ。
 加藤さんのいう文化もまた、いわゆるハイ・カルチャーそのものである。クラシック音楽、オペラ、能、狂言、実朝や新古今和歌集などの和歌、ギリシア悲劇シェイクスピアブレヒトなどの演劇、西洋古典絵画、(高級)文学、分析哲学、その他もろもろ。まったく、圧倒的な教養である。わたしは読んでいて、いま加藤さんにいちばん近いのは、浅田彰さんかな、ってつい思った。そういえば浅田さんが、海外でのシンポジウムなどで加藤さんと同席すると、とても心強かった、なんていっていたっけ。
 
図書館から借りてきた、加藤周一『私にとっての20世紀』読了。上に書いたとおり、非常におもしろかった。わたしは加藤周一さんと相容れないが、それを正確に考えるのは(わたしにとって)生産的だと感じる。

加藤さんは本書第四部「言葉・ナショナリズム」で例えば小林秀雄の『本居宣長』を、ほとんど感情的なまでに強い言葉で非難している。これが小林秀雄批判として底が浅いものであることは明らかだが、どうして加藤周一ほどの人がそうなるのか。すぐにわかる理由のひとつは簡単なことで、加藤さんは小林秀雄を、あの愚かなる戦争に曖昧な態度をとった知識人であるという、いわば戦争犯罪者も同然だと見做しているからだろう。これは、西欧型知識人からすれば、ほとんど当然の理解だと思うし、「正しい」かどうかでいえば、間違いなく加藤さんが「正しい」。
 わたしは漠然と思うが、わたしがもしあの時代に生きていれば、戦場に赴かなかったとすれば、吉本さんのように軍国少年になるか、あるいはその上の世代だったら、戦争協力者になっていたのではないか。じつに愚かなことであるが、わたしは加藤さんのような、目覚めた人間ではあり得なかっただろうと、思っている。といって、わたしは戦争が好きなわけでもなんでもない。決して、自分が生きているうちに、日本が戦争に巻き込まれて欲しくないと思っているし、現在世界で行われているあらゆる戦争、戦闘行為が嫌である。殺すのも、殺されるのも、まっぴらごめんだ。
 でもわたしは、例えばいまガザで行われているジェノサイドを知りながら、何もしない、そういう人間なのである。ただ、こんな誰も読みもしないブログで、何の意味もなくごちゃごちゃいっているだけだ。ま、知識人である加藤さんなら、メディアで明確にイスラエルを非難していただろうな。それはすばらしいことであると、わたしは思う。

斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』 / 「コードギアス 復活のルルーシュ」(2019)を観る

雨。
アマガエルが鳴く。
 
昼。雨強し。
(何度も書いてきたことだけれど、いまの日本人はまことに非政治的国民だな。政治家も、一般人も含めて。わたしはテレビのニュースとかほとんど見ないが、長いこと自民党の例の「裏金作り」とそれへの野党の対応で済んでしまっている印象がある。そもそも、自民党はいまだに「裏金作り」など、不正行為を続けたいという欲望を隠していなくて、それが明らかなのに誰もそれを指摘しないところが、のんびりしているという他ない。
 日本人には、政治家や学者も含めて、「国益を最大化する」という観点が非常に薄いと思う。わたしは、そのナイーブさはちょっと買えると思うくらいだ。国際政治を眺めていると、どの国も生き馬の目を抜くようなシビアな国益競争をやっているのであり、時に唾棄したくなるような矛盾的、偽善的、利己的行為に手を染めている。日本だってそうしているつもりなんだが、じつにおこちゃまレヴェルで、ホッとしないでもない。いまの日本人は、よかれ悪しかれ、政治家も国民も、政治的にあまり偽善的でいられないように見える。逆にいえば、政治的レヴェルにおいても、日本人には「正義の追求」がない。それらは表裏一体である。
 そもそも我々日本国民は、強いて政治家に何も求めるところがないんじゃないかと思わざるを得ない。ねえキミ、キミは日本の政治家に、国益の追求として、具体的に何を望む?
 わたしはある意味、いまの日本は政治的理想国家に近いと思う。そのように世界に関心を失った国は、相対的に没落するしかないだろう。それでたぶん、いいのだと思う。たぶん、ね。ただ、ジリ貧の戦争だけはやらないで欲しい。それだけだ。)
 
 
追悼(小澤征爾氏へ)/マルタ・アルゲリッチ | 公益財団法人アルゲリッチ芸術振興財団
26日に水戸芸術館にて、小澤征爾さんの「お別れ会」があったが、アルゲリッチが発起人のひとりだという。検索してみても高齢のアルゲリッチが会に出席したのか曖昧だが。いずれにせよ、わたしは心うたれた。小澤征爾さんとアルゲリッチは、音楽的にとても相性がよく、数え切れないほど共演を重ねてきた。
 わたしだけが小澤征爾をわかっているというようなことは不遜の極みだが、それにしても、日本の多くのクラシック音楽ファンは、小澤征爾の音楽を素直に聴く心が少なかったのではないかと、わたしはちょっと思っている。どうでもいいが。
 
