支援2日目<住吉小学校から石巻市立女子高校へ>(2011/04/13)

支援2日目<住吉小学校から石巻市立女子高校へ>

南三陸町立戸倉小学校(旧志津川町立戸倉小学校)。
石巻方面から南三陸町(旧志津川町)への入口にあたるところである。
これまでの道路は津波で破壊されたようだ。R45からかけられていた橋も落下して自衛隊によって仮設の橋?(小さな川を埋め立てて道路にしていた)が作られていた。
いままでの面影は、小学校の校舎ぐらいしかない。


朝日の昇る埋め立て地。少なくとも私の知っている光景ではない。


見えるはずのない場所から海が見えた。なつかしいふるさとは見知らぬ光景に変わり果ててしまった。「えぇ・・・」という言葉以外、発することができなかった。


小学校とは反対の風景。海から向かって山側になる。削られた山はもっと手前までせり出していた。


どこからきたのか?車はスクラップ状態であちこちに転がっている。


崖の上の家。高さは志津川病院の最上階程度だと思われる。1階部分は津波の被害を受けたようだ。


あまりの変わり様に写真を撮るのを忘れて通過してしまった。志津川病院を遠くから撮影。


鉄筋がむき出しになっていた建物。GSなのか?何なのか?見当もつかない。焼けたわけではないが、焼け野原というのはこういう光景なのだろうか?


我々が宿泊した施設。公民館のような建物である。一部畳敷きで大部分は板張りのフローリングである。もともとは分校があった場所のようである。所在地は旧豊里町と旧津山町の境目あたりである。石巻と南三陸の中間というとわかりやすいだろうか?


新潟県医師会以外は日赤の支援部隊が宿泊している施設であった。九州や長野など各地の日赤病院から支援に来ていた。九州ブロックの日赤チームにはお世話係のおばさんが滞在しており、おそらく、夜勤者の対応もしていたのだと思う。


住吉小学校訪問の最終日に校舎を一回りしていたら、黒板にさりげなく書置きがしてあった。児童から先生へ宛てたものなのか?避難者から先生へ宛てたものなのか?詳しいことはわからないが、この伝言が伝わることを祈る。


石巻市立女子高校である。避難場所として指定されているが、果たして何度目の避難場所なのだろうか?(これまでに何度避難場所として稼働したのであろうか?)


診療開始時間まであと1時間以上あったので、付近を視察に出かけた。


学校のすぐわきの小道を抜けると、公園の手前の広場で自衛隊が風呂と炊き出しの準備をしていた。


公園から石巻港方面を望む。眼下には全壊の家屋がひしめき合っている。


「戦争があったんだ・・・」と言ったら信じる人がいるかもしれないような光景である。ここも焼けてはいないが、一面の焼け野原というしかないような光景だ。


斎藤茂吉のながめた石巻の風景は、今は夢の跡となってしまった。


いろいろなものが折り重なってスクラップ化しており、原形がなんだったのかわからない状態だ。


右奥の大きな建物が石巻市立病院である。甚大な被害を受け、病院機能は停止したままである。病院の建物の陰になったからか、大きな寺院とその周辺の数本の木が残った。


自衛隊の重機がガレキを撤去している。上から眺めていると、撤去しているのか撒き散らしているのかよくわからないような光景に見えた。


北上川の向こう岸のかつての面影はわからない。ただ工場らしき建物が残っており、奥には撤去されないままの燃料タンクが傾いたまま残っていた。


自衛隊のみなさんである。任務途中の休憩なのか?これから被災地入りする前の状況確認なのか?集団で石巻港方向を眺めていた。


北上川の川岸付近は更地になっているように見える。家屋などがあって流失するなどの被害にあったのだと思われる。


市立女子高校(市女高)にある診療所。正式には新潟県医師会診療所とでもいうのだろうか。


中の診察室は2室。住吉小学校とは違い、乳幼児の医療ニーズもあるとのこと。看護協会の常駐看護師からの申し送りを確認し、午後の診療に備える。


午前の診療で不足した薬剤だけを患者(午前の受診者)さんが取りに来るという申し送りがあり、看護師と薬剤師とで申し送り内容の確認をしている。


診察室のある第3講義室の窓からの眺めである。被災地が丸見えになっている。


診察室の配置図。何度か配置換えをして現在があるらしい。


薬品の置いてある棚は、だいぶ乱雑になっていて、手の空いた時間に山崎さんと私とで少し整理をした。


受付周り。レターケースがカルテ入れである。カルテは基本的に1日1枚。同一人物のカルテはホッチキスで綴じてある。机の上にのっている伝言は4/4のもの。よく見ると不要なものがたくさんのっていた。


薬袋が足りないという前任者からの申し送りが毎回されているらしく、上越総合・信楽園・県立新発田などの薬袋がたくさん残っていた。記念に1枚撮ってみた。


市女高の常駐看護師と申し送り内容を確認中。この日の常駐看護師は新潟県の看護協会から派遣された看護師さんだった。


通路にはたくさんの紙おむつが積んであった。別の場所にも箱から出した紙おむつが未使用の状態で積んであった。


奥には災害用の公衆電話。写真を撮るタイミングでは誰もいなかったが、使っている人を結構頻繁に見かけた。


診療所の診療時間案内が貼り出されていた。これでは何のことなのかわからないのでは?と思い、「新潟県診療所(第3講義室)」と書き換え、受付時間も明記してきた。
もちろん道路事情により診療時間が変更になることがあるという注意書きも忘れずに!


ところ狭しといろいろな寄せ書きが貼り出されていた。多いのは「がんばろう」の言葉。ともすると、「何から頑張ればいいんだ?」とか「がんばってどうなるんだ?」という声も聞こえてきそうな気がする。


市女高の炊事場。校内にはここ1か所だけとのこと。各人が各々食べたいものを調理するのではなく、校内にいる避難者全員分を一度に調理するのだという。
避難所から出てきた若い女性に、荒木看護師が「今食べたいものは?」と問うと、「肉・魚が食べたい」と言っていた。


以前の「掟」?なのか?と思う。住吉小学校とは違って、自治組織が機能していた形跡がうかがえる。


小児科の水澤先生が、手が空いている時間に、黒板にトキの絵を描いた。五十嵐先生は女子高生が描いたものだと思っていたらしい。


診療所内の荷物を整理中に、大量の小児用薬剤が見つかった。


あまりの量に山崎さんも唖然。前任者から不足しているという申し送りで赤十字病院から小児薬を持参してきていた。この後、水澤先生を中心に力価量ごとに分類整理した。


市女高の玄関にある掲示板。「廃車でお困りの方へ」が印象的である。


この貼り紙を見て市女高の避難者がどの地域から来ているかがわかった。石中(石巻中学校)には兵庫県医師会が常駐しており、門中(門脇中学校)には佐渡総合病院が継続的に支援に入っている。


4/13帰任時、東北仏僧青年会が炊き出しをしていた。中には「岩手平泉寺」の字も見えた。陸前高田、大船渡、気仙沼、南三陸の支援は充分なのだろうか?と余計なことを考えてしまった。