稲葉+黒木「教養について」より抜粋

黒木 稲葉さんの『経済学という教養』を読んですごく共感したのは,悩んでるな,というところなんです.十年以上続いている日本の経済低迷のおもな原因は,政府と中央銀行によるマクロ経済政策の失敗にあります.各個人や各企業は経済低迷の原因になっていないし,それを解決する手段ももっていない.政府と中央銀行に経済政策の方針を転換してもらう以外に経済低迷を終わらせる手段は存在しない.この事実を(例えば稲葉さんの本を読んで)知った人たちの中には「政府や日銀にまともな経済政策をやってくれるように圧力をかけるしかないのか」「そもそも圧力をかけようにも相手をしてもらえないのではないか」などと無力感を感じざるを得ない.そのような無力感を稲葉さん自身も共有したうえで「いち抜けた」路線を否定しながら,「自分たちにできることはないのか」という問題に関して最終章でもがくことになる.そして,稲葉さんはその最終章で「目の肥えた観客」になろうだとか「まずは観客の質を上げて」のような提案をしています.その提案は僕の「アマチュア初段レヴェルを増やそう」という提案とほとんど同じものだと思います.あと,この本の最初の方には「ずぶの素人から,筋金入りの素人へ」という言葉もあったはず.これはまさに教養の問題です.しかし,稲葉さんは非常に悩んでいるように見えた.実際,その部分の歯切れは非常に悪いですよね.

稲葉振一郎+黒木玄「いかにして自分(と世の中)を変えるか:教養について」『InterCommunication』No.48, Spring 2004, pp.40-41)

〔黒木〕僕なんかは,大学というのはどうあるべきかということに関しては,だいぶ確信を持っていて,それは正しいことを発言することを守る場であるべきだと非常に単純に思っているんだけど,この正しいことを言うこともなかなかできない.単純な言い方をすると怒られる.
 でも,大抵の分野には非常に信頼性の高い部分と,異論が出て議論が収束しない部分とが両方あって,問題なのは,非常に信頼性が高いはずの部分がちゃんと伝わらないかたちになっていることです.
 例えば最近やっとわかってきた経済学にも妙な言いがかりがいっぱいある.理系のほうでは経済学はサイエンスではないというのが常識になっていて,文系のほうでは弱肉強食を正当化するためのイデオロギーに過ぎないと言われている.でも,そうじゃない信頼性の高い部分があるわけですよね.それを伝えることこそが一番大事なのに,マイナス部分ばかりが強調されすぎて,大事な部分に興味を持たれずにみんな通り過ぎているような感じなんです.

(Ibid., p.43)

2008-04-12追記

参照:「黒木玄×稲葉振一郎「いかにして自分(と世の中)を変えるのか」」− Economics Lovers Live

"13+ year-olds" の意味


下記の記事で「13歳以上」と訳されている部分の原文は "13+ year-olds" で,この文脈ではとくに「ティーンエイジャー」のことだと思います:

外部の観察者の目から見ると、13歳以上のユーザーFacebookMySpaceのようなソーシャルネットワーキングサイトを利用できるのはちょっとおかしいように思える。そこでは多くのユーザーが自分のジェンダーセクシャリティ、宗教について投稿しており、見るものを当惑させる可能性のある写真だって数多く存在する。しかし、この同じティーンエイジャーたちがウェブ検索を禁止されているのだ。これは間違いなく逆であるべきだ。
(「18歳未満は利用禁止?--グーグルのサービス利用規約を考える」(2/2),CNET Japan;強調引用者)


限定なしに「13歳以上」ですと,80歳のおじいちゃんまで含まれてしまいます.そうではなく,英語で "**-teen" となるのは13歳以上・19歳以下ですから,これを "13+ year-olds" と言っているわけです.

 もちろん,前後の文脈を見ればこの日本語記事だけでも文意は汲めますから,「誤訳」というほどではないでしょう.ただ,「ティーンエイジャー」と書いた方がわかりやすく,誤解が少ないかと思います.

 引用の最後にある「間違いなく逆であるべきだ」とは,ティーンエイジャーたちが (a)グーグルの検索を利用できて (b)ソーシャルネットワーキング・サイトは利用できない方がよい,という趣旨ですね.

チョムスキー:規則随順について


以前,サールが規則随順 (rule-following) について話しているインタビューを訳してご紹介しました(「おしえてサールせんせい:チョムスキーと規則随順問題」).一方,そこで批判されているチョムスキーは次のように述べています:

