高齢になってもその人らしく生活することの難しさ

peerclinic2014-01-29


 早いものでもう今日は最後の日です。
 午前中はお二人の高齢の単身女性のところに訪問に行きました。

 最初の方はグループホームに入っていらっしゃいました。それ以外の方はみなさん認知症。この方だけが双極性障害のある方です。一軒家に1人で暮らしていらしたのですが、うつのときは家事も何もできなくなってしまう、そうのときは鍋に火をかけたままどこかに出かけてしまう・・・ということで、ご家族の意向もあり現在はグループホームに入っています。規則正しい生活、定期的な服薬、保護された環境がもたらす安心感もあり、かなり安定していらっしゃるそうです。躁うつの波もゆるやかになってきたとのことでした。

 しかし、一方で、「利用者さん」になってしまっているのが気にもなります。
 「利用者さん」という言葉が象徴するとおり、その人がもともと持っていたさまざまなアイデンティティ・・・母親だったり◯◯県の××地方出身者だったり職業のこと、誰々のファン、地域で重宝がられていた役割などなどはある意味剥奪されてしまいます。
 もちろん、職員さんはその方の過去のエピソードなどを尊重していろいろな支援をされるとは思うしさまざまな実践が行われているのですが。

 この方は本当は一人暮らしがしたいとおっしゃっているとききました。その思いが現段階でどの程度あるのかにもよりますが、このまま「利用者さん」として日々を送っていくのが本当に望ましいのか・・・。しかし、入所にいたるエピソードや家族の歴史をおききすると、やむを得ないのかなあと思ったり。

 ほんのすこしだけこの方と接した私がどうこう言えるわけではないのですが、このようなケースでは結論がなかなか出ませんね。

不安だらけの単身生活

 次の訪問では、昨日も伺ったご家族が浜松市北区にお勤めの方です。この方も高齢で単身。しかも一軒家に暮らしています。
 「おれは何がなんだか分からないんだ〜」
 「どうしていいのかわからないんだ〜」
という言葉がよく出ます。

 実際のところ、賃料のことで不安になっておられます。事情がわかっているのでそのことを説明するのですが、了解できないようです。
 2週間前にご自分で行ったことの記憶が全くなくなっています。
 
 急激に自分が衰えてきた「頭がおかしくなったんだ〜」。そのなかで、どのように対処していけばいいのか見当がつかない。なので、不安だけが募る状態のようです。しかし、事情があり、現在は孤立した生活になっています。

 お金の支払などはきちんとされていますし、まだまだしっかりしたところもみられます。支援者との関係も良好です。今後さまざまなサービスが入り支援態勢が整えばお一人での生活が維持できそうにも思いますが・・・。
 来月私が伺った時にはいろいろなことが整理され、この方のすっきりした笑顔がみられるといいなあと祈るばかりです。

相馬市磯部地区のみなさんと

 
午後は、ぴあクリニックにもいらしたことのある伏見さんと柚木の仮設住宅へのサロン活動に参加させていただきました。
 偶然ではありますが、一昨日の27日お話を伺ったKさんもこの仮設住宅にいらっしゃいました。そして、サロン活動に参加された8名の方もみなKさんと同じ相馬市磯部地区で津波の被害に遭われた方たちです。
 最初は、同じ仮設の人のゴミ捨てのマナーに関する「探偵ですかぁ(汗)」とも思うようなあれこれの話題。ネコとカラスの生態に関する詳しい観察の数々。そんな話題を大笑いしながら話しておられました。
 その後、浜松から来た私に何か伝えたいことはないですかという伏見さんの促しもあったからなのか、いつとはなく、「あの日」自分はどんな経験をしたかの話となりました。
いろいろな方がいっぺんに話すし、方言で何を言っていらっしゃるのかわからないことも多く、うまく再現できません。ただ、みなさんの言葉の端々から感情の大きなうねりのような、大きなそれこそ波のようなものが私を圧倒しました。

最初の防災無線では非常に小さな津波の情報しかなかった。だから、たかをくくっていたけれども、「大きいぞ〜」という声もあって、必死に逃げた。この地域では大きな津波はかつてほとんどなかった。なので、「津波なんか来るわけないじゃないか〜」とたかをくくっていた人もたくさんいた。そういう人はみんな流されてしまった。

津波がきたら高台に逃げろ」と以前から教えられていたたからみんな高台のある南の方向に逃げた。
自分も津波が来るということで必死に車に乗って逃げようとしたが、高台に行こうとする道は渋滞していて、進まない。必死だったけれどもどうにか自分は逃げおおせた。けれども、逃げようとして結局波にさらわれた車もたくさんあった。助かった人と助からない人。その一線があった。

