祖母と「おりぼん」

実家に行って、古い写真の整理をしていた時の話。
3歳から6歳くらいの頃の私は、大抵頭に大きなリボンをして写っていた。髪を横分けにして三分の一くらいをゴムで括り、幅広のリボンを結ぶ。昭和30年代の小さい女の子の典型的なヘアスタイルだ。リボンのことを「おりぼん」と言っていた。
いくつかの「おりぼん」を持っていたが、よく覚えているのはよそ行きので、幅が5〜6センチもあるベビーピンクのサテン地に、赤と黒と銀の糸できらびやかな刺繍が施された、かなり目立つやつだった。母がタンスに仕舞った箱からそれを取り出して髪に結んでくれる時のシュッシュッという音は、「これからどっかにお出かけする」という晴れがましい気分と共に、記憶の中に刻み込まれている。
写真を見ながら「このリボン、なつかしいね」と言うと、「それ、おばあちゃんが買ってくれたのよ」と母。そう言えば、母の趣味とはちょっと違う。母の買ってくれるリボンは、落ち着いた色合いのチェックやベルベットの無地で、幅もせいぜい3センチくらいのだったから。


家に同居していた祖母は、父の母である。祖父は優しく大人しい人だったが、祖母はキツい支配的な性格で、孫の面倒はよく看てくれたものの、いわゆる姑の嫁虐めがしばしばあった。祖父が亡くなり、離れの隠居部屋で寝たきりになってからも祖母は、世話をする母に我がままを言い暴言を吐いて泣かせ、父に時々叱られていた。
祖母が電話で伯母(自分の娘)たちに母の悪口を言いふらすようになったある日、突然伯母の一人が来て、何も言わずに祖母を連れて行ってしまった。やがて祖母は長男である伯父の家に引き取られ、そこで91歳で亡くなった。もう30年以上前のことだ。
母は一度だけ晩年の祖母を見舞いに行ったが、座敷牢のような狭い部屋で、おむつを自分で取ってしまわないよう包帯でがんじがらめに縛られていたそうだ。枕元に小さなおにぎりが載った皿が、ぽつんと置かれていた。完全にボケた祖母は、母が話しかけても目を瞑ったまま手を摺り合わせ「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と呟くばかりだった。


「私もおばあちゃんにはずいぶん悩まされたけど、ああいう性格になってしまったのもわかるのよね」と母が言った。「おばあちゃん、ほんとに苦労してきた人だから」。
それまで、祖母がどんな生涯を送ってきた女性だったのか、あまり詳しく知らなかった。以下は母から初めて聞いた祖母の話。



明治30(1897)年、岐阜市生まれの祖母は、広大な土地持ちの実家が父親の放蕩と商売の失敗で没落し、尋常小学校を4年生の途中で、大阪の紡績工場に働きに出された。10歳になるかならないかで、ほとんど女工哀史の世界だ。
数年して、遠縁の叔父が祖母を引き取ってくれることになり、横浜へ。叔父はホテルの設計に関わる建築士で、かなり裕福だった。その家で祖母は、叔父の二人のお嬢さんの小間使いになった。お嬢さんたちは高等女学校に通う、今をときめく女学生。祖母は着替えを手伝ったり、忘れ物を学校まで届けたり、帰ってきたお嬢さんの革靴を磨いたり、買い物の御伴をしたり、その他こまごまとした用事を言いつかったりした。
当時は致し方ないこととは言え、同じ年頃の女の子として祖母の立場は惨めだった。自分だって実家が没落しなければ、お古の着物なんか着てお女中紛いのことなどせず、束髪に流行の大きなリボンを結び、海老茶袴に編み上げ靴という最先端ファッションで女学校に通えたかもしれない(明治30年代から40年代にかけて、公立私立の高等女学校は全国に続々と誕生していたが、女学生はまだまだ特権的な立場だった)。
「自分も学校に行かせてくれ」と伯父に頼むと、裁縫だけを教える女学校に行くことが許された。それでも祖母は嬉しかったらしい。祖母が元気な頃、私に「ワタシは横浜の女学校に行ってたんだで」と得意気に話したことがあったので、てっきり普通の女学校に行っていたものと思っていたが、そうではなく裁縫学校だった。


