panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

バンコク症候群---夕暮れの空白

  東京の夕刻時である。夜までちょっと時間があいて、書ける条件があるので、書きましょう。というのも、私の能力では、成田で孤独な散歩者の夢想を気取りながらネットに接続することが実はできない可能性がある。そこで、ここで、ちょっと訂正したい。成田ではただ下向きの孤独な2時間を過ごし、ルソーのようにすごすごと旅立つ公算が高いと。だからどうだというのだ。人間生まれてきたときは一人じゃないか。---気持ちは、どこかの家系ラーメン店の額装された下手な文章である。ふふふ、ふっ、、、。
  ともあれ、5月末の暑いバンコク、いってみれば晩夏のバンコクを少し経験しただけで、体が日本から離れ、ちょっと乾燥していい気温になると、猛烈に寒く感じるようになった。幽体離脱の気分である。何だかムシムシしつつも寒いのである。仕方ないから、これをバンコク症候群と名づける。バンコク症候群とは、いったん経験した暑さがために並の暑さではむしろ寒けを感じてしまうような仕組み、あるいは至高の体験のことである。ちなみにバンコク症候群はもっと拡大できる。たとえば日本のビールがいまは必要以上にまずく感じられる。この場合は暑さでなく、シンハビールが原因だ。
  ともあれ、タイカマだの舟木一夫陽気だの森田健作能力だのと同じく、この新概念(?)、バンコク症候群が活躍する場はきっと狭い。狭いがゆえに、しかし、私にはそれが愉悦に感じられる。「知る〈好く〈楽しむ」。孔子の知好楽であるね。愉悦=楽しむという心持ちを、狭い範囲の現実から得られるとき、その現実が一層愛おしく感じられるのであるが、これって私だけ?あるいはやっぱり変なのか。仕事柄もっと大きく現実をとらえようとするべきなのか(ま、実は他方でしているともいえるのだが。むしろ大きすぎる現実を相手にしているとすらいえるわけで、だから不評なのだが)。
  台湾の故宮博物館で私のもっとも感銘を受けたのは、皇帝が愛玩する選りすぐりの少数の小さな工芸品を、それらの形にくり抜いて納めた、これまた小さな箱であった。皇帝はこれをそばに置いて愛でたのであろう。全世界(マクロコスモス)の支配者である中華帝国の皇帝、これ以上広大な地を治める人はいないその皇帝、王のなかの王、人間のなかの人間が、結局、まことに小さな箱をよりどころにしていた、という風に思うとき、現実の全宇宙よりも心の小宇宙(ミクロコスモス)こそが、人間の帰るべき世界であるのだと、どうしても考えざるを得なかった。これは衝撃であったが、同時に既知なるもの、その確認でもあった。私にとって私だけの小さな概念は私にとっての皇帝の小箱である、こ、これは(山下清風に発話)。
  グレン・グールドの弾くバッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタを聴きながら。もうしばらくは聴くことがないだろう。日本ともしばらくオサラバである。オサラバ、騾馬の長ではない。
  写真は、バンコク症候群としてのシンハビール。すなわちビアシン。日本のビール会社はすべて潰れ、青島ビールとビアシンが制覇する日が来ることを切に願う。発泡酒などに血眼になって、何が先進国か。ああん?(喧嘩腰)高度な技術力をそんなことに使って、どうする気だろう、、、ですね(及び腰)。