みんな国道6号を西に行けばよかったんだけどなあ〜。高台さ逃げたんだよな。それでやられちまったんだよな〜。

2度めの津波のときにドーンって音がしたなあ。あれって何だったんだ?
あれは波がこうやって(直角に)落ちたんだ。それでドーンってすごい音がしたんだよな。俺(女性だけれども方言で)は必死になって◯◯山のとこさ登ってな。やっと助かった。

波がドーンときて、もう全部流されて・・・俺はそれ見たからな。今も思い出すなあ。こうやって外の景色みてても、向こうの山が波に見えてくる。・・・死ぬまで見えるかもな。(PTSDの説明を簡単に受けたこともあって)夜中にそういうことふっと思い出して、胸が苦しくなってくるんだ。それもそうか?

 一昨日磯部地区に趣き、このブログのために磯部地区のことを調べたりYouTubeで確認したりもしていたので、みなさんのお話がけっこうリアルに聴こえました(あくまで私にとっては・・・のレベルではありますが)。


 本当に、大変なことが起きたのだ。



 その思い以外の思いは浮かびませんでした。

本当に、大変なことが起きたのだ

 その後運動なども行い、サロン活動はみなさんのたくさんの笑顔のうちに終わりました。最後のボールのゲームは、伏見さんの促しの巧みさもあって、みなさん実に楽しそうでした。

 そしてなごみに帰り、みなさんに挨拶をした後、バスの時刻の関係で、仙台行きのバスに乗りました。


 相馬からずっと海岸近くを北上して仙台へと至るルートです。新地町、山元町、名取市などを通っていきます。それぞれ、津波の被害が大きかったところです。名取の仙台空港の被害の甚大さは映像で目にしたことがある人が多いことでしょう。



これらの画像はそれぞれ津波の被害を受けたところです。まだこんな風にただただ平地になっています。
 今日の柚木仮設の磯辺地区のみなさんのお話。今まで自分が見聞してきたさまざまな映像やおはなし。2011年6月にも仙台で支援活動をしたのですが、そのときの荒浜近くの七郷のあたりの光景。
 いろいろなことがめぐってきました。


 本当に、大変なことが起きたのだ。

「大変なこと」とは知っていたつもりです。

 でも、こうやって訪れるたびに、その「大変なこと」がいかに「大変なこと」なのか、改めて思い知らされます。

 どうしてこんなことが起こってしまったのか。どうしてその方たちは波に飲まれなければいけなかったのか。どうしてそんなふうに生涯を終えなくてはいけなかったのか。
 そのことに関して、もちろん結論は出ません。ただ、そのようなことが起こったことを忘れてはいけないし、今後起こるであろう東南海地震に備えなければいけない。私たちはもっともっと、「3.11」について知ろうとしても良いのではないか。
 そんなふうに考えました。

コミュニティの中でのなごみさん

 伏見さんに、「なごみのHPに感想を載せたいのでお願いします」と言われました。いつもぴあクリニックに見学する人にもお願いしているのでやむをえませんね(苦笑)。以下がそのために書いたものです。ちょっと主語述語がつながっていないところもありますが、こんなことも感じました。

なごみさんに伺っての感想

 2012年11月下旬になごみさんにお邪魔して以来1年2ヶ月ぶりに伺いました。事務所も新しくなり、みなさんいっそうチームらしくなって活動している姿がまぶしかったです。

 特に印象に残ったのは、相馬・南相馬の精神保健福祉システムが構築されつつあり、その中でなごみさんがそのシステムの中で非常に重要な位置を占めていることでした。
仮設住宅でのサロン活動、さまざまな訪問活動、行政の方々との会議、地域の社会資源との交渉、啓発、支援者への支援などなど、この3日だけでもその活動は多岐にわたっていました。

 「相双に新しい精神科医療保健福祉システムをつくる」ことを使命としているのであるから当然といえば当然かもしれないけれども、でもそれを設立2年あまりで一定の達成をしていることに深い感銘を受けました。

 これは、なごみのスタッフのお一人お一人、そしてこの相馬・南相馬地域の関係者・住民の皆さんの熱い思いと尽力の賜物なのだろうと感じました。

 そして、北は北海道から南は沖縄まで(ときには海の向こうから)さまざまな地域からの支援のみなさんが、困難さを抱えるこの地域を支えようとされているからなのだろうと実感しました。

 私はこの1月27日から29日までと、2月・3月と合計3回9日間伺います。できることはささやかではありますが、少しでもお手伝いできることがあれば、幸いです。