ある時、祖母は見合いのため実家に呼び戻された。その相手が祖父である。祖母より10歳年上の明治20年生まれで、中部配電(今の中部電力)に勤めるサラリーマン。一度結婚してから妻と娘を相次いで結核で失っていた。祖母の家族にしてみれば、学もなく持参金もなく器量もパッとしない娘の相手には、相手が歳の離れた再婚者でも十分過ぎる話ということだったのだろう。
その時、祖母は恥ずかしがって祖父のいる座敷に出て行くことができず、たまたま来ていた従姉に、襖の隙間から覗いてどんな人だか教えてくれと言ったそうだ。従姉は「真面目そうな普通の人」と祖母に告げ、結局互いに相手の顔も満足に見ないまま話は決まった。
大正3(1914)年、欧州で第一次世界大戦が始まった年に、祖母は17歳で結婚した。


比較的給料の良いサラリーマンの妻になっても祖母は贅沢一つせず、家計を切り詰め、毎日裁縫の内職仕事に精を出し、貯蓄に励んだ。
二番目と三番目に女の子が生まれてから、「社宅から嫁に出すわけにはいかん」と、5000円あった貯金の2500円を使い名古屋に家を建てた。大きな大谷石の門構え、端が反りのある総瓦葺きの屋根、玄関を入ると長い廊下が続くとても立派な家だったという。末っ子の父はそこで生まれた。
二桁の計算も覚つかず漢字も満足に読めなかった祖母だが、子どもたちには厳しく、成績が少しでも下がると裁縫に使う竹の物差しで引っぱたいた。父は、学校から帰ると内職をしている祖母の傍の机の前に座らされ、読本を音読するのが習慣だった。つっかえると物差しが飛んでくる。「教育ママ」の祖母は息子たちを旧帝大、娘たちをそこそこの女学校に行かせた。


父が結婚したのは遅く、30代半ばだった。古くなった家を引き払い、両親とともに住む新しい家を建てるにあたって、祖母は相当の援助をしたようだ。
20歳で父のところに嫁いだ母に家計のやりくりを厳しく教え、家族の下着やシャツ類などは既製品を買わせず全部縫わせたという。父のジャケットが古くなってすり切れてきた時、解いてきれいな裏を表に出して仕立て直すよう、母に命じた。祖母の徹底した倹約ぶりは母を恐れさせた。
母は私と妹が幼いうちから洋裁学校に通い、娘たちの服と自分の服のほとんどを作るようになった。頼まれものの洋裁もしていた。子どもの私は毎日ミシンを踏んでいる母を見て、「お母さんは洋服作りが好き」と思っていたけれども、もともとは祖母の影響だったのだ。


そんな超がつくほどの節約家だった祖母が、私が3歳になった時、あのリボンをデパートで買ってきた。祖母には珍しい買い物だった。父は装飾的で華美なものを好まず、母も私にわりと地味でシンプルな恰好をさせていたので、そのリボンは若干浮いていたと思う。
おしゃれをしたい盛りにおしゃれとは無縁で過ごし、戦時中のことゆえ自分の娘たちにもあまり華やかな恰好はさせられずにきた祖母は、孫娘が豪華な「おりぼん」をしているところを見たかったのかもしれない。
あるいは私が「おばあちゃん似」で、将来美人に育つ可能性がないのがわかって、せめて女の子らしいものを身に付けさせようとしたのかもしれない。



結婚した当時の祖母の写真を見ながら、”おりぼん女学生風”に描いてみた。ヘアスタイルの参考にしたのはポーラ文化研究所|やさしい化粧文化史 - 入門編 - 第9回より、一番下の写真。