スウェーデン語とデンマーク語,規範と慣行,コトバの誤用,などの〕こういった諸概念に頼るのは,「ルール・フォローイング(規則に従うこと)」を説明しかつコミュニケーションという事実を説明するためである,というのが一般的な想定です.たとえば,ストローソンが1983年のウッドブリッジ講義においてヴィットゲンシュタイン流の論点を述べているように,ルール・フォローイングが根源的なところで存在していると認められるのは,共有されている共同体言語の習慣である,「『言語習慣の共通の協約』,つまりは共有された一つの生活形式,に関して,規則の使用あるいは適用の『正確さ』の基準が存在する場合だけなのです.これが「日常言語哲学」のドクトリンだというのは,日常言語というモノが実に異なった推移をするのですから,奇妙なことかもしれません.わたしの孫娘がかりに "I brang the book" と言うようなことがあっても,「共通の協約」に反して,「sing 〜 sang 〜 sung」という交替に関わっている規則に従っているのだと言い切ることができます.たしかに,孫娘の内言語が変化し, "brang" を "brought" で置き換えるでしょう.この置き換えがない場合には,ほかの多くの点は別にしてもまさにこの点で孫娘はわたしの言語とは異なった言語を話すことになるでしょうし,それも,この話がなにがしかの意味を持っている限りにおいては,その言語を「正しく」話すことになるのです.意味についての問題というのは,ほかの事柄とは異なっており,かつ,なにかしらより深遠である,と一般に考えられています.しかし,この点は論証されなければならないのです.もっと言うなら,意味の問題は単にほかの問題より判然としていないだけで,関係部分では異なってなどいない,と思われるのです.

 ルール・フォローイングが,あるいは一般的に心的状態や心的過程が,根源的なところで存在しているという場合には,意識の接近が必要である,というドクトリンを考えてみましょう.これは用語上の措定にすぎず,共通の慣用に反しており,科学がおこなうようなやりかたで言語と思考を探求する際には使えないのです.ですからこの措定をすると途端にさまざまな絶望的な問題が吹き出てくるのです.このドクトリンを,たとえばジョン・サールが最近いろいろ努力してこれまでの明白な問題点を回避しようとするように,「原理上の接近」という説明のない(したがって,思うに,わけのわからない)概念で補完したところで,このドクトリンはもっと不可解になるだけなのです.この点はほかのところで論じているので,ここでは述べないことにします.

チョムスキー『言語と思考』大石正幸=訳,松柏社,1999年,pp.14-5;原書:Language and Thought, 1994.)


とりあえずメモだけです.正直に言って,よくわからないもので.

NTT,クルーグマンをうならせる


もしかすると悪い意味で:

ふむ,こいつはぼくの理解を超えてるな
OK, this is truly beyond my comprehension

New York Times blog, April 8, 2008


どうやら,NTTがやろうとしている,好きな香りの情報を携帯電話にダウンロードするサービスのことのようです:

同サービスは、ユーザーがNTTドコモの携帯インターネット接続サービス「iモード」を介して「香るプレイリスト」と呼ばれる香りと映像や音声を連動して再生するコンテンツを携帯電話にダウンロードし、携帯電話内蔵の赤外線通信を使うなどして受信センサーを備えた専用のアロマポットに同リストを転送し再生する仕組み。200種類の香りに対応できるという。
(「携帯電話で「香り」をダウンロード、近くモニター実験を実施」−ロイター2008年04月08日)


もう少し詳しい記事は「携帯に「香るプレイリスト」 NTTコム「香り通信」新サービス実験」(ITmedia news)に.


 用途がさっぱり見当つきません.ぼくが携帯をもってないからでしょうか…….

Chapter 11: COMMON THEMES:[11-27]〜[11-29]


SFAA翻訳のお手伝い:


今日の範囲のうち,とくに [11-27] の訳は我ながらおかしいような気がします.何かお気づきの方は遠慮なくご指摘ください.

[11-27]

保存

システムの一部の側面には,つねに保存されるという優れた特性がある.ある場所で量が減るとちょうどそれと同じ分が別の場所に生じるのだ.システムが一定の量に閉じていて境界の内外に出入りするものがないとき,それ以外の点でシステムにどんな変化があろうとも内部の総量は変わらない.システムの内部でなにが起ころうと──その一部が分解してしまったり,爆発したり,崩壊したり,なんらかの点で変化しようとも──総量は厳密に一定のままとなる.たとえばある量のダイナマイトが爆発したとして,その全質量,運動量,その生成物(かけら,気体,熱,光など)のエネルギーは一定のままである.

[11-28]

対称性

総量の恒常性と並んで,形態の恒常性というものもある.ピンポン球はどこからみてもまったく同じに見える.他方で,タマゴは縦軸で回転させていると見え方は変わらないけれども,横軸で回転させると見え方が変わる.人間の顔は上下逆にすると非常に異なって見えるが,鏡の要領で左右を反転させた場合はそうでもない.八角形の道路標識やヒトデは,一定の角度で回転させた場合,見え方が変わらない.自然な形態の対称性は,対称的な発展過程を示している.たとえば,陶器が対称的なのは〔ろくろで回しているとき〕手の位置を変えないまま回転させて成形したためだ.陸生動物はほぼ全て,だいたい左右対称になっているが,これは初期胚における細胞の対称的な分布にさかのぼることができる.

[11-29]
しかし,対称性は幾何学だけの問題にとどまらない.数や記号の操作にも不変性がみられる.もっとも単純なものをあげるとしたら,足し算のX+Yの項を入れ替えても結果は同じになるということがそれにあたるかもしれない:X+Y=Y+Xだ.しかし,X-Yではまた対称性の種類がちがってくる:Y-XはX+Yの負数になる.より高度な数学では,非常に精妙な種類の対称性がでてくることもある.この世界の事物のふるまい方をモデル化するのに数学は広く使われているので,数学的な記述における対称性が物理現象の基底にある思いがけない対称性を示唆することもある.


 対応する原文はこちらです.

 これで11章は終わりのはず.

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