Martha Argerich - Mendelssohn Piano Trio No.1 in D Minor, Op.49 (2024) - YouTube
メンデルスゾーンピアノ三重奏曲第一番 op.49 で、ヴァイオリンはジャニーヌ・ヤンセン、チェロはミッシャ・マイスキー、ピアノはマルタ・アルゲリッチ
Welcome home, Maestro Arming! : Christian Arming conducts Bartók with New Japan Philharmonic | YouTube
バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」で、指揮はクリスティアン・アルミンク新日本フィルハーモニー交響楽団クリスティアン・アルミンク、全然知らなかったが、これは驚いた。小澤征爾の薫陶を受けているのか。新しい時代を作りうる指揮者という感じだな。音楽に透明感がある。2022.7.11 のライブ録音。
 
 
斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』を読み始める。半分くらい読んだところで、一気に読み切らないために中断。しかし、いまさらながらに自分の無知を思い知らされる。これからもそうだろうが。
 
図書館から借りてきた、斎藤真理子『本の栞にぶら下がる』(2023)読了。軽くておしゃれで読みやすく、じつにうまい文章、でも、政治的なこともしっかり書ける優れた文体だ。かなりハードな読書もしてこられたように見えるけれど、このリーダブルな文体はどうやって形づくられたのかな、って思う。文学、戦争、歴史、フェミニズム、なんとなく、ブローティガンの邦訳者を思い出したり、ただ、著者は韓国文学の人だから、その匂い(?)が染み着いているところがある。
 わたしは、こういう、優れた文学を中心に良質な精神を形成された方ってのが、どうもわからないところがあるな。それは、わたしに何か人としてだいじなものが足りない、そこに関係してくるように思えるのだが。ま、そんなのは他人にはどうでもいいことだな。

 
夜。
イスラエルがラファの難民キャンプ空爆、多数死傷 「ハマスが望んだ戦争」と政府報道官(BBC) - YouTube
 
 
劇場版『コードギアス 復活のルルーシュ』(2019)を観る。テレビ版1期2期はアニメとしての悲劇で歴史に残る作品だったが、続編の本作でハッピーエンドは本当によかった。テレビ版は完璧に終わっていたので本作は余計じゃないかと正直疑っていたが、期待を超える出来だったな。ルルーシュの活躍、あれがもう一度観られるとは。ラスト、C.C.(シーツー)のうれしそうな顔といったら、もうそれだけで感動した。ルルーシュ、隅におけないな。
 テレビ版の登場人物たちのその後が描かれていたのも、じんときた。本作ではちょろっとしか出てこなかったけれど、シャーリーって生きていたんだな。ルルーシュ、ちゃんと電話したのね。あー、ほんとに観てよかったわ。調べてみたら、テレビ版のダイジェストとして作られた劇場版三部作では、シャーリーが死なないんだな。それの続編ってことか。なるほど、その点で評価が割れているのね。テレビ版の ifルートとして楽しめ、ってのがかしこい。テレビ版は、とにかくあまりにもつらい悲劇だったから。僕も、本作のラストの C.C. の表情がすべて派だな。

高澤秀次『評伝 立花隆』

雨。
 
スーパー。客少なし。
アジサイ(紫陽花)が咲き出したなと思う。なんとなく、雨の中で映えるから妙だ。さて、梅雨入りはいつ頃になるのだろうな。
 検索してみると、アジサイの原産地は日本ということだが、かつては人気がなく、シルクロードを通じて西洋に渡ったものが品種改良され、大正時代に日本に逆輸入された。日本で人気が出たのは、それ以降だという。また「紫陽花」の漢字表記はもともと中国ではライラックのことだったらしく、平安時代の学者が誤ってアジサイに同定したらしいとか。さても、植物の名前はじつに厄介である。
 
昼。
県営プール。清掃・換水のための長期の休みに入る前の最後の日のせいか、コースが埋まるほど人が来ていた。雨なのにな。
 
高澤秀次『評伝 立花隆』を読み始める。第十五章まで読んだ。
 
図書館から借りてきた、高澤秀次『評伝 立花隆』(2023)読了。副題「遥かなる知の旅へ」。

 
夜。
凪のあすから』(2013)第7話まで観る。アニメの最良の部分が詰まった作品。いまはもうこういうのは出来ないかも。もっとゆっくりと観るべきかも知れないが、つい、ね。